• 2020.02.08 Saturday
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(C)住みよい街全国ランクトップ:富山は文化都市。

それだけに「残念な城:富山城」だが市街地景観にはかなりマッチしている。

冒頭、失礼な書き出しで県民〜市民にはお詫びから入る。富山はこれで二度目、20数年前、商工会議所の新潟全国大会の帰り道で、同級生がある企業の支店長として勤務していたので少しだけ立ち寄った。その時も富山城は訪問し残念だなぁと思いつつも、今回は展示内容が素晴らしく整備されていて、富山城の歴史は無論、富山の沿革がつぶさに知れて、この点では大推薦である。

 

❶城好きとしては、佐々成正の戦国期から、加賀藩が何とか徳川幕府から嫌疑をもたれずに継続していく中で、利常が次男に立藩させて明治に至るまでが関心。つまり城の遺構のありようで判断しているマニアックな視点のなせるところ。逆に県庁所在地の市民公園として、また郷土の歴史を丹念に解説した資料館としては十分な施設であることは言を持たない。

 

 

❷徳川幕藩体制下で御三家よりも石高が大きい加賀藩は、昼行燈を装いながらも俊英だった3代藩主:利常が、表高120万石を超え、また実質もそれ以上という裕福な藩をつぶされないよう、富山藩10万石=利次(次男)、大聖寺藩7万石=利治(三男)に分地したことで生まれた藩である。領地として加賀藩を富山藩が分断している様子は確かにいろいろな弊害もあったかもしれない。本藩もそうだが表高以上に実質は恵まれていたし、歴代藩主も暗愚な藩主はいなかったようだ。ただ天災にはよく見舞われ復旧には難渋した様子や、加賀本藩から多くの藩士を移管したことで人件費が足を引っ張り財政面では苦労が絶えなかったと示されている。これは福岡黒田藩と秋月藩など支藩との関係はどこも似たり寄ったりだと言えなくはない。

 

❸歴史と文化にあふれ、何ともさわやかな街である。訪問したのは真夏日を少し過ぎ、20年前は秋口でともに良き時候。冬場ならこうは言えないのかもしれないが、程よく様々な魅力を持つ富山市は、流石に定住率全国有数であると感じる。令和の命名者と騒がれる中西進先生のかかわりもある「高志の国文学館」もあるが、先生の「ふくろうの会四国副支部長(=役立たずな副支部長失格者)」としては寄る間もなく申し訳なかった。

 

●最後に・・・息子の百名城&続・百名城のスタンプ押しの付き合いもあるが、ここらはどうしても行きたかった。

金沢城以外はマニアックだと思う。しかし日頃、読み親しんでかつ尊敬する時代小説家の上田秀人氏という方がおいでる。時代小説の大ヒットメーカーで有名だが、この方の13巻続くシリーズ「百万石の留守居役」は大のお気に入りだ。発刊前に加賀藩?では関心としてどうだろう??と私自身よりも世間一般を心配したが、さにあらずその評価は毎号高まっていると思う。このシリーズの愛読者なら,今回も強行軍だったが、その目的がご理解いただけるかと。小説の巻ごとのストーリーを思い起こしながらの城巡りは、息子とは別のひそかなオヤジ趣向であった。

(B)一代限りの幻の城「高岡城は、城を残さず伝統・文化を残す」

 

戦国時代の英傑としてその名をはせた前田利家。まつ夫人との夫唱婦随が有名で何度もドラマ化されているが、この息子:利長も俊英だ。さらに金沢藩3代目の利常も有能で、江戸末期まで見事に百万石を削られもせず、領地替えもなく生き延びさせたのは創藩より3代において藩主が有能だったからであろう。

 

❶一国一城令の前に、領地守護をかねて高岡の地に前田利長が隠居城との名目で設置したのが高岡城。

現在は、本丸と二の丸、三の丸の堀を残してほとんど公園化しているので、あまり優れた城としての価値はわかりにくい。遺構も一部の石垣以外、単なる市民公園のレベルで城好きには残念である。しかし動物園、体育館、神社、彫刻のある公園とまさに高岡市民の憩い場である。

利長が加賀藩の永続や侵略に備えて自らが城主として構えたが一国一城令で廃城に。その限られた城下町時代にとてつもなく高岡は、現在の隆盛につながる基礎を得ている。

 

 

 

 

 

❷菩提寺:瑞龍寺にも2代藩主:利長の加賀藩永続を願う思いが残る。どの城下町も城廓以外には寺が防波堤(=防戦拠点)として配備される。

瑞龍寺はそこまで徹底していないが、利長公を尊崇する中で今日まで営々と続く曹洞宗の大名刹である。特に全国でも珍しいすべての伽藍構造が左右対称というのがなんとも美しい。禅宗だけに質実剛健な構造美はよく知られるが、この左右対称形は異彩を放つ。一国一城令で高岡城が廃されても、いざとなれば瑞龍寺が要塞になるという江戸初期の武将の気概まで感じさせる。

 

 

 

❸歴史郷土資料館に、高岡の真髄が示されている。富山県は定住化比率が全国有数の恵まれた県であるし、高岡市は県内2位の規模を誇り約17万人。資料館は残念ながら古めかしい=他の人口規模の自治体と比べるとちょっと残念レベルであるが、内実は豊かで魅力ある高岡が様々に紹介されている。特に地場産業の発展は特徴のある業態が、幅広く紹介され、改めて個性も感じ、まさに地場産業の模範例である。

 

 

 

 

 

★鋳造業(=それこそ前日の兼六園にあった日本武尊像も。岡山駅の桃太郎群像、小豆島のオリーブ公園の記念の鐘、高知駅の維新群像など四国もご縁が深い)、また高岡大仏も昭和の作だがイケメンで有名・・仏壇製造・・漆器・・アルミ産業・・インテリア製造・・文具・・運輸業など多彩かつ準大手〜大手規模まで産業構成に恵まれている。

★何よりドラえもんはじめあまたヒット漫画で知られる「藤子F不二夫」氏の故郷。市内を走るトラムのボディや彫刻の置物などいたるところで出会う。これらを背景にした高岡祭りは、出車も優美で趣がある、是非ともその頃に訪ねてみたいものである。

 

 

 

(A)北陸の雄「加賀藩の本拠地:名城・・・金沢城」

金沢城と兼六園は、日本人のほとんどが名前を知り、また訪問もしている有名観光地である。当日も北陸新幹線効果が冷めやらず、外国人客も含めて、もう渋滞か!というほどの人出だった。今更ながら金沢城?!なのでブログにするのも気恥かしい。名古屋から車ででも、名古屋環状〜東海北陸道で3時間少々、あっという間の気がする。

 

❶駐車場の関係で先に兼六園へ。日本三大大名庭園ともうたわれ、その規模は随一かとも。いやはや大変な人出でしたが、隅々まで丹念に回っているのは案外と外国人(=ヨーロッパ系)。ここでは写真も解説もしないが、昭和に建立された日本武尊の像が気になった。翌日の高岡城巡りで関連を知った。また城巡りに時間がかかりすぎ、21世紀美術館もあまりの順番待ちでキャンセル、県立歴史博物館はガラガラでじっくり見れて、施設的にも赤レンガ倉庫づくり(=元陸軍の倉庫を転用)でとてもよかった。しかし隣の県立美術館はもう時間切れ。

 

❷金沢城は全国的に有名であるばかりか、その縄張りの広さ、それぞれの多門櫓、隅櫓の豪華絢爛さは秀逸な城で、こればかりは姫路城をも凌駕している。江戸時代に大火災で天守閣は消失してと伝えられ、元御三階櫓跡が天守閣代わりと伝わる。明治以降は陸軍本部が置かれた関係もあり、太平洋戦争での空襲で多くの遺構を消失して現在に至る。特に見どころではないが、本来の手つかずで埋もれた感のある本丸は、ほとんどの観光客は行きたがらない。うっそうとした森のようで遺構が少なく魅力はないが、下城し21世紀美術館方面から振り返ると3段くらいの高石垣が見える。つまり往時の天守閣の立つところである。ほとんどの人はそのすごさには思い及ばない。

 

❸見どころ解説は観光資源としてあまりに有名なので端折るが、他の大城郭、大名城にない金沢城ならではの特色のみ記しておきたい。

★往時も現在の再建遺構でも「なまこ壁仕様」である・・・火災防止や火矢の攻撃に堪え得るよう、白壁に燻し瓦を埋め込み、周りを漆喰で固めていること。その手間の分だけ秀麗で統一感とともにリズミカルな上、何とも気品が漂う。新潟の新発田城、熊本の人吉城の塀に一部、そうした施しは残るが、あの規模の城で全での隅櫓、多門櫓にというのはあり得えないレベル。

 

★屋根がすべて鉛板葺き仕様であること・・・凍害に弱い燻し瓦は寒冷地の城には不向きで、銅板葺きや萱葺きが多い。特殊な例では越前丸岡城のような地場石材を削った屋根瓦も例もある。軽くて強い、またいざという時はその瓦を溶かして、鉄砲玉に仕立て直せるとかともいわれる。年数が経つことで鉛が白い粉を吹き、藩士の健康に悪影響もしたそうだが・・・白々と輝く様は美しい。

 

 

★いたるところに唐破風(=出窓の装飾)が採用され、その意匠性では金沢城が突出している。もともと唐破風は権威の象徴、しかも格がかなり高い場合に限られ許されていた仕様である。江戸時代に唐門・唐破風が許される藩屋敷や仏閣は限られていた。軍事拠点の城にここまで華美を施すのは、戦仕様を想定するよりも政庁としての機能をアピールすることで、百万石を守ろうとしたり金沢文化を奨励するためのシンボルにと考えたのだろう。

 

★出窓や窓の格子内側には銅板が巻き付いている。ガラス窓のない時代、また窓に雨戸がない場合は、吹き込んだ雨滴を逃すために水抜き用に竹管が埋め込まれ、排水処理されている。しかし金沢城はすべて内側に銅板を巻いて格子木の腐食を防いでいるのである。何とも手の込んだつくりである。

 

★菱櫓という見通しの良い櫓構造・・・すべてではないが、籠城後にやむなく攻め込まれた折、“〇〇の丸”と呼ばれる兵士の待機場所、もしくは敵兵を集めるところ。これに対して菱形の櫓なら見通しが良いこともあり、わざわざ平行四辺形的な形で櫓を構えている点も大変貴重な見どころ。大工の力量に大きく左右されるが、再建した櫓でつぶさに事例展示し、その技術力を解説している。

 

城好きにはたまらない魅力にあふれ、わざわざ訪問する価値は十分あるのだ。しかし前田利家、利長親子は一体、予算をどう工面したのだろうか?現在の予算にして450億円くらいといわれる安土城の建設費よりも多くかかってるはずである。大坂城を築いた秀吉は、当時500万石程の収益を誇っていたのでわからなくはないが。借金嫌いの前田家、まつ夫人が賢夫として名高いがまさに真骨頂を見る思いだ。

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