• 2020.02.08 Saturday
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東北・太平洋沖地震
 諸々の事情で1サイクル書き込みを飛ばしてしまったこともあり、今回のお題目は何にしようかな〜と考えていた先週末、とんでもないことが起こってしまった。言うまでもなく東北・太平洋沖地震である。特に災害パニック映画を観ているかのような津波の猛威には言葉も無い。CGで巧みに表現された洪水や津波を画面で観ながら「迫力じゃな〜」などと言っていた自分が恥ずかしい。そして今週になっても続く余震、原子力発電所のトラブルなど、現実世界でのこととは思えないニュースが続いている。

そんな中でも、これほどの災害に見舞われながら規律を守り、思いやりの気持ちを持って行動する被災者の方々のマナーの良さが各国報道で絶賛されたり、いち早く支援、激励メッセージを送ってくれた各界著名人の方々の言動等には心温まるものがある。何とか被災者の方へのエネルギーになれば良いのだけれど。

僕が暮らす岡山県はホントに災害とは無縁の地域だ。揺れを感じる地震など、思い出すと言えば阪神大震災まで遡らなければならないし、毎年必ず死傷者が出る台風などの被害もほとんどない。だから今まで地震などの報道も、どこか遠い国の出来事のような、悪く言えば他人事のような印象しか無かった。しかし今回の地震はその規模、被害の凄まじさからとても他人事と割り切ることは出来ない。

特にショッキングだったのは、どこかの浜に数千人単位の遺体が打ち上げられている、という報道だ。人間がまるで魚の死骸のごとく打ち上げられているなど、例え戦争下であっても信じられない光景だ。そして自治体の方からは何とか土葬にできるよう許可を求める申し出があったらしい。通常の手続きが無くとも火葬できるよう決められたという話も伝わってきている。

打ち上げられた遺体は津波に流された人たちだ。津波は押し寄せられれば、その後は引いてゆく。となれば打ち上げられた人と同じくらいは沖へ流された人たちもいるはずだ。実際、沖へ流されて漂流しているところを救助された人もいるようだ。今現在行方不明になっている人たちの大半は沖へ流されていった人たちでは無かろうか。打ち上げられた遺体は写真撮影、DNA鑑定のための頭髪採取などが行われた後で火葬されるようだから、まだ身元を確認することができるだろうけれど、沖へ流された遺体はもう永遠に身元を確認することは出来ない。遺族の人にとってはある意味、身元確認でその死を認識せざるを得ない状況より辛いことになってしまう。


その昔、プロレスラージャイアント馬場さんが率いる全日本プロレスに、ハル薗田という選手がいた。体が小柄で、華やかさも無かったためスター選手にはなれなかったが、目立たないながらも前座試合を黙々とこなし、若手のコーチ役や団体の裏方的な仕事を率先して引き受けるなど、その真面目で実直な性格は多くの関係者、ファンから愛されていた。馬場さんはそんな薗田を高く評価し、特に目をかけ可愛がった。だから薗田から結婚の報告を受けたとき、何かしらのお祝いを贈りたいと考えた。

その頃、全日本プロレスが懇意にしていたとある海外のプロモーターから「南アフリカでプロレス興行を行うので全日本プロレスからも選手を1名派遣して欲しい」との申し出が馬場さんの元へ来ていた。馬場さんはその役目を薗田に任命した。前座試合中心の薗田に普段はたいしたギャラを払ってあげることはできない。海外への豪華な新婚旅行などできないだろう。しかし今回の南アフリカ遠征となれば経費は会社持ちだ。馬場さんは試合の後はゆっくりアフリカ観光でもしてこい、と薗田と薗田夫人用と2枚の航空券を手渡して二人を祝福した。

しかし1987年11月28日、二人を乗せた南アフリカ航空ボーイング747便は南アフリカ、ヨハネスブルグに向かう途中、インド洋沖で墜落する。乗客、乗務員159名全員が犠牲となった南アフリカ航空295便墜落事故。薗田夫妻を含む47名の日本人乗客も帰らぬ人となった。

自分が遠征に任命してさえいなければ。馬場さんはショックを受け、後日行われたメモリアルイベントでも人目をはばからず号泣し、挨拶に立ちながら一言も言葉を発することができなかった。

墜落したボーイング機はかなりの高速で海面に激突していたらしく、機体は粉々。また墜落した海域の深度が深かったため、残骸はほとんど引き上げられなかった。だから薗田夫妻の遺体も確認はされていない。

「もしかしたらどこかの無人島に漂流して生き残っているのではないか、そしてひょっこり帰ってくるのではないか」馬場さんは事故の数ヶ月後も、そんな思いを抱いて例え夜中であろうと玄関に物音がするたびに寝床から飛び起きたという。

幼少時、馬場さんには年齢の離れたお兄さんがいた。太平洋戦争で徴兵され、帰らぬ人となった。しかし、遺体は回収されることもなく、その死を断言してくれる人も仲間の復員兵の中には誰一人いなかった。

「きっとどこかで生きている、そして帰ってきてくれる」馬場さんの母親は息子の死を信じることが出来なかった。馬場さんの故郷は冬の積雪が厳しい新潟県三条市。雪が降り積もる冬の夜、どんなに深夜であっても屋根の雪が落ちてくるドサッという物音にさえ母親は息子が帰ってきたのでは、と飛び起きていたらしい。そして現実に気づきすすり泣く母の気配。まだ幼かった馬場少年はそんな母親の姿を大人になるまで忘れることは出来なかったらしい。

薗田の帰りを待ちわびて、決して叶わない奇跡を信じる自分の姿に馬場さんはかつての母親の姿を重ねあわせていたに違いない。事故から12年後の1999年、馬場さんは永眠するが、亡くなる直前まで薗田の帰りを信じ続けていたのでは無いだろうか。


人は遺体に対面して初めてその死を認識する。決して答えてくれることが無いのは分かっているけれど何度も何度も話しかけ、身繕いを整えてあげる。担ぐ棺桶の重さを実感し、最後は火葬のスイッチを自ら押して別れを告げる。しかし遺体に対面できなければその死は永遠に信じることはできない。「きっとどこかで」その思いを永遠に断ち切ることはできない。

数千とも1万人とも言われる今回の東北・太平洋沖地震での行方不明者。今後はさらに増えるとも言われている。この先、街が復興し、何事も無かったような生活が戻るとしても、行方不明者の遺族の方々の悲しみは消えることがない。直接的な被害も大変だけれど、この先永遠に続く遺族の方の心境を思うと何ともやりきれない。死後の世界など信じているわけではないけれど、今回離ればなれになった人たちがたとえ現世では無理でも、どこかで必ず会える日がくると信じたい。そして今も懸命に行方不明者の捜索を続けている自衛隊を始め各国の救援部隊の方々に微力ながらもエールと感謝を贈ると共に、一人でも多くの人が奇跡の生還を果たすことを心から願わずにはいられない。


日本映画について思う
 ちょいと古い話になって恐縮だけど、元日に衛星放送で映画「アバター」を観た。ウワサ通り確かに映像はスゴかったが、ストーリーの方は単純な勧善懲悪。絵に書いたような悪役が登場して、結局最後は派手なドンパチ。録画はしたけれど二度と観ることはないだろうな〜と思う。劇場での3D画面を体験すればまた違うのだろうけど、それにしても何度も観ることは無いだろうし。ネット上の意見で「アメリカ人が『もののけ姫』を作るとこうなる」なんていう例えもあったけれど言い得て妙。神というものの存在を描きながらも、最後はきっちりシロクロつけるぜ、なんていうところはハリウッド映画だな〜と思ってしまう。

この映画、ジェームズ・キャメロン監督が12年前から構想を温めていたとか。12年も温めてこれ?と思ってしまうのだが、12年もの長きにわたり自分の理想の映画を追い続けられる、というのは素晴らしいことだ。内容はどうあれ、キャメロン監督の熱烈な思いからスタートしているだけに、良くも悪くもブレがない。徹底してるなっていう感じ。後は観た人がどう評価するか、だし。


ここ数年、日本映画が元気なようだ。しかしやたら目に付くのは著名な原作の映画化、というやつ。既に確固たる地位を築いている人気漫画から最新のベストセラー小説まで、とにかく片っ端から映画になる。そしてオリジナルの熱烈なファンからは猛烈なバッシングが浴びせられる。特に主演が人気だけのタレントだったりするとどうしようもない。そして最終的には「日本映画はオリジナル脚本で勝負できる力は無いのか?」「このままでは優秀な脚本家、監督が育たない」という嘆きになる。

しかし考えてみれば映画ほどリスクのある産業は無い。映画というやつは基本、試作というものが作れない。音楽であればレコーディングの前にデモテープというものを作る。小説であっても草稿というものがある。それを基に商品化するか否かの議論もできるし、手直しをすることもできる。もちろん映画だってプリプロと称する準備段階はある。脚本、キャスティングやロケの計画書などを作ることもできる。しかしどう頑張っても完成されたものを予測するのは難しい。しかし、その段階で莫大な制作費は必要なのだ。音楽や小説、絵画と違って、映画は一人では作れないし、お金が無ければ一歩も前へは進まない。


周防正行という映画監督がいる。2007年に公開された、痴漢冤罪をテーマにした作品「それでもボクはやってない」が最新作。その周防監督、1991年に「シコふんじゃった」という作品を完成させた。本木雅弘扮する大学生が弱小相撲部で奮闘する姿を描いたコメディ映画。残念ながら僕は観たことが無いのだが、ユニークなテーマでそれなりに話題になったし、興行収入だってそこそこだったと思う。そして周防監督は次回作に取りかかるべく、新たな脚本と企画書を用意してスポンサー探しを始める。ところがどのスポンサーもまったく相手にしてくれない。周防監督は脚本を基に熱心に売り込むのだが、誰も関心を示してくれないのだ。最終的には日本テレビがスポンサーとなって作品は完成した。その作品は「shall we ダンス?」。数々の映画賞に輝き、その年の邦画第2位の興行収益を上げ、後にハリウッドでリメークまでされることになる作品が、企画の段階ではどのスポンサーからも無視されたということ。「シコふんじゃった」でそれなりの実績を上げた周防監督でさえ、こうなのである。


1970年代、文庫本と映画のメディアミックス戦略で一大ブームを巻き起こした「角川映画」。その仕掛人となったのは角川書店当時の社長、角川春樹氏。強引な仕掛けと破天荒な言動で業界の風雲児と呼ばれ、向かうところ怖いものなしの角川氏だったが、映画製作に関しては勝手が違ったようだ。角川映画第一作となったのは横溝正史原作のミステリー「犬神家の一族」。横溝氏のエッセイには、角川氏が決してメディア相手には見せない弱音を横溝氏に漏らしていたことが記されている。

「映画製作は厳しいです。こちらがどんなに資本を投入しても興行が当たらなければ何にもなりません」

常に自信満々、傲慢なまでに辣腕を振るう角川氏にさえ弱音を吐かせてしまう、それが映画産業の怖さ、難しさなのだ。


周防監督の持ち込んだ脚本が本人オリジナルの「shall we ダンス?」では無く、「あしたのジョー」や「宇宙戦艦ヤマト」だったらスポンサーの心は動いたかも知れない。主演がジャニーズタレントだったら、お金を出してもいいかな、という人もいたかも知れない。誰がどう文句を言おうとそれが現実だ。ましてやスポンサーは企業だ。お金を出すとなれば遊びや心意気で出すわけにはいかない。

大手広告代理店が人気の原作、人気のタレントを使ってまず企画を出す。この原作はこれだけ多くの人に支持されている、このタレントはこれだけ多くのファンがいる、だからこれだけの観客動員は確実です、と分厚いマーケティング資料を持ってプレゼンする。それに釣られてスポンサーが集まったところで、監督を指名する。監督はあくまで依頼された状態で映画製作に取りかかる。そこにはあらゆる制約があり、監督にはどうしても雇われている感が付いて回る。映画監督がサラリーマン化してしまうのだ。そこに映画人としての情熱がどれだけ込められるのか、少々疑問も残る。

有名な原作の映画化を請け負った監督は、インタビューでは必ずといっていいほど「いやあ、前からこの作品を映画化したいと思ってたんですよ」とか言うけれど、ホントかな?と思ってしまう。もし別のスポンサーが現れて、いくらでも予算は出すから好きな映画を作りなさい、と言われてもその原作を選ぶのだろうか?


周防正行監督の最新作がこの4月に公開されるらしい。「喜劇俳優チャップリンの名作映画をバレエで表現した作品」とのことだが派手な話題性も無いし、大手スポンサーが付いていないのかどうか、宣伝とかもされている気配が無い。何せ「shall we ダンス?」から15年も過ぎたのに、その間作った映画は2007年の「それでもボクはやってない」の1本のみ。「それでもボクはやってない」は「shall we ダンス?」の成功後、どうしても取り上げたいという痴漢冤罪のテーマを自ら取材、調査して作り上げた作品らしい。オリジナル脚本にこだわる、自分が作りたいテーマにこだわる、その分スポンサー選びには苦労しているんじゃないだろうか。ニュースの紹介文を見ると「寡作ながらも上質な作品を作り続ける」とあるが、映画産業の難しさを考えると本人の意思はともかく、寡作にならざるを得ないのも現実。でも安易な人気原作の映画化の話には乗って欲しく無いな〜と思ってしまう。

ある日、我が家の庭を掘ったら油田が見つかったとする。(あるかい!)たちまち億万長者ということになれば100億円くらい融資してあげてもいいんだけれど。

気分も新たに「ココロザシ」について考える
 元旦の朝のこと、中学1年の娘に「あけおめ、ことよろ」などと挨拶された。何のこっちゃ、と聞いてみると「あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします」を縮めたもんだとか。いつになく日本語の乱れを危惧してしまった元旦ではあったのだが、ともかく2011年がスタート、気持ちも切り替えて新年の初書き込み。というわけで今回は少し真面目に「志し」について考えてみる。


昨年、僕にとってのMVPはミュージシャンの氷室京介だった。CM出演、テレビ番組の密着取材、4年振りのアルバム発表、全国ツアーと、ここ数年で最もニュースが多いこともあったけれど、やはり本人が50歳という節目を迎えてのいろいろなコメントは興味深かった。

「出口の見えない中でも、チャンスがある限りは一歩でも踏み出さないと」十分過ぎるお金と名誉を手に入れながら、なおも挑戦していこうとする姿勢にはいろいろと考えさせられる。相手はスターだから、自分たちとは住む世界が違うから。もちろんそうだが、学べる姿勢は大きいと思うのだ。


以前、地元のデザイン学校で臨時講師なるものをしたことがある。確か2004年のこと、3日間の授業の最後に僕は「自分のライバルは氷室京介」などと話した。一部の学生は明らかに「アホか」という顔をしていたが、これにはちゃんと理由がある。

実はその年、氷室は東京ドーム公演を成功させていた。あちらはドームに5万人、こちらはこの教室に30人ほど。でも「思いを伝える」ということでは同じこと。学生の君たちがデザイナーとして会社に入って、まず最初に回ってくる仕事は小さなビラとかスーパーのチラシとかだったりする。こんな仕事をするためにデザイナーを目指したんじゃないやい!という気持ちも分かるけれど、デザイン専門誌に取り上げられるようなポスターも、近所のスーパーのチラシも、情報を伝えて人を集める、という目的は同じだ。どんな小さな仕事でも、その目的を理解して、表現方法を考えて、自分の持てる全力で取り組むこと。それを地道に続けていれば、周囲に認められて大きな仕事が回ってくるチャンスも増えるだろうし、そのチャンスをものにできる力を蓄えておくこともできる。

大切なのは「志し」を常に高く持つこと。ココロザシとは、心のモノサシ。スーパーの求人チラシも、大きなイベントのポスターも、取り組むモチベーションのサイズを同じに計れるモノサシを持つことが大切だし、それが志しを高く持つことだと思う。

てなことを話したような記憶がある。まあ、学生たちにどれだけ思いが伝わったかどうかは分からない。よそ見している奴もいたし、居眠りしている奴もいたしね。氷室の東京ドームライブで居眠りしてる奴なんかはいないだろうけど。いや、5万人に1人くらいはいたかも知れない。興味ないけど無理矢理付き合わされた人とかね。


若い人は知らないだろうけど、1970年代後半から1980年代前半、甲斐バンドというグループが活動していた。リーダーでボーカルの甲斐よしひろを中心とした4人組ロックバンド。1979年「HERO〜ヒーローになるとき、それは今」がNo1ヒットを記録、その後数々のヒット曲を連発、数万人規模のライブイベントを成功させるなど、絶大な人気を集めていた。1986年、バンドは解散したのだけれど、その後幾度となく再結成を繰り返し、ややファンをシラケさせてしまったのは残念。

甲斐よしひろの実家は九州、福岡市の理髪店だ。お店は甲斐のお兄さんが継いでいる。甲斐バンド全盛時、甲斐が実家に帰省したときのこと。お兄さんが甲斐にこんな質問をした。

「おまえ、毎日歌っていてあきないのか?」

甲斐バンドは低迷していた時代から、年間150本に及ぶライブをこなしてきた筋金入りのライブバンドだった。年間150本といえば、ほぼ2〜3日に一回、ライブをやっているわけで、いくらスポットライトと歓声を浴びているとはいえ、さすがにあきるのではないか。お兄さんにしてみれば、人気スターになった弟に一般庶民としての単純な疑問をぶつけてみたのだろう。

すると甲斐は「あきないよ」と答えた。なぜなら何百回ライブをやっても完璧なものはない。今日はあの曲のボーカルが今ひとつだった、あの曲のギターソロは少しノリが違った、とか。ライブが終わればメンバーでミーティングし、次のライブではそこに力を入れる。しかしまたどこかに満足できないところが出てくる。その次のライブはまたそこに、というわけで一度として同じライブはない。だからこそあきないのだ、と。

するとお兄さんは「そうか、散髪屋も同じだな」

理髪店にもほぼ1ヶ月サイクルで同じお客さんがやってくる。うまくカットできなかったところがあれば、お兄さんは次に同じお客さんがきたときに、そこに全力を込めてカットするのだそうだ。No1ヒットを連発し、何万人もの客を動員するロックスターも、いち地方の理髪師も、そのモチベーションの原点は変わらない。

「人生はザッツエンターテイメント。誰もが一瞬、一瞬に自分を賭けている。それはどんな職業であっても同じなんだよね」

甲斐はそのときの感想を、自著の中にこう記している。


随分前に観たテレビのドキュメンタリー番組。ニューヨークのスラム街にある小さなホテルでドアマンとして働く黒人の青年に「将来の夢は?」と聞く。答えは「世界一のドアマンになりたい」

お客がやってきたら荷物を受取り、部屋まで案内する。確かにドアマンの仕事は地味で単純に見える。しかし荷物の持ち方ひとつとっても、どの位置で荷物を受け取るのが良いか、など日々疑問を投げかけながら工夫していけば、彼はやがて世界一のドアマンになれるかも知れない。何の栄光も祝福も無いだろうけど、そのココロザシの高さはオリンピックの金メダルやノーベル賞を目指すことと比べても何ら変わることがない。

何かのビジネス書で読んだのだが、大阪のとあるホテルチェーンのドアマンの話。彼はお客が来ると車に駆け寄り、そのお客を名前で呼んで挨拶する。もちろんチェックイン前だからお客は名前を名乗っていない。なのに名前で呼ばれるから驚くし、まあ、いい気分になる。かのリッツカールトンホテルはフロントとドアマンがインカムで連絡を取り合い、お客の名前を伝え合うらしいが、彼はそんなハイテクなことはしていない。彼は休日を利用してお客の会社を回り、駐車場の車のナンバーをメモしていったのだそうだ。それを頭に叩き込み、玄関に到着した車のナンバーですべてのお客の名前が分かる、という訳らしい。そのうち、人々は彼のことをこう呼び始める。

「もしかしたら日本一のドアマンちゃうか?」


元日の夜、いいテレビ番組がないな〜と嘆きつつチャンネルを変えていると、WOWOWにて女性テクノポップユニット「Perfume」の東京ドームライブが放映されていた。結成10周年を記念して昨年11月に行われた、彼女らにとっても初の東京ドームでのライブ。個人的な楽曲の好き嫌いはともかく、彼女らの世間での好感度は非常に高い。それは彼女らが長い下積みを経ていることろにある。それでいて謙虚な姿勢が多くの人々に共感を持って評価されているようだ。

何かの映像で、彼女らが無名時代、少しでも名前を覚えてもらおうと、自分たちの写真と名前が入ったポケットティッシュを街角で配っているシーンを見たことがある。今日の成功を前提に考えれば「まあ、そういう時代もあるよね」と気軽に言えるが、全く先の見えない中、地道にティッシュ配りをするのはなかなか辛そうな気がする。しかし、東京ドームライブのアンコール前、メンバーのひとり(ごめん、名前分からない)がこんな発言をした。

「苦労人だね、とよく言われるけど、今まで無駄なことはひとつも無かった」

露骨にイヤそうな顔をして通り過ぎる人を相手のティッシュ配りも、5万人の視線を一身に集めるドームライブも、彼女らのココロザシの中では同じサイズだったということだ。ティッシュ配りを惨めで無駄なこと、と計っていれば今日の彼女らは無かった。もし同じように成功していても、これほどの好感度は得られていないはずだ。


というわけで今年は志しを高く持っていきたいな〜と秘かに思ったりする。もちろんそこには強い行動力が必要だ。氷室京介が以前、何かのインタビューで好きな言葉は?の質問にこう答えていた。

Action speaks louder than words.

アメリカの諺らしいが、直訳すれば「行動は言葉より雄弁」といったところか。

氷室曰く「どんなに偉そうに言葉を並べる奴より、実際に行動を起こす奴の方が100倍カッコいいと思うんだよね」いやいや新年早々、かなり耳が痛いっす。

久々に聴いたSIONの歌に思う
 しかし、気付けば今年ももう残すところあと半月。光陰矢の如し、とはよくいったもので、僕がブログを書き込むのも今回が年内ラストになる。昨年末は確か今年一年のマイMVP、自分にとって最も関心が高かった人物について書き込んだと思う。ということで今回のお題目もそれにしようかと思っていたのだけれど、それより先に少し気になることがあって、それは来年頭に回すことにした。


前回、大河ドラマ「龍馬伝」の最終回について書き込んだのだが、今回はその続き。といっても「龍馬伝」そのものについてではない。実は最終回、龍馬を暗殺する見廻組のメンバーの一人としてミュージシャンのSION(シオン)が出演した。SIONといっても恐らく誰も知らないと思うのだが、本名は藤野秀樹、1960年生まれ。1986年にシンガーソングライターとしてデビュー、独特のハスキーボイスと特異な風貌で注目を浴びるものの、現在に至るまでヒット曲は一曲も無いし、マスメディアに取り上げられることもほとんど無い。熱心なファンに支えられて音楽活動は続けているものの、その姿をテレビで見ることなどまずあり得ない。それが画面に写る時間は数十秒、セリフも無いに等しいといえども大河ドラマに出演とはどういうことか?

実は福山雅治が以前からSIONを敬愛していて、曲をカバーしたり、レコーディングに参加したりと、交流を続けている。その絡みもあって、福山の方から出演を打診したのでは無いかと思うのである。このあたり、大河ドラマといえども福山のミュージシャンとしてのこだわりと遊び心が垣間見えてなかなか興味深い。

僕にとってのSIONといえば、デビューアルバムは好きでよく聴いていたのだが、その後は何となく離れてしまい、次第に関心も薄れていった。しかし今回、久しぶりにSIONの姿をテレビで観て、薄れかけていた記憶が蘇り、ネット上で何曲かを聴いてみた。その中で1990年発表のアルバムに収録されているこの一曲が気になった。


「12号室」作詞・作曲 SION


彼女は美しかった 真っ白な顔をしてた

きれいな髪をしてた 声もやわらかだった

彼女の室はいつも 花の香りがした

いい香りがした ものすごくあったかかった

彼女は人もうらやむほどの ほとんどをそこでは持ってた 


そこに入る訳は 8つの俺でも解っていた

今より良くなるために 必要だと解っていた

そこは動物園だった みんな変な形をしてた

「仲間ですよ」と紹介された こんがらがって涙が出てきた

こんな変なやつらの 仲間でも友達でもないと


一週間話せなかった 誰とも話せなかった

全部嫌いになった ご飯も嫌いになった

その日もベッドの中で じっと息を殺してると

誰かが布団の中に 手紙を突っ込んでいった

「よかったら12号室の私の所に遊びにおいで」と


彼女は微笑んでいた ベッドに体を起こし

ものすごいきれいだった 泣きたいくらいきれいだった

ほんの少し話をした 本当はもっと話したかったけど

恥ずかしくてどうしようもなくて そこに来て初めて表に駆け出した

表に出て彼女の前で 走ったことをすぐに悔やんだ


彼女と話したその日から ほんの少しづつだけど

誰かの問いに答えたり 誰かに話しかけれるようになった

何人かの友達もできて やっとそこの暮らしに

やっとそこの暮らしに慣れてきた 3ヶ月目の朝突然言われた

「ここにいても君の場合はなんにもならない 君も家に帰りたいだろう」


みんなとは違うと言われ ここに入ってきて

やっとやっとここに慣れたのに ここも違うらしい

4時間電車に乗って 元いた教室に戻った

懐かしいはずのクラスの顔 顔 みんなよその国の人に見えた

「今日からまた仲間です」と 先生は俺を紹介した


彼女は美しかった 彼女は美しかった

きれいな髪をしてた 声もやわらかだった

彼女の室はいつも 花の香りがした

いい香りがした ものすごいあったかかった

彼女は全てを持ってた 白く長いはずの二本の足を除けば


彼女は美しかった 彼女は美しかった


この曲は、SION自身の幼少時の実体験がベースになっているらしい。それは彼が幼い頃に小児麻痺を患ったことによる、施設への入院だとも言われている。もちろん歌詞の解釈はどうとでもとれるだろう。しかし、美しいメロディーの中、淡々と何かを語りかけるかのようなSIONのボーカルを聴くと心が締め付けられるような気分になる。

困惑の中、心を閉ざす少年と、少年をやさしく見守る女性。そして少年の心の変化。そして訪れる別れ。人の真の美しさとは?この一曲の中に様々なドラマを思い浮かべることができる。テレビやラジオで流れることは絶対に無いけれど、強烈に心に残る一曲。興味のある人はぜひご一聴を。


「龍馬伝」をきっかけにして、久々に触れたSIONの歌声。何故か泣けてくる。年齢のせいなのか、この季節のせいなのか分からないけれど。でも誰もみんな懸命に生きている〜SIONのメッセージが何気に心に痛い年の瀬。

「龍馬伝」最終回に思う
 このブログでも今まで何度か話題にしてきたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が先週、最終回を迎えた。ついこの前スタートしたばかり、の印象が強いけれどもう1年近く経つわけで、相変わらず時の流れは早過ぎる。NHKが新しい大河ドラマを、との意気込みで取り組んだという「龍馬伝」、ネットで感想をいろいろと見てみると評価がハッキリと分かれている。5段階評価で満点の5を付けている人も多いけれど、最低点の1を付けている人も同じくらい多い。まあ、新しいものに挑戦すれば賛否分かれるのも仕方無いし、アンチの人も結局は番組を観る訳だから「嫌われるのも人気がある証拠」と割り切ればNHKとすれば「してやったり」というところか。

よくよく見てみると、アンチ派の意見はほぼ2つに集約されているように思える。ひとつは史実をあまりにも無視した脚本への苦言、もうひとつは主演の福山雅治の演技に対する批判である。前者は、確かに?マークが付く展開もいろいろとあったけれど、あくまでもドラマなのだからあまり細かなことを言っても仕方ないとは思う。それと福山雅治の演技についてだが、あそこまで芸達者な俳優さんたちに囲まれればこれはどうにもならない。福山は俳優としてのキャリアもそれなりにあるが、やはり本業はミュージシャンなのだし、それは最初から分かっていたことじゃん、とも思う。


本格的にロケが始まる前のこと、岩崎弥太郎を演じた香川照之は、武市半平太役の大森南朋とともに、福山のライブに出かけたらしい。そこで1万人以上のオーディエンスを自在に熱狂させる福山の姿を見て「こんなスーパースターと共演するのか」と驚嘆したという。ミュージシャンの、特にライブでの表現スタイルは感情とエネルギーの「放出」である。時にはエゴイスティックなまでに自分を押し出し、ステージを支配しなければ、とてもじゃないが万単位の人の心を打つことはできない。そこにあるのは非日常の空間だ。

しかし、俳優の表現スタイルはあくまで役柄になり切ることがメインで、ときには自分を殺さなければならない。感情を内面に秘め、そこから滲み出るエネルギーをドラマという日常の枠内で表現しなければならない。元々表現スタイルのベクトルが違うのだ。とあるプロデューサーが大森南朋のことを「自分の主張を消し去った演技ができる」と高く評価したという。大森南朋について、僕はほとんど知識が無かったのだが、武市半平太のイメージじゃないな〜、と思っていた。しかし、回を追うにつれて見事に武市になっていった。それは「演じた」というより「なった」という方が似つかわしいくらいの自然で見事な演技だった。厳格であるがゆえに、理想主義者であるがゆえに悲劇を迎えてしまう武市の無念な人生を、終始感情を抑えた演技の中に見事に表現したと思う。まさに「自分の主張を消し去った演技」というものの凄みがそこあった。


以前にもブログで取り上げたことのある俳優、故松田優作。彼がアクションスターから演技派へと転向してゆくきっかけになった作品が1981年公開の「陽炎座」。そこで優作は独自の映像美学を持つ鈴木清順監督と出会う。鈴木清順58歳、優作32歳、その初対面の挨拶のときのこと。鈴木はいきなり優作の周囲の地面に直径1mの円を描いた。

戸惑う優作に鈴木は「松田くん、今から走る演技をしなさい。しかし、円の中から一歩も外へ出てはいけません」

直径1mの円の中から出るな、ということは一歩も動くな、ということである。その中で走れ、というのだ。鈴木はそのときのことを後年こう語っている。「松田くんはそれまでアクションで自分を表現してきた。だから彼からアクションを取り去ろうと思ったんです」

アクション、それは「放出」であり「主張」である。それを消し去ることで演技する。実際に手足を動かすのでは無く「走る」という表現をどう演技するか。優作は鈴木との出会いによって「演ずる」ということの奥深さを知らされるのである。

その後1986年、「ア・ホーマンス」という作品で優作は自身初めてとなる監督業に挑戦する。優作は共演にロックバンドARBのボーカリストだった石橋凌を起用した。石橋が演じたのは純粋で正義感が強いがために組織に裏切られてしまうヤクザの幹部、山崎道夫の役。山崎が組織に復讐するクライマックスシーンの前、自宅で一緒に暮らす恋人とともに朝食をとるシーンがある。その日、山崎は単身で組織への復讐を決めている。自分も刺し違えて死ぬつもりだ。愛する恋人との食事もこれが最後になるのだ。もちろん恋人はそのことを知らない。

石橋は優作に、このシーン、思い切り叫びたい、と提案した。自分の不器用な生き方の為に不幸を背負わせてしまう恋人に思い切り自分の胸の内を叫びたい。しかし優作は「その叫びを表現すればいい。しかしこのシーン、ひと言もセリフはない。黙ったままでその叫びを表現しろ」

声にして叫ばなくても、過剰なアクションをしなくても、表情、目線の動き、スプーンと皿の音、日常のすべてを使って「叫び」を表現する。石橋がミュージシャンとして培ってきた「放出」を優作は消そうとした。石橋は葛藤しながらも山崎道夫を演じきり、その年のキネマ旬報新人男優賞を受賞する。

優作はかつて鈴木清順に教え込まれた演技の凄みを今度は石橋に叩き込んだのだ。自分を消し去り、「放出」するべきエネルギーを内面に閉じ込める、それは同じ表現であっても、ミュージシャンのそれとは決定的に違うのである。


福山雅治はこの1年、ホントによく働いていた。ベテラン俳優でも相当のプレッシャーがかかる大河ドラマの主役をやりつつ、その間も週2本のラジオのレギュラーは休むこと無く、しかもベスト盤のリリース準備や新曲制作などの音楽活動も継続。福山は年末のカウントダウンライブ、さらに年明けから数十万人規模を動員するアリーナツアーを敢行するようだが、それくらいの大規模ツアーになれば準備にも相当の時間がかかる。スタッフとの調整、ライブの構成の打ち合わせなど、その多くは龍馬伝ロケと同時進行だったのでは無いだろうか。

そんな状態で「やたらと力が入り過ぎで空回り、見ていてしらける」「誰を演じていても福山雅治にしか見えない」などという批判は少々気の毒な気もする。NHKだって福山人気を当て込んでの起用だったのだろうし。しかし、福山雅治のキャラクター、知名度、人気だけが重視されての起用であれば、それは本来の俳優としての価値評価とはズレてしまうと言わざるを得ない。映画やドラマに多くのジャニーズタレントが起用されるのは彼らの演技力もさることながら、人気、知名度が評価されてのものだろう。もちろん、それも含めて本人の力だし別に悪いことでは無いけれど。

何だかんだ言っても福山は大河ドラマの主役によって知名度は国民的になった。先般発売されたベスト盤CDもよく売れているようだし、噂される紅白歌合戦への出場、さらに年明けからのアリーナツアーを成功させればその人気は盤石のものになりそうだ。その人気を見込んで俳優としてのオファーもさらに増えるだろう。今後福山がどこに軸足を置いて活動していくのか。個人的には音楽に主眼を置いて欲しいと思う。俳優をするとしても、福山雅治のキャラクターで出来る範囲内で止めておくべき。それは福山の演技力がどうこうでは無い。演ずる、ということはもっとシビアで凄みのある、決してミュージシャンとしての成功と両立できるようなものであっては欲しくないと思うからだ。もちろん、福山が本格的に役者をやりたいのならそれでもいい。しかしそのときはミュージシャンとしての露出は一切封印してもらいたいと思うのは僕だけだろうか。


「龍馬伝」のキャスト、前述も大森南朋も良かったし、予想を覆す名演を見せてくれた岡田以蔵役の佐藤健も良かったが、高杉晋作を演じた伊勢谷友介は実にカッコ良かった。出番が少なかったのは仕方ないけれど、高杉の持つ飄々とした中に見え隠れするエキセントリックさを上手く表現していたように思う。幕末を長州藩の視点から描いた大河ドラマといえば1977年の「花神」があるが、伊勢谷高杉を主人公にしてもう一度リメイクしてくれないかな〜。

ダマされる快感
 昨年の12月、このブログに推理小説にハマった話しを書いた。あれから約1年、読んだ推理小説は50冊近く、我ながら飽きもせずよく読んだもんだ。今でも決して飽きているわけでは無いから、久々に長く続く趣味になっている。以前にも書いたことがあるが、この1年で推理小説のトリックのひとつである「叙述トリック」というジャンルに何度もダマされてきた。もちろん、推理小説において「ダマされる」というのが最高の快感であることは間違いない。今回はこの「叙述トリック」をお題目にしたい。

※以下、東野圭吾作「回廊亭の殺人」および「容疑者xの献身」についてネタバレしている。万一これから読もうとしている人がいたらこれより先に進まないでいただきたい。


東野圭吾さんの作品に「回廊亭の殺人」という小説がある。主人公の「私」は、ある実業家一族の遺産相続を巡るトラブルに巻き込まれ、恋人の里中二郎という男性に騙されて事故に見せかけて殺されかけてしまう。何とか命をとりとめた「私」は、自分を裏切った里中二郎、そして二郎を手引きしたと思われる一族の人間に復讐するべく、遠縁にあたる老婆に変装し一族の前に現れる。そこでまた新たな連続殺人事件が発生してしまう、といったストーリーだ。物語の冒頭、最初の殺人事件で皆が右往左往する中、一族の顧問弁護士である古木弁護士が助手を連れて登場する。以下はその助手である鯵沢弘美(あじさわひろみ)という人物についての文中での描写である。


◎鯵沢弘美が一族の前で自己紹介する場面

「鯵沢弘美といいます。古木弁護士の助手をさせていただいております。」はきはきとした口調で答える。整った顔、若々しい肌、隣で加奈江(一族の一人)が「綺麗な人」と呟いた。

◎その後、「私」が古木弁護士に鯵沢弘美について質問する場面

「あの子は知人に頼まれてうちで面倒みることになったんです。よくやってくれます。お茶くみや雑用など、最近の女の子なら嫌がるようなことでもね、おまけに勉強熱心だし。」

「加奈江さんが綺麗な人だわって言ってました。」

私がそう伝えると古木弁護士は

「確かにそうですな。年頃だし、おかしな虫がつかないように気をつけなければなりません。もっともあの子はしっかりしてますし、大丈夫だとは思いますが。」


さて、読者はこの鯵沢弘美という人物についてどんなイメージを持つだろうか。有能だがよく気がつく弁護士修行中の女性、僕は頭の中に髪をポニーテールに結んでパンツスーツに身を包んだ長澤まさみさんなんかを思い浮かべながら読んでいた。長澤まさみはともかく、大方の読者は女性をイメージするに違いない。

しかし、この文中に鯵沢弘美が女性であると断定した表現はどこにも無いのである。弘美という名前は女性限定では無いし、「綺麗な人」という評価も女性だけにあてはまる訳では無い。「お茶くみや雑用など、最近の女の子なら嫌がるようなことでも」という説明も、ただの一般論としての比較であり、鯵沢弘美が女性であるという説明にはなっていない。「年頃だし、おかしな虫がつかないように気をつけなければなりません。」というのも決して女性にのみあてはまる言い方では無い。(反則スレスレではあるが。)

実はこの鯵沢弘美こそ、かつて「私」を裏切った里中二郎なのである。もちろん「私」はそのことを知っている。そして作中に登場する人たちは鯵沢弘美が男性であることは知っている。読者だけが鯵沢弘美を女性と思い込んでしまっているわけだ。そしてクライマックスで鯵沢弘美の正体が明らかになり見事「ダマされた〜。」となるのである。

このように特定の事実を文章の書き方(叙述)で読者に誤認させるやり方を「叙述トリック」と呼ぶ。もちろん、物語のところどころに巧みな伏線が張られている。カンのいい読者なら、弘美という男性女性どちらでもとれる名前、文中に女性を限定させる表現(彼女は、とか、〜だわ、といった言葉使い)が一切ないことに疑問を抱くかも知れない。もしかしたら男性なのかも知れない、ひょっとしてコイツが里中二郎じゃないか、と推理する人もいるだろう。それが作者と読者の知恵比べであり、推理小説の面白いところでもある。ちなみに映像化されることの多い東野作品だが、本作を原作通りに映像化することは不可能だろう。「叙述」トリックは小説ならでは、読者が自由にその場面をイメージできるところを逆手にとったトリックなのだ。


しかしこの「叙述トリック」にも問題が発生する場合がある。もともと推理小説には、事件に関する客観的な事実はすべて読者に開示されていなければならない、という暗黙のルールがある。例えば「読者への挑戦」というページが入った推理小説がある。いよいよ事件の全容解明、という場面の前に1ページの扉が入る。そこには「読者への挑戦」という見出しのもとに作者からこんなメッセージが記されている。

「この事件の解決に必要な情報はすべて文中にてオープンにされている。それらを整理して論理的に考えれば事件の謎は解ける筈である。読者諸君の健闘を祈る。」

といった挑発的なメッセージだ。このように、作中に登場する人物と読者とが同じ情報を共有することが推理小説における「フェアプレイ」なのである。

しかし「叙述トリック」は意図的にその情報を隠すことで成り立つ。これが非常にグレーゾーンであり、前述の鯵沢弘美の件でも、文中において「女性である」との表現はない。もし女性と思い込んだのなら、それはあくまで読者の勝手な勘違いであり、作者が意図的に隠した訳では無いことになる。どこまでが「フェアプレイ」なのか、そこが微妙なのだ。


同じく東野圭吾さんの作品である「容疑者xの献身」。ベストセラーになり、映画化もされた東野さんの代表作だ。この作品、第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を同時受賞して話題になったのだが、一部の推理作家や評論家がその受賞に異議を唱えたのである。

ある母娘がしつこくつきまとう元夫と口論になり揉み合いの中で殺害してしまう。アパートの隣室に住む数学教師は物音でそれに気付き、かねてから想いを寄せていた母娘のために殺害の偽装工作を決意する。そして12月3日早朝、死体が発見される。顔と指の指紋が損壊されてはいたが、遺留品から身元を突き止めた警察は死亡推定時刻から割り出した前夜、12月2日の夜のアリバイを追求する。しかし母娘には確固としたアリバイがあった。しかし母娘が殺害に関与したのは事実である。何故アリバイがあるのか?

実は死体発見の日付が12月3日であることは事実として表記されているのだが、母娘が実際に殺害を行った日付は作中のどこにも表記されていないのである。ネタを明かせば、実際に殺害が行われたのは前々日の12月1日の夜なのである。そして、その翌日の12月2日は作中に一切描かれず、殺害のシーンからすぐに12月3日の死体発見のシーンになるため、あたかも殺害が12月2日の夜のように読者は錯覚してしまうのだ。

真相はこう。12月1日の夜、母娘の殺害を知った数学教師は死体を人知れず処分する。そして翌12月2日の夜に身元不明の浮浪者を殺害、母娘の元夫の遺留品を持たせて遺棄したのである。つまり12月2日の夜は母娘による殺害は行われておらず、アリバイを作ることができたのである。

ややこしい話しで恐縮だが、どちらにせよ実際の犯行の日付が意図的に隠されていたことは間違いない。もちろん、ヒントになるような巧みな伏線は張られている。しかし、推理小説のルールである「事件に関する客観的事実はすべて明らかにされていなければならない。」からは確かに外れている。となると、本作は推理小説としては成り立たない、直木賞を受賞するのは勝手だが、本格ミステリ大賞を受賞する資格は無い、というのが反論側の言い分なのだ。そんな小難しいことに何でムキになるの?との声も聞こえてきそうだが、細かなディティールにこだわり、いろいろと論争してみるのも推理小説好きの習性であり、面白さなのである。

この論争は結局、多くの意見により反論の方が否定された形になった。確かに微妙であり難しい問題だが、推理小説の醍醐味は「ダマされる」ことにある。小難しい理屈はさておいて大いにダマされてみる方がカシコイってもんだ。


さてここ1年で読んだ推理小説の中で特に印象に残った「叙述トリック」物を3作ほど、

■「葉桜の季節に君を想うということ」歌野晶午

「叙述トリック」物というより、ここ1年で読んだ中では文句なくベスト1。「叙述トリック」物というと、いかにもといった感じで紛らわしい人物設定や込み入ったストーリー展開があったりするのだが、本作はすっきりと小気味良いテンポでとても読みやすい。それでいてそれまで頭の中で築いてきたイメージがひっくり返るような大逆転があるからこれはたまらない。正直、僕はこの作品を未読の人が羨ましい。できることなら本作を読んだという記憶をすべて消し去り、もう一度この作品に出会いたいと思う。

■「ハサミ男」殊能将之

本作が「叙述トリック」の傑作ということは事前に知っていた。それまでもいろんな作品でダマされてきた僕はとにかく注意深く読んだ、つもりだった。どこかに不自然な記述はないか、紛らわしい表現は無いか、細心の注意を払ったのだが最後はやはり見事にダマされた。こんな作品に出会うたび、単細胞な頭脳に生んでくれた両親に感謝してしまう。

■「アリス・ミラー城殺人事件」北山猛邦

これはある意味、究極の「叙述トリック」だ。完全に反則というか、あまりの凄さに読み終わった後にも訳が分からず、詳しく説明してくれているサイトを見て初めて納得することができた。こんなことを思いつき、しかも作品に仕上げてしまう推理作家の頭の中はいったいどんな構造なのかと不思議で仕方ない。


上記3作には多少劣るが「ある閉ざされた雪の山荘で」東野圭吾、「倒錯のロンド」折原一、「殺戮にいたる病」我孫子武丸なんかも面白かった。そうでなくても欺瞞と疑惑に満ちた日常、「どうせダマされるなら気持ちよくダマされてみたい!」と思う人はぜひどうぞ。


氷室京介という生き方
 ちょうど先週末の日曜日のことになるが、久しぶりにとあるアーティストのライブに出かけた。そのアーティストの名は氷室京介。僕自身、氷室京介のライブは今回で3回目になるが、いつも通りライブのクオリティは高いものだったし、発売後即ソールドアウトになっただけあってオーディエンスのノリもとにかく凄まじかった(ホント、ハンパ無かった)。個人的な好き嫌いは別にしても非常に満足度の高いライブだったと言える。バンド時代を含めると実に25年近いキャリアの氷室京介だが、僕が関心を持ち始めたのはほんの5〜6年前からのこと。楽曲の魅力もさることながら、その生き方に強い興味を引かれたのがきっかけだ。


氷室京介、この名前を聞いて反応する人は恐らく30歳代後半以降の人たちじゃないかな。1980年代、今や伝説となったバンド、BOOWYのボーカリストとしてスターダムにのし上がる。1988年のバンド解散後はすぐにソロに転向、次々にヒット曲を世に送り1993年にはアルバムがミリオンセールスを記録、名実共にJ-POPの頂点に立った。しかし、この頃から氷室を取り巻く環境が少しずつ変化する。彼は当時の状況をこう語っている。

「レコード会社も事務所も、周りがみんなイエスマンになっちゃうんですよね。」

芸能界というのは一人のスターを中心に、まるで王国を形成するかのように多くの人が動くことで成り立っている。スターは国王のごとく君臨し、周りのスタッフたちは国王のために働くことで収入を得るわけだ。だから国王が何を言おうと、何をしようと、「ノー」は許されない。それを口にした途端、王国からは追い出され路頭に迷うことになるからである。余談だが昨今の芸能界の不祥事もそこに要因がある。国王のすることが仮に反社会的なものであっても、誰もそれを咎めるわけにはいかない。咎めることは自らの破滅につながる。もちろん、一部の不届きものの国王に限っての話しだけどね。

氷室の場合、彼が反社会的行為を行った訳ではないが、いろいろな人がフィフティフィフティの立場で意見を出し合い、クオリティを高めていくべき音楽活動において、周りが単なるイエスマンになってしまうのは少々問題有りだ。特に氷室は完全主義者で、自分が納得いくまでレコーディングには妥協を許さない。当然スタジオに入る時間も長くなり、それはスタッフも同じだ。そんなとき、スタッフが本当に自分と思いを同じくして付き合ってくれているのだろうか、自分が言うことだから仕方なく従っているのでは無いのだろうか。思い詰めた氷室はやがて人間不信に陥り、軽度の自律神経失調症を伴い、スタジオに入ることさえ苦痛になるようになっていく。

思い悩んだ氷室は1994年、家族を連れてロサンゼルス(以下、LA)への移住を決意。同時に個人事務所、個人レーベルを立ち上げ、日本の音楽システムからは一線を引いた立場に自分を置いた。LAでの氷室は自宅スタジオを拠点に目星を付けた現地のミュージシャンに自らオファーし、セッションを行うようになる。日本でのスター、氷室京介もLAではただの一人の日本人ミュージシャンでしかない。そしてアメリカ人のミュージシャンは皆シビアでプロ意識が高い。上下の関係なく、いいものはいい、ダメなものはダメ、とハッキリ口にする。日米の価値観の違いを氷室はこう語っている。

「普通に生活する分にはオレも日本人だし、お互い譲り合う日本式がいい。でも仕事をするなら絶対にアメリカ式がいいですね。」

LA移住に伴い、氷室京介の名前はJ-POPシーンの最前線からは遠ざかったが、彼の音楽性は格段に進化した。僕もよく聴くのは圧倒的に渡米以降のアルバムだ。もともと氷室が持つメロディメーカーとしての実力と洋楽ならではのドライブ感、キレのよいビートが調和し、サウンドは骨太になり聞き応えは渡米前のものとは比較にならない。しかし、同時にJ-POP的な「いい曲」、誰もがカラオケで歌えるような気軽さは無くなった。また、LAに住み、なおかつ音楽以外の活動を一切行わない氷室のニュースはほとんど日本のメディアに出てくることが無くなったが、その存在はやがて「孤高」「カリスマ」と称されるようになり多くのファンを惹き付ける。


今年、氷室は3年9ヶ月振りにニューアルバムを発表した。渡米後12年の集大成と本人が言うだけあって実によく出来たアルバムだ。いわゆる「誰が聴いてもいい曲」というのは一切無いので人に勧められるアルバムでは無いけれど(それでもオリコン2位になるのだから氷室信者のすそ野はけっこう広い)さすがに4年近い時間をかけただけ、サウンドには一分の隙も無い。お気軽なカバーアルバムや熱狂的ファンの複数買いを狙って握手券なんぞを付けたCDがバカ売れしてしまう昨今(もちろん、それが悪いというつもりはない)こんなアルバムに出会えることはうれしい。もちろんこれは人気絶頂の頃に、そこに胡座をかくことなく高みを目指してLAへと移住した氷室の生き方、音楽への取り組み方から生まれたものだ。

「決して誰かに評価されるために音楽をやっているんじゃない、というところにフォーカスできたのはやはりLAに来てからですね。」

今年9月に日本テレビのニュース番組でのインタビューに氷室はこう答えている。

「自分に才能が無いところもしっかりと受け入れて、そのための準備は怠らない。歌える権利が与えられているうちは例え暗闇の中でも一歩を踏み出さなきゃいけないんですよね。自らそれを放棄してはいけない。それがオレにとってのミッション(使命)だと思うんです。」

自らの戦う相手はいつも自分、と言い切る氷室。25年に及ぶキャリアを持ちながら、決して奢ることの無いその姿勢に多くのファン熱狂する。

ライブはニューアルバムを中心に構成されていた。氷室ほどの実績があれば過去の多くのヒット曲を並べれば手堅い構成はできる。しかしそれをやってしまったら既にミュージシャンではない。過去のヒット曲を看板にバラエティ番組の常連になっている元ミュージシャンもいる。もちろんどんな活動をしようと自由だが、肩書きにミュージシャンと付けるのは止めていただきたい。音楽にしろ何にしろ、アーティストと呼ばれる人たちは決してお気楽になってはいけない。

今年10月に50歳を迎えた氷室は、年末の日本武道館でのカウントダウンライブを含む来年2月まで続く50本もの全国ツアーを行っている。自身の年齢については

「他の50いくつの人に気持ちでは絶対負けてないぞ、ってあるじゃないですか。もしそれが出来なくなったら辞めるつもりでいますよ。ええ、それは公言していいです。」

いやいや、50歳といわず60歳でも70歳でも今と変わらず尖っていて欲しいっす。


ところでウチには中学1年の娘がいる。いつの日か娘と一緒に氷室ライブに行くのが僕のささやかな夢でもあるのだが、彼女は現在「いきものがかり」(最初名前聞いたときはお笑い芸人かホラー映画のタイトルかと思った)のファンらしく、氷室京介のことは「コーラのCMで見たことあるカッコつけたオジサン」になるらしい。以前、ツアーグッズのTシャツをお土産代わりに買ってあげたことがある。アーティストのオフィシャルグッズだから当然のことながら背中には「KYOSUKE HIMURO」とプリントされている。

娘「いいけど、これ着て外は歩けないよ。」

僕「何で?」

娘「だって知らないオジサンに『君、氷室のファンなの?』なんて話しかけられたりしたらイヤじゃん。」

僕「………(何にも言えねえ)。」

う〜む、父親のささやかな夢は当分かなえられそうに無い。


怪獣映画は世界を救う、のか?
 以前にブログで、怪獣映画をお題目にして書かせてもらったことがある。そのとき僕は「怪獣映画の灯は永遠に消えた」と書いたが、その後になって仰天するニュースを耳にした。何とゴジラ映画がまたまたアメリカで制作される、というではないか。しかも3Dになるらしい。公開は2012年というからかなり先の話しになるが(その頃には3Dなんて死語じゃないの?)途中で頓挫しなければ久々に怪獣映画が復活することになる。
しかし思い出されるのは1998年のハリウッド版「ゴジラ」だ。話題にはなったものの、世界中のゴジラファンからはブーイングの嵐、興行的にも成功したとは言えず、続編の話しも立ち消えになってしまったようだ。なのにまたハリウッドでゴジラを作るのか?という疑問もあるけれど、制作プロデューサーいわく「従来のゴジラの世界観に沿ったものにする」とか。恐らく日本で作られた第一作のゴジラ、原点に立ち返る、という意味合いなんだろうけど、それについてはいろいろと考えさせられることがある。


ハリウッド版ゴジラ公開のときにこんな意見があった。アメリカ人は自分たちが一番偉い、強い、と思っているから怪獣は徹底的に貶めてやっつけないと気が済まない、という。だからハリウッド版ゴジラは魚を食べて、子供まで生んでいた。「怪獣」であるゴジラは繁殖機能、排泄(食事をするのだから当然ね)まで伴う「生物」に貶められてしまったのである。しかも最後は吊り橋のワイヤーに絡まって身動き取れなくなるという(確か…記憶が曖昧)何とも惨めな姿でジ・エンド。そりゃないぜ、と思わず愚痴も言いたくなる。


イギリスのネス湖に生息するという未確認生物、ネッシーをご存知だろうか。古代の恐竜の生き残りじゃないか、ということで一時期、それらしい写真やビデオが公開されて世界的な関心を集めていたけれど、ここ数十年、新しいニュースがないから若い世代には知らない人も多いのではなかろうか。

何かの本で読んだのだが、アメリカ人の生物学者とかいう人がネッシー生存説に反論していた。彼の言い分はこうだ。「ネス湖の魚の生息数から見ても、そんな巨大生物が生きていけるだけの食糧があるとは思えない」つまりエサとなるべき魚がいない湖で巨大な生物が生きていけるわけが無い、故にネッシーなどいるわけが無い、というのが言い分だ。もちろんそれは正論だ。しかし相手が生物ならばその論理は通用するが怪獣となると話しは違ってくる。

平成「ガメラ」シリーズでは、ガメラは古代人が作り出した地球の守護神ということだ。守護神、つまり「神」である。「ねえ、神様って何食べてるの?ウンチとかするのかな〜」なんて子供の疑問じゃあるまいし、聞くだけ野暮ってもんだ。もちろんネッシーは怪獣でもないし、神でもない。しかし、何でもかんでも自分たちの決めたモノサシに合わせようという強引な考え方では、怪獣にロマンを求めるのはちと無理がある。


随分前の話しだが、とある法事の席でお坊さんと雑談をすることがあった。ちょうどアメリカで9.11同時多発テロが起こったすぐ後のこともあり、キリスト教、イスラム教と仏教の違いとは?なんていう話しになった。まだ若そうなそのお坊さんは「仏教は自然の中に神様がいる、という考え方なんです。」キリスト教もイスラム教も敬うべき対象が非常に狭い、という。狭いからこそ、敵対する。その範囲に入らないものは否定し、排除しようとする。だから紛争が起こるのだ、とも。

なるほど自然の中に神(信仰すべき対象)がいるのなら、敵対する相手のそばにもいるわけだし、そもそも自然を破壊してしまうテロや戦争は道理が通らない。自分たちを超えたもの、自然に対する畏敬の念があれば、それを支配などはできないし、常に一歩引いて奥ゆかしくならなければならない。

最近は見ることがほとんどできないが、昔は家に蚊帳(かや)というものがあった。僕も小さな頃、田舎の実家でかすかに記憶がある。蚊を見つけたら、辺り構わずにすぐに殺虫剤を吹きかけるのではなく、昔の人は蚊帳を作って自分たちと蚊(自然)の共生を考えたのだ。まあ蚊取り線香なんかも昔からあったけど、殺虫剤や、部屋まるごとを煙で殺虫するのに比べたら随分と平和的な武器だ。

また、下駄という履物は地面に接する部分が極端に少ない。それは地面にいる草花、虫や微生物をなるべく踏みつけないようにする、という考え方では無かろうか。問答無用でアスファルトやコンクリートで踏み固めて歩きやすくするのでは無く、もともとそこにある自然の邪魔をなるべくしないように、という配慮ではないかと思うのだ。


前述のガメラ、環境の激変(もちろん人間の仕業だ)により地球のエネルギーの磁場が狂い、凶悪な怪獣ギャオスが生まれる。そこに古代人が作り出した守護神ガメラが立ち向かう。ゴジラ第一作、人類の水爆実験により眠りを覚まされたゴジラが蘇り、日本を襲う。いずれも自然を恐れることなく支配しようとする人間のエゴに対する神の怒りである。もともと人間が立ち向かい勝てる相手では無いのである。確かにゴジラ第一作では芹沢博士の作り出した化学兵器オキシジェン・デストロイヤーでゴジラは倒される。しかし芹沢博士もゴジラと共に自らの命を絶つ。オキシジェン・デストロイヤーが悪用されるのを防ぐため、という理由もあるが、彼の死は言わば生け贄だと思う。人間の一方的な勝利にはしない、できない。何故なら怪獣を生み出したのは人間の悪行であり、エゴだからである。


9.11同時多発テロについては様々な憶測が流れている。イラク攻撃を正当化するためのアメリカの自作自演だという説もある。もちろん真相は分らない。しかし、そのアメリカで本当に「従来の世界観に沿った」怪獣映画が作れるのだろうか。怪獣映画の難しさは、怪獣の存在意義をどこに落ち着けるか、にかかっている。平成ガメラシリーズがファンに受け入れられたのは、それに真面目に向き合ったからだ。それは同時に(怪獣を生み出した)自らの負の行いを認めることでもある。突然現れて破壊の限りを尽くす、人類には何の責任も無い、ひたすらミサイルを撃ちまくって怪獣を惨めに倒せばいい、そんな都合のよい脚本など観たくはないと思うのだ。3DだろうがCGだろうが、根底に骨太な思想がなければ怪獣映画に命は宿らない、と思うのは昭和世代の怪獣映画少年の勝手な幻想なんだろうか。


1971年、「ゴジラ対ヘドラ」という映画が公開された。ヘドラとはその名の通り、ヘドロと宇宙生物が合体して生まれた怪獣だ。当時日本全国でヘドロなどの公害が社会問題となっていたから、まさにタイムリーな企画だったわけだ。この頃のゴジラシリーズは完全に子供向けの映画になっていたけど、この作品は全編サイケで退廃的なテイストにあふれていて、ファンの間ではいまだにカルト的人気が高い。公開当時、僕は小学生だったけど、この作品が大好きで親にねだって2回も映画館に観に行かせてもらった記憶がある。

暴れ回るヘドラに全く歯が立たない人間たち。そこへゴジラが登場、死闘の末にヘドラを倒す。ラストシーン、闘い終わって立ち去るゴジラがふと振り返り、見守る人間たちに向かって遠吠えする。ヘドラの攻撃で手は白骨化し、片目は焼けただれ、ボロボロになりながらの遠吠えは決して勝利の雄叫びでは無かった。ヘドラを生み出した人類への怒り、やるせなさなのだ。それは子供心にも、悲しく切なく響いた。悪者が一方的に倒されればすべて良し、では無いこと。それを教えてもらった気がするのだ。


今でも世界中で争いが終わることはない。我々の身近でも中国との緊張関係など、決して他人事では無い。争いごとでなくても、環境は日々破壊され続けている。映画で世界が変わるなんてことはないけれど、ここはひとつ世界中へメッセージを発信できるような骨太な怪獣映画を作り出してもらいたいと思う。ハリウッドはできればお金と最新のCG技術だけ出してもらって、制作は平成ガメラシリーズのスタッフで作ってもらえないかな〜。


夏がくれば甲子園、ということで
 日本の夏の風物詩といえばいろいろとあるけれど、やはり甲子園の高校野球は外せない。ちょうど先週土曜日に決勝戦が終わったばかり。沖縄県代表の興南高校が見事に春夏連覇を成し遂げて大会を締めくくった。僕は別に高校野球のファンでは無いが、やはり高校球児がひたむきに戦っている姿には心打たれるものがあるね〜。(オッサン臭っ)地元の学校の試合は何だかんだいって気にはなるし。

今回、我らが地元からは倉敷商業高校(以下倉商)が出場。実は倉商は昨年の夏の甲子園にも出場、そのときは1回戦で敗れてしまった。実は長男の同級生の友人が倉商に通っている。昨年の敗退時にその友人が「来年の倉商は強いよ〜、特にピッチャーがスゴイ。」と言っていたのを長男から聞いていた。それは期待できそうじゃん、と思っていたら今年見事県大会を勝ち抜いて2年連続で甲子園出場を決めた。ところが1回戦のくじ運がちょいと悪い。何と相手はあの早稲田実業。2006年にハンカチ王子こと斎藤佑樹投手を擁して日本一に輝いたのは記憶に新しいし、伝統のある甲子園の常連校。高校野球に興味の無い人でもその学校名には聞き覚えがあるはずだ。

しかし高校野球のこと、何が起こるか分らない、と期待するも残念ながら2-0で敗れてしまった。しかし、2回戦で中京大中京高校から21点を奪った早稲田実業の強力打線をわずか4安打、2失点に抑えたのは大したものだ。僕自身、試合は観れていないのだが、奪われた2点も守備のエラー絡みだったらしい。そう考えると長男の友人の言葉通り、ピッチャーはなかなかの実力者だったのだろう。くじ運に恵まれていれば、もう少し勝ち進んでいたかも知れない。


しかし全国4000を超えるチームの中で、甲子園の晴舞台に立てるだけでも立派なことだ。僕は毎日電車通勤で山陽本線を利用しているけれど、その線路沿いに倉敷工業高校の練習グラウンドがある。倉敷工業は近いところでは昨年の春の選抜で甲子園に出場、地元でも名前の通った実力校だ。でもってそのグラウンド、電車の窓からすぐ見えるのだが日曜であろうと祝日であろうと、無人の状態というのをまず見かけることが無い。練習中か、朝早くであれば補欠と思われる選手が地面を馴らしていたり、とにかく誰かがいる。

また、僕の住んでいる玉島には玉島商業高校という学校がある。1974年の夏の大会以来、随分と長いこと甲子園には行けていないが、県予選では毎年そこそこ上位に食い込んでいる。昨年の夏、お盆休みの真っ最中、たまたま学校の前をクルマで通り過ぎたのだが、野球部が普通に練習していたのには驚かされた。県予選大会が終了し、季節的には一区切りつくシーズンオフのはずだし、世間はお盆休みなのだ。高校生にはお盆休みなど関係ないように思うが、親戚が集まったり、家族揃って帰省や旅行など、それなりに予定もあったりするだろう。練習が休みになるのはお正月だけ、なんていうのを聞いたこともある。甲子園を狙うような学校はまあ、ハンパじゃないね〜と改めて思わされた次第。

しかしそうやって高校生活のすべてを練習に打ち込んでも、甲子園に行ける学校はごくわずか。中には高校3年間、一度も試合に出られない、それどころかベンチにすら入れない、という選手だって多いだろう。前述の倉敷工業グラウンドの話し。電車に乗っていると、休日など遊びに繰り出す高校生のグループと出くわすことがある。映画でも観に行くのか、男の子も女の子もめいっぱいオシャレをして楽しそうにはしゃいでいる。その窓の向こうのグラウンドでは、汗と泥にまみれて真っ黒に日焼した坊主頭の選手たち。もちろん価値観は人それぞれ。どちらが幸福かどうか、などと野暮なことは言えない。


実は30数年前、高校2年生とき、僕の通っていた学校が夏の甲子園に出場した。もちろん後にも先にも(まあ、未来のことは分らないけどね)このときの1回きり。事前に前評判が高かったワケではないし、甲子園に行ける実力があったかどうかは分らない。しかし高校野球、実力通りにコトは運ばない。とにもかくにも県大会を勝ち抜き、甲子園行きが決まったのだ。それからがスゴかった。父兄、関係者を含めて学校中が大騒ぎ。何度か甲子園を経験していればノウハウもあるのだろうが、何せ初めてのこと。僕たち生徒は直接は知らないけれど、準備、資金集め、段取り、と大変だったに違いない。とにかく応援団すら正式には存在していなかったのだ。運動部が毎年そこそこに活躍している学校であれば応援団も自然に整備され、応援の仕方も上手になるのだろうけれど。そこで急遽、他の運動部のメンバーが狩り出され、にわか仕込みの応援団になった。夏の真っ盛りに詰め襟の学生服を着せられ「まったく、カンベンして欲しいよな〜。」とボヤく友人の姿を今も思い出す。でもまだ救われるのは、岡山県にとって甲子園のある兵庫県はお隣の県だということだ。これが東日本、東北地方となるとホント、大変だと思う。頑張った野球部には申し訳ないが、関係者とすればいい迷惑、というところが本音じゃ無いだろうか。

そんなこんなで迎えた甲子園大会。運が良いことに第1試合だった。いくら応援の練習を繰り返しても、実際の甲子園のスタンドに行ってみないと人の配置など予定通りにいくかどうか分らない。第1試合であれば早めに会場入りして細かな配置とかを調整できる。それはラッキーだったのだが、1回戦の相手が悪かった。当時強豪校として名前が通っていた沖縄県代表の豊見城(とみしろ)高校。後にドラフトでプロ野球の道に進み、現在も中日ドラゴンズでコーチを務めている4番打者の石嶺選手が人気を集め、前評判も高かった。案の定、健闘虚しく9-2で敗退。しかし、僕にとっても初めて体験する甲子園という独特の空間、いろいろと思い出深い体験が多かった。

最終回の9回裏、2アウトからヒットが出た。しかし普通ランナーが一人出塁したぐらいで、9回裏で7点差があればまず勝敗は決まった、と思うだろう。観客席にいれば帰り支度を始めたり、飲食物を買いに席を離れたり、テレビ観戦ならまずチャンネルを変えるところだ。しかし、応援席で全員で肩を組んでワッセ、ワッセとやってると、不思議なことに「絶対勝てる、いける。」と本気で思ってしまうのだ。「どーせダメじゃん、7点も差があるのに。」などとは口が裂けても言えない状況なのは確かだ。しかし、そんなひねくれた意味ではなく、心の底から「勝てる、逆転できる。」と信じ込んでいた気がする。それが群集心理というものなのか、と後になって考えた。よくデモや暴動で、拳銃で威嚇する警官隊にひるむことなく立ち向かう群衆の姿をニュース映像などで見ることがあるが、それと同じ心理状態に違い無い。もちろん、まだうら若き高校生の頃、回りの熱気や「信じれば叶う。」といった青臭い思いに突き動かされる純粋さがあったんだろうし。しかし7点差でもこう思うのだから、1点差で迎える最終回など、どんだけ舞い上がるか、考えるだけでも恐ろしい。よくテレビで泣きながら声援を送る応援席が映されたりするが、気持ちはよく分る。あまりのテンションの高さが精神状態のキャパをはるかに超えてしまうのだ。あのとき味わった異常な盛り上がり、冷静な判断ができなくなるような興奮状態は今も忘れられない。そしてそんな中でも落ち着いたプレーを続ける高校球児たちの精神力の強さにはホントに敬服させられる。


そのときのチームに小西という同級生が一人いた。彼は2年生ながらレギュラーとしてサードを守っていたのだ。試合に負けた後、選手達はよく甲子園の砂を思い出として持って帰る。小西もそうしようとしたが、先輩から「お前ら2年生は来年また来るんだから砂は持って帰るな。」と言われたらしい。試合に負けた悔しさを後輩たちに託そうとする先輩の前で「そんなこと言われても来年出られる保障なんか無い。」とも言えず、泣く泣く砂はあきらめたらしい。その次の年は予定通り(?)地区予選で敗退してしまったから、小西にとって甲子園の砂は文字通り幻となってしまった。

僕は小西とは特に親しくなかったので、卒業後の彼の進路は知らなかったのだが、数年後、小西が阪急に入った、という噂が卒業生の間で流れた。阪急といえば阪急ブレーブス。現在のオリックスバッファローズの前々身だ。パシフィックリーグの強豪チームである。小西はもちろんドラフト会議などには縁が無かったから、テスト生として入団したのかも知れない。テスト生からスタープレーヤーに登り詰めた選手も多い。あのノムさんこと野村克也さんも元々はテスト生出身なのだ。これはスゴイ、快挙じゃん、卒業生からプロ野球のスターが生まれるかも知れない。そして話しによると、ユニフォーム姿の小西の写真が学校に届き、職員室の目立つところに貼ってあるという。その頃に僕はたまたま就職に関する書類をもらいに久しぶりに学校に行く用事があった。これは幸いとばかりに学校に着くと、早速小西の写真のことを当時の担任の先生に聞いてみた。「お〜、貼ってあるぞ、見て行けよ」そして僕は小西の写真と対面した。

そこに確かに小西が写っていた。しかし写真の背景はグラウンドでもスタジアムでも無かった。どう見ても電車のホームだ。服装も確かにユニフォームには違いないが、野球のユフォームでは無い。紺色のブレザーに白い帽子、そして白い手袋、写真の下には小西の直筆でこう書いてあった。

「僕は今、阪急に入って、毎日改札口で切符を切っています。」

つまり、阪急は阪急でもブレーブスでは無く、その親会社である阪急電鉄に入社したということなのだ。いやいや、阪急に入った、は確かにウソではないな。駅のホームで右手を帽子に当てて敬礼のポーズを取る小西の凛々しい姿は30数年たった今でも覚えている。その後、小西がどうしているかは知らないが、今でも高校野球をテレビで観るたび、あの写真を思い出す。多分小西もどこかの空の下で、毎年甲子園を楽しみにしているのかも知れない。初めて出場した甲子園のこと、持って帰れなかった砂のこと、そんな青春時代の思い出があるっていうのは素晴らしいことだ。

力のある選手の獲得にお金が動いていたりとか、選手の負担を考えない無理な日程の組み方とか、いろいろと問題も多い高校野球だけれど、毎年一人でも多くの野球小僧たちに素敵な思い出ができることを願わずにはいられない。



「七人の侍」考
 大盛り上がりの内にサッカーワールドカップも終了しちゃったね〜。なんて今頃になっていつの話しをしてるのか?とツッコミが入りそうだがこれにはワケがある。随分前にこんな書き出しで書き始めたのだが、いろいろと諸事情があって頓挫してしまったのだ。でもって仕切り直しで再度書き始めたので、こんな季節外れの書き出しになってしまったわけ。
でも今回のお題目は実はワールドカップではない。というのも、ワールドカップ開催中にこんな記事を目にしたのがコトの発端。

映画雑誌の大手エンパイア誌が、ワールドカップ大会を記念して「英語以外の言語で製作された古今東西の映画」のランキングを発表したという。どこがどうワールドカップと関係あるのか、理解に苦しむところだけど、まあ英語圏に限らないワールドワイドな映画のランキング、というところかな。でもって堂々1位に選ばれたのが黒澤明監督の作品「七人の侍」だったわけだ。ということで今回は映画「七人の侍」をお題目にさせてもらいたい。


ここでこの映画を知らない人のためにちょこっと説明なんぞ…。公開は1954年。2年にも及ぶ製作期間、当時のお金で2億円もの予算が投じられ、上映時間は3時間27分のまさに大作。ストーリーは単純で、戦国の世、個性豊かな七人の浪人侍が、毎年麦の収穫時に野武士に襲われるある村を助けて戦うというもの。黒澤明監督の文句無く代表作だ。

エンパイア誌によると、「七人の侍」は英語作品を含めた中でも上位に来る作品、とのことだが、ハッキリ言ってこの映画、世界一の映画である。いきなり結論付けてしまって恐縮だけれど、今までの長い映画の歴史上、もちろんこれから先も、これ以上の作品は恐らく作れないと思う。この春にお亡くなりになった作家の井上ひさし氏はかつて「映画という表現形式は黒澤明監督が『七人の侍』を作るために生まれたものである」とおっしゃられている。少々大げさな気がしないでも無いけれど、この作品に魅せられた人なら誰でも納得できるコメントだ。今現在作られている映画とは、同じ映画というジャンルでありながら、完全に別物だ。決して良い悪いの問題では無い。例えば東大寺大仏殿も普通の住宅も、木造建築というジャンルでは同じだけれど、決して同じ土俵で比べられるものでは無い。でも、東大寺大仏殿も、住宅も、立派に役目を果たしていて、優劣は付けられない。つまり例えればそんな感じだ。


とはいっても僕は昔の映画はすべて良かった、とか、黒澤作品こそが芸術作品だァ〜、などと声高らかに宣言するつもりは無い。言うとすれば時代が違うのだ。映画こそが娯楽の王道で、徹底的なこだわりと手間をかけて作られていた時代と、様々な娯楽の中で映画もひとつのビジネスコンテンツとして大量消費される時代とでは明らかに状況が違い過ぎる。

例えば「七人の侍」の中にこんなシーンがある。岡本勝四郎という若い侍が村の娘、志乃と村の裏山の森の中で初めて出会うシーン。この二人がやがて恋に落ち、ストーリーの中で様々なエピソードと絡んでいくことになる。二人が見つめ合う後ろの斜面には一面に花が咲いている。しかしそんなところに最初から花は無い。実はスタッフがトラックに花を積んで運び込み、そこに1本1本植えていったのである。やっとこさ植え終わってさあ撮影、となると今度は思うような日差しが来ない。何しろ60年近く前の作品なのだ。とりあえず撮影して後はCG合成、ってなワケにはいかない。そうこうしていると花はしおれてしまい、スタッフは花を撤去。そしてまたまたトラックで新しい花を運び込んで植え始める。今度こそ撮影、しかしまだ思うような光が来ない。仕方なくまたまた撤去、運び込み、ということで、3回目にしてやっと黒澤監督のイメージ通りの日差しが来て撮影できたという。その間、スタッフはもちろん、役者もその場を離れるわけにはいかない。その頃、黒澤作品に出演できることは役者として光栄なことであると同時に、苦痛を伴うことだったらしい。何故なら長時間拘束され、他の作品との掛け持ちは絶対に許されない。役者としては喜んでばかりもいられない状況だったらしいのだ。


しかし、そのかいあって、このシーン、実に素晴らしい画面になっている。モノクロでありながら柔らかな光と影はどんなカラーを使っても表現しきれない幻想的なシーン、それは前後のストーリーの中で実に際立つ役目を果たしている。黒澤監督はほぼすべてのシーンに自ら描いた絵コンテを持って臨んだという。自らの中に確固たる画面が描けているからこそ、一切の妥協は許されないのだ。いくら時間と手間がかかろうと、である。だからこそ「七人の侍」は画面の持つ力強さがものすごい。ほぼすべてのシーンが名場面といっていい。

そして CGの無い時代、そこには気の遠くなるような作業とアイディアがあった。モノクロ画面で際立つよう水に墨を混ぜた雨、しかも地面に跳ねた時の勢いを出すために、水には粘りを持たせる材質を混入させていたという。僕は一時期、黒澤映画に関する様々な文献を読んだが、撮影の苦労、工夫の数々には何度も驚嘆させられた。


撮影や俳優さんだけではない。脚本の作り込みもまた凄まじい。七人の侍、その一人ひとりに大学ノート一冊分に及ぶ人物設定があったという。どこで生まれ、どのような人生を歩んで来て、といった設定である。具体的なストーリーとは別にそこまで人物像が練り込まれているのだ。もちろん、それがあったからといって普通に映画を観る分には何の関係もないように思える。しかし、何度も観ていると、人物設定の深さが、ちょっとしたセリフ、表情、仕草に至るまできちんとリンクされていることに気付かされる。観ている人は大学ノートの内容までは分らない。しかし何度も観ているうちに、観ている人の中にも人物設定が鮮やかに浮かび上がってくるのだ。そして人物に対する思い入れが観るたびに深くなる。

インスタントの味噌汁も、しっかりとダシをとって作られた味噌汁も、一度飲んだだけでは違いは分らないかも知れない。しかし、何度も飲んでいるうちに、ダシの深さはじわじわと人を魅了していく。その余韻は味わうたびに深くなる。それは一生かかっても飽きがくることはない。しっかりとダシをとって、たっぷりと煮詰められた脚本が醸し出す味わいの深さはまさに一生モンだ。


「七人の侍」が世界の映画界に与えた影響も見逃せない。スティーブン・スピルバーグは今でも映画作りに迷ったらこの作品を改めて見直すらしいし、「スターウォーズ」のキャラクター、ヨーダが困った時に自らの頭を撫でる仕草は「七人の侍」の登場人物、志村喬さん演ずる島田勘兵衛がやはり困った時に頭を撫でる仕草のオマージュだと、ジョージ・ルーカスは語っている。もともと「スターウォーズ」シリーズは黒澤映画の活劇をSFで表現したらどうなるか、が基本テーマだったらしく、ロボット「C3-PO」と「R2D2」のコンビは同じく黒澤作品「隠し砦の三悪人」の太兵と又吉をモチーフにしているのは有名な話しだ。またアメリカでは「荒野の七人」というリメイク作品が作られている。スピルバーグや「スターウォーズ」に夢中になっている人たちには、そこに大きな影響を与えた日本映画が今から60年近くも前に存在していたことをぜひ知ってもらいたいと思う。


「七人の侍」から7年後の1965年、黒澤監督最後のモノクロ作品「赤ひげ」が公開された。江戸時代のこと、エリート医師を目指して医学を学んで来た若者、保本が配属されたのは貧困と偏見が渦巻く小石川療養所。落胆のあまり自暴自棄になる保本だが、貧しくとも気高く清廉に生きる人たち、そして頑固で風変わりながらも豊かな人間味にあふれる「赤ひげ」の異名を持つ新出医師に影響されて真の医学の道に目覚めていく、というストーリーだ。この映画の撮影時のエピソードにこんな話しがある。あるシーンで、黒澤監督が「人物の頭上高くから俯瞰で撮影したい」。早速数人の大道具係が半日がかりでカメラが据えられる櫓を作った。それに登った黒澤監督、櫓から下を眺めてひと言「やっぱり違うな」。そのひと言で櫓は解体されることになった。取材記者が解体に取り組む大道具係に「半日かけて作ったものがわずかひと言で解体、撤去なんて、正直、腹が立ちませんか?」すると大道具係の人、「いや、全然。だって監督は他にもっとすごい撮影方法を考えるはずですから。」そう言うと実に誇らしく、嬉々として解体作業を続けたという。


ジャパンクールだとか何だとか、日本製品のことをシャレた言葉で表現してるけれど、その根っこはこんなに熱い信頼関係で結ばれた人たちの情熱だ。それはいつの時代も変わらない。「赤ひげ」の製作時、映画界はちょうど落ち込みの激しかった時期らしい。家庭へのテレビの普及が原因だ。しかし撮影にあたって黒澤監督は「今、映画界は非常に厳しい時期ですが、それを超えるのは我々映画人の誠意しかありません。誠意を持って作品に取り組みたいと思っています。」と言ったという。まさにモノ作りの基本中の基本、ここにあり、だ。もったいない文化同様、世界に誇れる日本文化、興味がある人はぜひ触れてみてもらいたい。

ちなみに黒澤作品のおすすめはまず「七人の侍」は必見。次は「生きる」。長いのはちょいと苦手、という人は「椿三十郎」あたりが手軽でいい。そこにハマれば「用心棒」「天国と地獄」「赤ひげ」あたりへ進む、といったところかな。晩年のカラーになってからの作品は、どれもあまりおすすめできないのがちょいと残念。

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