信州の名城巡り-龍岡城五稜郭-

全国の各県に配慮した名城指定は、好評と歴史好きの増加もあって「百名城スタンプ」ラリーが、さらに「続・百名城スタンプ」ラリーまで始まった。

そういう流れで特筆されるのが、長野県である。今回はある事情=慣らし運転という事で、信州の城巡りとなった。

 

龍岡城五稜郭。

 

旧藩江戸末期、大給松平氏統治下の龍岡の地に洋式城塞が気づかれたのが、この龍岡五稜郭である。函館の五稜郭は実戦の歴史や規模もあり、かの地しか認知がないが、どっこい信州の鄙びたこの地にも築かれたのである。

 

元より陣屋大名だったため、予算も時間も確保できず、堀が狭く周辺も半分くらい未整備のまま明治を迎えた。つまり実戦はなかったという事である。

またこの地でなぜ洋式要塞が必要だったかはなんとも理解しがたい。途上の施設だったため、維新後は学校用地として活用を許されたことが、今の遺跡保存へとつながった。

しかしマニアには見るべき点も多く、この点では全国に2つしかない五稜郭の1つとして訪ねてほしいところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

名もない池→モネの池として大賑わい

急な名古屋行きで近所巡りしか時間がなく、さぁーて何処にしょ、、、と迷っていたら、まあ関市でもフラフラと。nhk朝ドラの「半分、青い」のロケ地=恵那市らしいが、恵那市は二、三度行ってるので西方面ということで。

 

 

 

 

●なんとも賑わう「モネの池」

場所は関市板取地区の根道神社というところに⛩鳥居横。この地域は紫陽花がメインで、往来の道すがら、紫陽花が至る所で咲き誇っていて、この池の横には市営の花販売所があり、メインは紫陽花だ。

 

 

●この偶然にも近い、名もない池=実に名前もない、、、、。

湧き水が溜まって池となり、鯉が泳ぎ、蓮が浮かび、なるほど、これはまさに、、、と感嘆した次第。そりゃ、ネットで紹介されsns効果も十分やなぁと。インスタ映えしますよ。

 

 

 

もう十分、皆さんもご存知かと、下手な画像も上げて恐縮だが、あえて言葉もいらないなぁと。

 

●関市は、刃物の町として、また美濃和紙の里として多様な文化や歴史を持つ町である。改めてじっくり散策したかったが、日本刀の博物館や、刃物メーカーの企業博物館、紫陽花のお寺、円空彫刻などを足早に、関市内を巡った1日だった。

でもよくかんがえれば、故郷、観音寺にはこうした流れがあまりないなぁと残念に思えた。

 

 

 

ようやく「ギンザシックス」、なるほどながら、縁遠い!

●久しぶりに上京・・・最前線の方からはお笑い種か??だが見ておかないとギンザシックス。

 

日々人間臭いところであくせくしている私には、東京のトレンドはそう必要なことではない。地方再生や振興が叫ばれる中、安易に東京のおさがり人材やおこぼれソースは嫌だからもあるが、東京に居住していてもこれほどのトレンドを享受できる消費者層って上位20%程度かとも感じるからである。小洒落た仕事柄なれど、消費では下層域かもしれないなぁと自虐している昨今だから、要は敷居が高いのだ。その後お会いしたアッパー層に近いエグゼクティブ系の先輩も、ギンザシックスは縁遠いなぁとも・・・謙虚だろうが。

 

 

 

●ニュース映像で見た通り・・・ゆったりとしたトレンドの美術館的な構成は心地よい。

 

物をあふれつほど手にし、最先端や高級品にこなれたアッパー層には、敢えてこのくらいの絞り込みが良いのだろうなぁと感心する。百貨店ではなく十貨店でもよいという事か。ネット通販では味わえない購買の楽しみ、そこを演出できている点で最先端なのだろう。チープな購買層である私でも通販は利用しない。安くても多少背伸びする商品も直接、店へいくのだ。販売員にとって魅力なユーザーでなくとも気にしない。ささやかだが手にするという豊かな時間が流れているから・・・。

 

 

 

 

●案外、身近な店舗もテナントに・・・アパレル以外なら、何とか。食品はここだけもあった。

 

貧乏小父さんの悪態はここまで。なぜ行ったのか?それはある商材が、あるかどうかを確認に。これだけのお店なら課題としている伝統的な習慣に裏付けられた商材が、さりげなく置いてあるかとの期待からである。答えはノー・・・だった。商品構成が偏向してからか?それは渋谷ヒカリエにもなかったので、むしろある方が不思議なのかもしれない。それは別としてその後、近くでお会いする予定の大先輩への土産として軽くて持ちやすく、また年齢的にも賞味していただきやすい物・・・と店内をうろうろ。食品フロアーは敷居は高くない。あまり珍しい物ではなかったが、ギンザシックス限定商品というのが決め手だった。

 

 

・・・今回、東京で観ること以上に人と会う事を優先したが、誰しも口にする東京のすさまじさは十二分に感じた。関西や東海、四国であくせくしている私には悔しい思い以上に、世界の頂点にある都市としての東京の存在感は日本の競争力、魅力の一つである。間違っても妬ましくはない・・・やはり地方は地方でできることを徹頭徹尾で頑張ろうと思う。

★毎年、東京には17万人が流入しているそうな・・・しかも20〜30歳代が多いとか。おいおい、君らが活躍できるほど空席はないよ、むしろ地方でオンリー1な生き方も良いのじゃない?!と思い直してほしいものだ。それって決して負け犬なんかじゃないよ。

 

 

 

●アメリカは広大な国土と3億数千万人の暮らす世界一の国・・・でもそれぞれが固有の都市づくりで繁栄している。

色々なヒントがあるが、私の働く神戸市には世界企業の日本支社がある。P&G、ネスレ、イーライリリーなど数社だが、グローバルな実力に裏付けらると敢えて東京でなくてすんでいる。都市での働き方、暮らし方の目線を高めてほしい・・・優秀な人ほど。

 

 

 

「国際復興フォーラム:神戸」に聴講して。

 

 

 

●”Build Back Better”というキーワード、ご存知でしたか?

 

一昨年から地域振興事業「シングルマザー移住支援」の件で、同じアドバイザーながら師匠みたいに感じている方が負い出て、その方に誘われて初めて参加。主催は「国際復興支援プラットフォーム」という団体で、内閣府はじめ国連国際防災戦略事務所という、それぞれ権威のある団体が仕切られているフォーラムで、まず顔ぶれや肩書で驚いた次第。

何年も神戸でいながらこうした国際的会議に参加どころか、知りせずと反省ばかり。誘い頂いた師匠に感謝である。

 

 

❶”B−BーB(=上記のキーワードの略)”の意味とは?

世界中で都心へと人が集約される現象の中、その都心での防災対応や、さらに被災後の復興の取り組みについての目指す方向性を言うようだ。またフォーラムの内容は、被災先都市の担当者が、当時の様子やその後の様々な取り組みをスピーカーとして報告していく形式だ。司会進行は、元国連事務次長補:フィッシャー氏。それぞれのスピーカーの発現を要点良くまとめ、質疑代行や総括までスムースにこなされていく。午前11時から午後4時半までの長丁場だが、案外と限られた時間で、さすがと思わせる司会進行だった。

 

 

 

❷それぞれの痛みと取り組み。神戸だけでも東北だけでもない。

事例紹介では、東北大震災当初から岩手県等に入られ奮励努力されていた、元東京大学教授の大西学長(現豊橋技術科学大学)の報告。さらにネパール・ラリトプール市=マハルジャン市長の文化財:世界遺産など多くが失われてからの復興状況・・・中国唐山市=黄副市長の復興における大胆なほどの再生街計画の成功例(=さすが中国の強制力?)・・・神戸市=清水危機管理室課長のその後の神戸市の状況など。現地の状況はそれぞれ違うが、被災のレベルは悲しい事ばかり。今、都心へ集約され人口流入がさらに進んでいく状況下、都心の防災はどうなるのかと暗鬱たる思いになった。

 

 

 

❸国連の指導力の真価は災害支援にあるなぁと痛感!!

軍事問題では全く機能不全ともいえる国連。常任理事国のロシア・中国の傲慢さが要因だが、私たちが子供のころに憧れたイギリスのテレビ番組「サンダーバード:国際救助隊=財閥の私立による)」の人類とは賢く生きるならこういう素晴らしいこともできるのだなぁと感心して、そういう発想で番組を作っていた当時のイギリスという国を尊敬したものだ。

 

 

➍せめて「サンダーバード」の真似事でもできればよいが!

国際的な災害の度に、日本チームのレスキュー体制の評価が高い。個々の優れたマンパワー+経験値だが、手放しでも喜べない。こういう時にすら大国:常任理事国でもある某国などいい加減なものなのだから。

それなら日本国内:毎年19兆円に及ぶ浪費=パチンコへの無駄遣いを、国際救助基金として集め、世界で若い人口の多い国とタイアップ、日本の経験と技術を指導していくことで国連軍とは別の意義ある救助活動の核となるチームもできるのではと・・・日々何気なくパチンコで息抜きしている約900万人ともいわれる市民よ、もう目覚めようぜ!!・・・生保受給と同時にパチンコへ走る中毒者:約120万人とは違うのだから。合掌

 

人出いっぱいの正月広島旅行

2018年元旦、AM6:30に広島目指して観音寺を出発。

1日目は呉で軍港関連を観光します。

 

観光一発目の大和ミュージアムです。

元旦で朝早いのもあって意外とすんなり入場できました。

 

まず目に飛び込んできたのは、10分の1サイズの

戦艦大和!10分の1とは言えその迫力に圧倒される。

実物の設計図や資料も存分に展示され、

見応え十分でした。

 

 

そして、大型資料展示室には零式艦上戦闘機六二型や、

特殊潜航艇海龍、九三式・二式魚雷、

100名以上の若い兵士の尊い命が失われた特攻兵器回天などが

展示されていました。当時のリアルな情景が想像できる空間です。

 

 

大和ミュジアムに隣接した海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)は

残念ながら正月は閉館とのこと。潜水艦内部を体験したかったが・・・

 

 

大和ミュージアムを出ると、艦船めぐりの

アナウンスに導かれ30分程度の船による艦船めぐりへ。

 

 

そうりゅう型潜水艦は後ろからの見学になりましたが

かなり興奮しました!!!

 

 

元旦は呉を堪能した1日でした。

 

宮島観光編は後日アップします。

 

 

 

四国内で数少ない田舎町整備の成功!梼原町は噂以上だった。

●四国の町づくり整備と言えば「梼原(ゆすはら)町」!!

 

もうすでに20年以上になる町づくり整備で「高知県梼原町」は有名だが、行く機会はなかった。東京オリンピックのメインスタジアムの設計でさらに注目を浴びた隈研吾氏による公共建築で知られてきた。著名な建築家による公共建築物が、地域振興の役割を果たすことは、香川県が特に先駆けてきたことだ。丹下健三氏による公共建築物は、当時の地方自治体としては稀有な取り組みであったし、今は直島町がそういう実践でリードしてきている。

 

しかし私見なりに町づくりには”佇まい”が必要といつも思っている。昔ながらの歴史建築群を再整備した町でなくても、新たな整備をするにあたってこそ重要な感性であろう。梼原町はまさに後者として”佇まい”が感じられるのではないかと感心する次第。

四国内にも愛媛県:内子町の白壁の街並み、大洲市の大洲城と肱川川岸の風情、徳島県脇町のうだつの上がる街並み、香川県琴平町の金毘羅山の参道など誇らしい町並みは継承されているが、そうした保存型は言うまでもなく、むしろ再整備での新しい方向性にこそ、佇まいを忘れてはならないだろうと。

 

 

 

●隈研吾氏の建築物は目玉であり、誘発剤としても秀逸であろう!!

 

隈氏と梼原町のつながりは話題となり周知の事で省かせてもらうが、あらためて建築デザイン的なピンポイントとして知っていたことと現地の実際は大きく違っていたなぁと改めて痛感した。つまり旧の街並みの再整備=相当大掛かりにもかかわらず”佇まい”がよく浸透していることだ。完全統一とは言えないが、現実で出来得るレベルとしてはよくできているなぁと感服した次第。

 

何気に写真を撮り、1月2日でも空いているお店探しで交差点にいると、地元の方が犬を散歩がてら近づいてきてくれていろいろ説明を受けた。愛犬のブルドッグが散歩を催促するのをとどめての説明で恐縮至極だった。まちづくり整備では反対的な方が多い高齢層だが、この方は明確に事業年度や事業予算までそらんじれる具合で、小さな町といえいかに行政サイドが周知を丹念にした成果のだと伺えた。

 

隈氏の業績は言うまでもなく、しかしそれほど件数が多い訳ではない。あくまで看板であっても整備における演出効果は、行政手腕や地域住民の覚悟がなくては無理、そういう面でよく整っていることが素晴らしいかと。

 

 

 

●”佇まい”簡単なようで難しい。デザイン性とともに、地域の方の心映えも重要!!

 

メインストリートの拡幅工事も電線などもインフラは地中化しすっきりと。十分すぎる幅員は観光効果を計算し、活集約した町機能や行政機能を発揮している。小さな町の有利さで、町役場、町の駅(=物産所&宿泊所)、「維新の道:坂本龍馬脱藩の起点の町として、維新群像の町を標榜」の史跡ポイントが、至近距離に配置された魅力とともに建築&環境デザインが優れることで、観光入り数は相当多いと感じられた。店舗も少ないが、本格派を目指した店が多い感じだ。

 

 

 

1月2日ゆえにほとんどが閉店していたが、本格派の珈琲専門店が開店していて人気のようだったし、町の駅は地場産品がたくさん置かれて賑わいも伝わった。しかし地方の売らんかな!呼び込まんかな!という範疇ではなく、自分の時間で仕事ができる人、感性を澄ませて物づくりしたい人、東京ではなく世界を視野に入れれる人には、数年住んで事をなせるかという気がしてくる町でもあると感じた。

 

 

流行は追わない、しかし鈍感ではない。形式を超えた心映え・・・維新の群像をテーマにしたこの町は、京や江戸、果ては会津、逆転して薩摩と維新の激変が続く中で、これほど田舎の町からでも視点は確かに時代を見据えていたのだから・・・。

今関わっている町の事業でもこの佇まいを大切にする思いはますます強くなった。合掌

現存12天守と全国名城ポスター展

今頃?と言われそうですが、夏に松山城で行われていた

現存12天守と全国名城ポスター展を紹介します。

 

 

まずは、ご当地の松山城です。

城郭建築の最高傑作と歌い、

世界遺産の姫路城とのコラボポスターです。

情景が昼と夕方の対比が美しい構成です。

 

 

その他の四国の名城です。

丸亀城は、空を白く飛ばした表現は、

ある意味お城の魅力を増幅している

ようです。

 

高知城は、堅牢な石垣と美しい天守閣の

わかるベストショットで表現していました。

 

そして宇和島城、

うわじま牛鬼まつりの様子を

下段に掲載しています。

 

上記以外の現存12天守ポスターです。

 

現存12天守閣以外の、松山周辺にある

お城ポスターも展示していました。

 

以上、城郭ポスター展で展示していた作品です。

各々当地の情景を最大限に引き出した演出が

なされており、定期的に作り替えるはずですので

今後も調べてみたいと思います。

 

私的には、モノトーン的な丸亀城と

幻想的な犬山城がお気に入りです。

 

デザイナーとして何時かは手掛けてみたいと

思う素敵な仕事だと感じました。

 

 

 

 

 

 

信州の城巡り・・・相変わらずの駆け足で:第3弾

(3)  真田流戦法の本領発揮、名だたる上田城・・・上田市

3連休の中日、想像以上の人出でにぎわっている。江戸時代は平穏な城として明治を迎え、現在は解体の憂き目から復興したものが多い。ただ戦国末期〜徳川幕府開府までの2度にわたる上田合戦は、歴史好きにはその痛快さがたまらず、そうでない方にも史実として記憶にあるところ。

 

真田家の本拠地となった上田城は、智将:真田昌幸が家康軍の防衛拠点として築かせながら、後の盟主替えで乗っとった曰く所以がある。縄張りはシンプルで、城下町と近接した近世型の城ながら、ゲリラ戦のような戦い方で2度も徳川軍を敗走させた。上田の町もそうだが城域も河岸段丘に立つのである。

 

この地から兄弟で分かれ、徳川方に組した長男:信之は、関ケ原の戦い以降、沼田城を預かり有力な臣下となる。父:昌幸と次男:幸村(=信繁)は、上田合戦後は敗軍の将として紀州九度山へ配流される。さらに大阪城における冬と夏の陣で大活躍をしながらも討ち死にした幸村のこともあり、信之は松代へ領地替えとなる。

上田城も真田から仙石へ。江戸時代はほぼ松平家の領地、本城となる。明治維新後は解体され、遊郭に利用されていたが、有志により買い戻され現在の復元を見ることに。

本丸は昔の面影を色濃く残しているが、城好きにはまぁまぁであろうか。ただ実戦の城として強烈な存在感であり、現在では市街地要路となってわかりづらいが、堅固を支えた尼ケ淵の跡地から臨むといかに攻略が大変だったかうかがい知れる。まさに観光の城化しているけらいはあるが、城下町としての仕掛けは多く、一泊するなど時間をかけて楽しんでいただけるところである。

信州の城巡り・・・相変わらずの駆け足:第2弾

(2)  全国唯一?穴城といえる小諸城・・・小諸市

高校の修学旅行以来40数年ぶりだ。当時から城好きではあったが詳しい予備知識もなく、説明板なども不足で単なる“懐古園”という文人墨客の訪ね得る史跡の認識だったことは、今回で払拭。認識不足を恥いった次第。

小諸城を有名にした一人は、武田軍最強時代の軍師=山本勘助の縄張り強化になる。ブラタモリで有名なキーワードとなった“河岸段丘”を見事に取り込んだ、日本で唯一かもしれない穴城とした。もう一人はさらに領主として統治した仙石秀久であろうか。“信州そば大名”としても愛されている。上田城を経て播磨出石へと、領地替えのたびにそば職人を伴い、先々でそばの食文化を広めたと言われる。

 

河岸段丘の地形=各出丸を配置し切り立った崖を巧みに縄張りとして、難攻不落にさえ思われる。この城を見下ろせる高い場所が全くなく、地面に塀や櫓を乗せるだけで一気に要塞化できている。見通せない城=穴城、まさに個性派の名城である。もう少し復元ができれば、観光動員数は桁が変わるのにと。

残念なことに明治以降、旧国鉄が縄張りを分断するかのように線路を敷設し、JR液によって大手門あたりと二の丸あたりが別にはなっているが、それだけに面白さも倍加しているとも。併設の資料館には、西郷隆盛と藩主:牧野の殿様(=老中などの要職にあった)との書簡はじめ、珠玉の遺産が展示されている点も伝えておきたい。

 

国内有数の辺境の地と明治維新前後・・・あぁ”天誅組”哀れ!

 

●明治維新の5年前、南河内で鬨の声を上げた”天誅組”・・・終焉の地:十津川村へ。

 

新製品の企画と治療を兼ねて学生時代の先輩の治療院=富田林へ。以前から大変懇意にしていただき、私の大怪我の治療法から、社員のリハビリとずいぶんお世話になってきた。先輩が数年前から楠木正成ゆかりの地を巡ったり、今回の天誅組の足跡を訪ねることの付き合いとなったのだ。

”天誅組”は純粋に勤皇佐幕を念じて、明治維新よりはやる事5年前に挙兵。公家:中山忠光、土佐脱藩:吉村虎太郎、刈谷脱藩:松本奎堂、備前脱藩:藤本鉄石、天領・河内富田林:水郡善之祐らが蜂起した事件である。決起のメイン舞台となった奈良県五條市(=日本一の柿の産地)には、”明治維新発祥の地”と大きく看板があり、資料館も整備されている。

 

 

●”天誅組”は、性急、軽挙だった上、情報不足と政変で翻弄され壊滅した。

 

今のような連絡手段がない中、止むに已まれずという志士の想いが先走り、時局を読み誤ったことは理解したい!多くの血気盛んな若者が命を燃やした事変が明治維新。今でこそ笑えるかもしれないが、その時代を真摯に駆け抜けた面も理解できなければならないかと。天誅組のリーダーは各藩脱藩志士からなり、堺から進軍し天領・富田林で河内勢と合流し、孝明天皇の行幸を奈良で得るべく、五条の代官屋敷を急襲し勝鬨を挙げるまではよかった。しかし当時の京都はめまぐるしく政変が起き、明日をも読めない中で、とうとう彼らは翻弄され、ついに賊軍となるのである。

 

 

●五条代官所急襲は裏目に出て、奈良近在の諸藩の追討を受けることに。

 

勢いづいた天誅組は五条では1200名に及ぶ集団に。さらに勤皇の意識が高い(=御所警護を担当した強者集団)十津川村で隊士募集も図り、それなりの勢力も得ていく。その後は籠城を考え無謀にも高取城の奪取を試みる。ここで諸藩兵の待ち伏せに遭い塵尻となり、一気に劣勢を余儀なくさせられる。最後は首謀者の中山忠光らを逃すために十津川村を転戦し、時間稼ぎのために諸藩兵を引き付けるのである。挙兵からわずか2か月という短い運命だったが、この天誅組についての著作、歴史文献も多く、決してないがしろにされたわけではない。

 

 

●十津川村は辺境成れど、あちこちに天誅組の歴史が色濃く伝わる。

 

東吉野村は終焉の地で、壊滅した最後の志士たちの墓や句碑が残る。またそこに至るまでの十津川村での諸藩兵との戦闘で討ち死にした場所が、村人の手厚い想いで銘板として現地に記されている。正直、穏やかな十津川村での戦騒動は、村人には大変迷惑だっただろうが、戦死した天誅組の志士の名前を記録していることに感銘した次第。特に天ノ川辻あたりの集落内の志士の名前入りの銘板は、歴史の一駒が鮮明に感じられるところだ。

 

 

●平和ボケと言われて久しい我が国。先の大東亜戦争を言うまでもなく、若者の命が捧げられていることは瞑したい。

 

天誅組の転戦はむなしい点も多い。特に欲得以前の軽挙かもしれないが、豊かさに生きる現在のわれわれが、果たして1つ1つの歴史の時空に立ち、死を賭して生き抜こうとした=それが体制や権威に踊らされたとしても・・・彼らに謙虚に学ぶだけのものはあるはず。

十津川村は面積では日本最大の村である。路線バスも日本一長い路線を運行している。景観の良さやアウトドア好きには、知らないものがないが、しかし辺境である。

天誅組に関わらず、「谷瀬の吊り橋:日本有数の吊り橋」、「熊野古道」、「玉置神社」などたくさんの魅力にあふれている。是非リピート良し、初めてさらに良し!!どうぞ訪ねていただければと。

★蛇足だが、勤皇の意識が熱い十津川村は、一時期、皇宮警察官の半数がここの出身者だったそうだ。合掌

 

 

 

 

ENTRY(latest 5)
ARCHIVES
CATEGORY
COMMENT
TRACKBACK
CALENDAR
SMTWTFS
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
2425262728  
<< February 2019 >>
MOBILE
qrcode
PROFILE
LINK
SPONSORED LINKS
無料ブログ作成サービス JUGEM

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.