• 2020.02.08 Saturday
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「日本三大山城:高取城」とは?・・冬場で納得!!、夏は頂けない?!

日本の廃城=特に山城に多い・・・中でも有数の規模を誇る山城が奈良県の高取城。現地はすでに3度目だが、昨年冬場に駆け足で訪ねたことで思いを改めた。

現地では町役場が「日本一の山城、高取城」の幟がはためいている。過去二回行ったときにはこういう派手さはなかった。過去、初夏や春先だったため、草生して繁茂さもきつく、また看板も乏しく、当時は豪雨後で各所に崩壊が見られ、本丸あたり以外は見るべくもないのというのが本音だった。これで三大山城はどうなの??という感じだった。

 

 

●昨今の城ブームやトレッキングブームで来場者は多い!

久しぶり、しかも冬場の来場は初めてだったが、町が旗を振ってか?PRの幟に少々幻滅気味で登城口へ。案外と人が多い??いつも壺坂口ばかりの登城なので、てっきり壺阪寺参りのついでの方か?と錯覚も・・・いるわいるわ!カメラ片手のマニアも、またトレッキンググループも。

 

さてと登り始めると今回は各所が整備されているのに気が付いた。さらに冬枯れで途上ルートの雑木が枝だけになり見通しが良い。以前の崩壊箇所の整備ができていて、登りやすさを感じた。

高取城は本丸あたりまでは石垣があまりなく、単なる山城感は否めない。しかし整備が整うと程よく各郭の縄張り感がうかがえて、興味がそそられながら本丸へ向かうという仕掛けだ。

 

 

 

 

●落ち葉ですっかり見通しが良く、雑草も枯れ、本丸の石垣群が見ごたえ十分に!

あらためて石垣の構造、そのスケール感も見通しが良くなることで増大し、雑草も枯れていて歩きやすく縄張りがよくわかる。なんとしたことか?初夏や春先に汗をかきかき登城した時より、はるかに素晴らしいじゃないかと同行の先輩と笑いあった。

まだ樹木が大きく、本来の高取城が整備された時とは見通しは違うが、これらの林立した木々がまだなかったころの高取城なら、大和平野が遠望できる立地にあったことは容易に推察できる。

 

 

 

 

 

高取城が本格的に整備されたのは、豊臣時代、大和郡山120万石を預かった豊臣秀長の支城として、重要さもっていたからである。筒井順慶⇒脇坂安治⇒本多利久で整備を行い、江戸時代から明治までは⇒植村家が治めた。

★高取城の往時は、奈良学園大学やユーザックシステムの労作で現実のイメージが再現されている。現地ではQRコードで再現を見ることができるから、是非、試されるとよい。このまま残っていれば確かに日本一の山城と宣言しても異議はないが。とても25000石レベルの城ではない。

★幕末に維新の旗揚げをした天誅組は、高取城を説得開城させ天皇の行幸を得て、暫時の皇居にしようと考えたのは、やはりかなり見通しが甘かったかと痛感させられる。

 

 

 

●城下町の風情も残る・・・そこは全国的にも珍しい城下町の形成であった!

城下の中心地は町並み保存され、薬業で栄えた商家や製造元屋敷、また侍屋敷が点在し風情を醸しているが、町名は各地の名前が冠されている。代表的なのは“土佐”で土佐出身者が多くいることで、城下のメイン通りで顕著である。

★大和朝廷の都づくりに全国から人工が集められて建築作業に従事。しかし帰りの旅費が出なかったためそのままこの地に根ずいたという気の毒な話。地図を見ると明日香村など一駅感覚、こんなに高取は都づくりに近い距離だったことを知り、妙に納得した次第。

★漢方薬草の最大産地で、現大手製薬メーカーの発祥地だったりもする。今も町内に大手メーカーのOEM工場や家業として製薬業を営む事業所の工場が多い。道理で街並みから醸す雰囲気が豊かなはずだ。

 

遺構が少なく残念な山城ではあるが、風情や歴史的背景を見直すと、必ず訪ねてほしい城下町であることは言を持たない。合掌

新春第2弾:鳥取城

■戦国期から徳川期まで、戦史に満ちた鳥取城。江戸期は有力親藩として!

鳥取城は因幡地方の有力拠点として様々な戦いの歴史を刻んでいる。築城の一はほとんど変わらない分、いかに多くの戦が繰り広げてきたか、そのエピソードは鳥取
城の存在感を高める。

 





❶戦国期・・・目まぐるしく陣取り合戦の様子を停止、様々な勢力が橋頭保を築くべく奪い合いの歴史が続く。

・山名豊国vs羽柴秀吉=秀吉の中国地方制覇の流れで、山名豊国が守る鳥取城は攻撃を受けるがあえなく敗退。

 再度、毛利方:吉川経家が占拠し、二度めの羽柴軍侵攻となる。これが「餓え殺し」といわれる兵糧攻めでの落城である。

・織豊時代は、豊臣側の宮部継潤が入城。関ヶ原の戦い前後の立ち位置で、東軍から攻め込まれる。

 





❷藩の始まり・・・徳川幕府親藩の位置づけで、池田長吉が入封。まだ6万石の大名であったが、現在のような近世城郭に変化していく。元和3年、池田光政が因
幡・伯耆32.5万石で入封。以後、鳥取藩としてふさわしい規模に拡張整備されて今の状況に至る。天守閣は現存しておらず、歴史上、築かれていなかったとか?代
用の三重櫓があったとか、現在もいろいろ議論が残るようだ。ただ明治期の写真には天守代わりの三重櫓が記録され、他は二重櫓や菱櫓が映っていたが、今日では縄
張り規模の割に遺構は少ない。




❸江戸時代から近代・・・今も大半にふさわしい縄張りとその石垣の威容。しかし歴史においては崩落が多く都度強化された故の遺構でもあったようだ。面白いのは鳥
取城の石垣は、その多くが縄張りに取り込まれた久松山からの採石でできていることである。現在でも二の丸(=御三階櫓の後方)にその跡がうかがえる。また菱
櫓と呼ばれる東側の守りに至る石垣は、内側に湾曲する組み方で全国的にも珍しい。

更に天球丸と呼ばれる一角には球形の石垣=巻石垣と呼ばれる・・・が、基盤強化のために取り込まれ 、これは全国で唯一である。鳥取城は石垣研究の宝庫とか
で、登り石垣や石組工法の変遷も検証できる点でも特長だとか。
 




➍近代から現在・・・仁風閣、県立博物館をはじめ、ゆったりとした三の丸界隈は歴史の風情が漂う。貴重な施設群は失われているが、鳥取城は県庁所在地として、ま
た大藩:池田家の色合いを残したまちづくりが今に残る。今回は、年末に父の死去によって、不肖の息子はその片付けごとばかりで、こうした城巡りも三代そろって
の旅にもならず、しかも一日で米子城もと欲張ったため駆け足となり残念であった。
 





★ユニークなのは鳥取市は珈琲消費量が全国2位であり市内あちこちでカフェが目立つとか。2016年、鳥取城で「世界コーヒーサミット」が開催されたように、国
内でも冠たるコーヒ―文化都市なんだそうだ。

神戸が長い私には意外な感じだし、つい2年前???スターバックスが出店し、「鳥取にはスナバ(砂場:砂丘)はあるがスタバがない」との迷セリフが有名になった
が、今回は「コメダ珈琲」も出店していて驚いた。でも黒船来る!では鳥取らしい珈琲文化が失われないよう思った次第。
 

新春の城巡り:第一弾:山陰の名城を行く「米子城」

■「米子城」・・・2つの天守を持った珍しい名城の跡を辿る!

山陰でも大きな都市:米子はご存知の方も多い。しかし米子城を訪ねる人は少ないかもしれない。昨今の城ブームで若干増えてはいるだろうが、そのブームとは無
縁で来た私には、どうしても見ておきたかった。東に戦エピソードに事欠かない「鳥取城」、西には国宝の名城「松江城」、また近郊に戦国期の一大名城「月山富田
城」が存在し、派手な戦エピソードが知られていない米子城は存外に損をしている。

 


 

 

❶「結論、石垣の魅力にあふれた、続・百名城では惜しい名城だ!!」

米子城の本丸(=天守址)から周囲を見回すと山なみと海が臨め、平地の広がりから古来より豊かな土地柄で、戦略的にも重要な交通路であったことがわかる。応
仁の乱以降は全国いたるところで、群雄割拠、下克上が始まる。当然、米子も山名氏系と細川氏系の争乱の地の1つであっただろう。戦国期は月山富田城を本拠とした尼
子一族の勢力下だったろうが、毛利氏の台頭で有力親族の吉川広家によって本格的な拠点化が図られた。

⇒ この時に4重天守が築かれたとされ、後々も4重櫓として残されることで、米子城の特異性がうまれる。まだ安土桃山時代は即戦の色濃く大きな規模でなかった。

 




❷領主代わりに遭遇しつつ、城としての完成度を高める。さすが山陰一の名城。

慶長6年に伯耆18万石の大名として、中村一忠が入封となり現在の縄張りに近い規模へ。以後、加藤家が伊予大洲へ転封となるまでは6万石城下に。こうした城
主の入れ替わりごとに城の完成度が高まる。中村氏の改易後は加藤貞泰が入封し18万石から6万石の規模に。改易後は減石がとなるが、当時大名候補は多く領地の石高
云々よりも領地任官が夢だったかもしれない。

⇒ この中村氏の時に5階建天守が築かれた。しかも既存の天守を残し小天守代わりとして。見事な高石垣の上に二つの新旧天守がそろう姿は、山陰一の名城にふさわしい威容だっただろう。

 

 


❸これからが惜しまれる定めに。鳥取藩の支城へと格落ちも城としての評価は残り続ける。

秀吉全盛期は豊臣側だった池田家(=恒興)も、長男・輝政は徳川幕府側(=家康の娘:督姫を正室に)になり、大出世となる。子輝政は姫路32万石、その子らは忠
継:備前28万石、光政:因幡伯耆32万石となっていく。その流れで、伯耆は独立藩としてではなく鳥取藩統治下として、城代が置かれて支城となる。寛永9年から
は家老の荒尾氏が代々明治時代まで管轄した。徳川幕府時代、一国一城令の元、大半の藩が領地に支城をもてなかったが、鳥取藩は池田家だったため認められていた。

⇒ 二つの天守を持つ美しく規模もある米子城は、何度か鳥取藩の本城として検討されたといわれる。


 


➍最後で恐縮だが、とにかく石垣が素晴らしい。各所に工夫とスケール感が漂い満足満足!

特に本丸に近づくにつれ、近世城郭としての戦略性や、シンボルとしての美しさなど、まさに名城と呼ぶにふさわしいレベルである。経路もわかりやすく、折々の解説
板もあり=ただ説明板の損傷や日焼けはなんとかしてほしい・・・見ごたえ、歩きごたえ十分である。

⇒ 城跡には割と数多く行っている方だが、天守址からの見晴らしの良さは全国上位に位置すると思う。海、山、平野が手に取るようにうかがえ、朝日や夕日の名勝か
もしれない。ぜひ一般的な知名度ではなく、訪問に値する城として米子城は一押し!・・・である。

 


 

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