• 2020.02.08 Saturday
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「天誅組の有力志士・・伴林光平(ともばやし みつひら)」を巡る。

天誅組の軌跡をたどる企画も終盤を迎えた。啓発してくれる藤田先輩との行脚も、珍しく先輩がまだ辿っていないところを巡るという珍しい流れとなった。

私が頚椎に不調を生じて、先輩から治療と併せて先輩が懇意にされている整形外科の仲谷医師のクリニックの治療も受けている関係で、拾っていただく場所とその近くでということで。

 

❶伴林光平は現在の藤井寺市内にあった浄土真宗・尊光寺が実家で、そのため幼くして宗教、国学、和歌などに長じて、成人しては八尾の教恩時の住職となっている。長く寺で国学を講義し、南河内では多くの弟子を育成、名声を得ていた。まさに純粋なる郷士でもあった。

天誅組の起挙にも心を寄せて、変が始まってから後続することとなる。彼の参加により天誅組のイメージも上がり少なからずの弟子たちも賛同し行軍にも参加していることで、彼の人望がうかがえる。

伴林が志士を連ねて参戦してのは、五条代官所の襲撃後からは天誅組内の行軍での記録方を務めている。敗走後に捕らわれの身となり京都の獄舎入牢後、斬首刑に処される。

★彼が従軍してからの経緯が、獄中録「南山踏雲録(なんざんとううんろく)」として記録され、現在に紐解かれている。

 

 

 

 

 

❷巡回のコース・・・天誅組の決起は通信手段がなかった頃。しかも幕末、尊王攘夷論が右往左往するときにだけに、義挙でありながら、後説、毀誉褒貶な伝えられ方も多い。しかし彼の人となりは評価が変わらず、いたるところに石碑が残されている。

・八尾市内の顕彰碑(=教恩寺址)・・・かなり大きいがこれこそが彼の八尾における存在感であり評価を示している。住宅街に囲まれている小公園内にそびえたつ。

・八尾市内の墓碑(=玉祖神社の隣接地)・・・一見、目立たないがこの地では有名は玉祖神社鳥居前の敷地内に。天然記念物の長鳴鶏が飼われている珍しくも雰囲気のある神社。

・伴林氏神社(=藤井寺市)・・・由緒ある神社で、西の靖国神社ともそ称される。彼が伴林を名乗る縁のある神社。この近くにも石碑がある。

・西願時址石碑(=羽曳野市)・・・彼が住職をしていた西願寺の跡地の遺跡碑。住宅と工場が密集したところに忽然と残っている。

 

 



●天誅組を巡るミニトリップは、いろんな意味で啓発を受け、主治医的にもお世話になっている藤田先輩に誘われて、関心だけでミーハーレベルで同行していたこともある。そろそろ終盤となり、天誅組の著書としては近著である「実録 天誅組の変」=船久保 藍 女史の著作(=淡交社)をお借りして読んだことで、これまで以上に天誅組の価値が再認識された。

確かにお互い限られて時間の上、先輩は幾度となく回っているので、私のような初心者で場当たり的なレベルでは、俗にいう一般論での認識がそう大きくは変わらなかった。しかし終盤を迎え、天誅組を構成している人となりを丹念に見返すと、純粋に維新を目指したこともでうかがえる。歴史評価は常に残酷で、今日まで暴挙とか軽挙とか記録され口伝されてきたことの危うさ=史実としての検証が一方的に・・・は、よくよく指摘される。

★地道な歴史研究家よりは、派手な歴史小説家の作品が目立つことで一般論が醸成されて、歴史がゆがめられてはいけないのだが・・・NHK大河ドラマはじめ歴史ドラマはあまりに偏りすぎだ。宮本武蔵、坂本龍馬などは個人的には、相当無理があるなぁと、大作家には申し訳ないが・・・と。


まさにそういう意味で天誅組も評価が低い事変なのだが、彼らの舞台を近くする大学で学んだものとして、せめてきちんと振り返ることは大切だ思う。それこそ今に続く日本を残してくれた彼らへの供養でもある。次はもっとも身近に位置する「水郡膳之佑(にごり ぜんのすけ)」を辿ることになりそうだ。

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