❶水の神様の始まりとされる「丹生川上(にうかわかみ)神社:下社」を参拝。
吉野の里に、第40代:天武天皇が「深山吉野の丹生川に我が名で宮柱を立てれば、甘雨を降らせ、霖雨を止めれよう」と宣託されたことを始まりとしてしている。まだ当時は稲作において収穫を大きく左右する、雨の具合は天運任せでもあった。それでも人々は、雨の恵みと不運を祈ることでしかしのげなかった時代である。
朝廷の尊崇を集めた「水の神様の神社:水神宗社」として広く知られることとなる。しかし都が京に移ることでいつしか忘れられる存在になったが、明治維新以後、再調査も始まり現在のような3社を総称されることとなる。特に下社である吉野町の丹生川上神社は、神馬が保護されていることで、特に参拝者が絶えない。
★黒馬は日照りを止め慈雨をもたらす化身として。白馬は長雨を止め晴れを呼びこむ化身として。人々は二頭の馬を大切に今も保護している。
❷それが参拝理由?この神社の幕末期の宮司が「橋本若狭」、彼の供養塔や墓があることで。
天誅組は私の先輩:藤田院長(=東洋医学者)のライフワークで、治療のたびに史跡周りを同行している関係。今回は天誅組の参謀として、様々に活躍した地元吉野の傑物=橋本若狭をめぐる日帰りの旅。
橋本若狭(=旧姓 益田綱幸)は若くして有能ぶりが認められ、この吉野の丹生川上神社代々の宮司であった橋本家へ養子に出る。時は明治維新前、吉野という京の情報が得やすく、また自身が「二葉天明流」という柔術の師範であったことも重なり、天誅組の理念に共鳴して行動を共にしたのである。運拙く天誅組は敗走し、やがて潜伏先が割れ、彼もまた京都六角獄舎で処刑された。
しかし神社の本殿横手にはひっそりではあるが彼の顕彰碑があり、また車で10分ほど下った街道沿いの橋本家本家の建屋も現存し、そこからすぐの橋本家の墓には彼の墓が立派に建立されている。
❸また彼の出生地である五条市内には、益田家が今も立派な農園家として係累が続き、話によると彼を偲んでの句碑が自宅内にあるとかとも。
維新後の政府にとって、橋本若狭&天誅組は軽率の徒と卑下したが、歴史は勝者が都合よく書き残すことも多い。しかし末裔にとって彼の存在や意図するところは何ら恥じることなく、神社脇の顕彰碑はじめ、実子が後々に神社鳥井横へ大きな石碑を立てている・・・ことなど、この地において彼は傑出した人であったこともうか
がえるのである。
水の神社として、今、神河町や観音寺市の町づくりで「水」は大きなテーマ。またその関連で和歌山県橋本市が水研究の拠点として真摯に取り組んでいることも知り、なにやら縁を感じた次第。
また現在の下社に保護されている馬の囲い場は、昔、橋本若狭の柔術道場の跡らしい。藤田院長ともども少林寺拳法を基に様々武道にかかわった昔・・・私も自前道
場の運営に心血を注いだが、仕事関係や周辺道院との軋轢で少林寺拳法改革の夢は破れ、道場閉鎖という苦い経験がなぜか橋本若狭の生きざまにオーバーラップした。
合掌