• 2020.02.08 Saturday
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熊野市のもう一つの魅力、紀和町の鉱山資料館!!

●赤木城に続く、ぜひ知って訪問してほしい「紀和町の鉱山資料館」立派ですよ!!

 

赤木城を経て、やはり熊野権現大社へ向かう途上にある、紀和町の「鉱山資料館」は過去の遺産ではあるが、最盛期を彷彿させるにふさわしい展示品と構成内容を有する資料館である。

 

 

 

1:古くから良質の鉄鉱石や銅石が採掘されていたのが驚き!!

奈良時代、大仏建立に必要だった大量の銅は、紀州全体に広く求められた中でも、ここは有力な高山だった。しかも昭和50数年ごろまで続いたという、採掘では最古・最長鉱山の歴史を持つことになおも驚き。最盛期は全国の6割近い量だったとか?

技術的にも常に最先端の工法や排水処理の工夫など、先人の工夫や知恵が集約されていた鉱山群をこの地は有している。

 

 

 

2:刀鍛冶も多く集まったのは、南北朝の長い動乱が背景が!!

刀剣鍛冶の分布は全国でもいろいろあるが、現代まで続いていないと、案外と忘れられてしまうのかもしれない。歴史好きの私でも、まさかこの熊野市の赤木城近郊にこういう歴史的価値がある鉱山遺産を知らなかったことは、重ねて恥じ入る次第。ここの刀鍛冶が打った東建が、南北朝=主に南朝方の豪族や、戦国時代まで名門かつ有力だった伊勢志摩の北畠家、また長く信長・秀吉に対抗してきた紀州の各豪族や僧兵などに思いが馳せる・・・。

 

 

 

3:この鉱山は崩落事故がない、超優良安全鉱山の表彰を受けている!!

鉱山事故が多発する中でも、運営していた同和鉱業社の経営姿勢なのか、この鉱山の長い歴史のかなでもほとんど崩落事故の記録がない。それは抹消しているのではなく、きちんと取り組んでいたからだろうと推察される。また大戦時にはイギリス人捕虜の収容所もあり鉱山で働かせてはいたが、人事管理は穏当で、地元民との交流のエピソードが多い。この鉱山群は当時、国内鉱山で無事故優良鉱山として表彰されている。

 

 

 

 

 

●ひなびた田舎の山間のたたずむ紀和町鉱山資料館。熊野川がすぐ傍に流れ、足湯サービスや、道の駅も隣接して、ひと時を十分楽しめる。まず展示が良くできている!!実物サイズのジオラマや、鉱山の作業の様子の資料も豊富。またエレベーターに一工夫があり、思わずニヤリ!!で来館者の皆に受ける仕掛けかと。ぜひ熊野権現大社詣でのついでといっては失礼だが、ある意味カルチャーショックで、日本でも知らねばならないところがいっぱいあることを感じれる訪問だった。

 

城巡りマニアにはたまらない=新宮城・・・なぜ話題にならなかったのか?

●紀州藩家老の城「新宮城」って、なぜ、もっと早く注目されなかったのか?

 

今、城巡りブームと言われる・・・最初に「百名城巡り」本が出て(=都道府県の均衡を思んばかって、認定は微妙だが)、さらに「続・百名城」本も出てきて、そこそこマニアの私も、現地で案外と人が多いのに驚く次第。

さてそういう中で、以前より知ってはいたが、従来の城読本では詳細が記載されいなくて、情報不足に反省ばかりである。耳年寄りになっていたので今回は大いに反省せさせられた。

 

 

 

 

1:築城は戦国末期、ここには築城する理由があった。

秀吉により紀州を拝領した浅野幸長が入領し両国運営のために新宮城を築城。ここに城地を定めた理由もあとで知ると納得。あの不老不死の薬を求めて日本へ渡り、各地に伝説を残した「徐福」が日本に初上陸したのが新宮市だという。また熊野三山(=権現)巡りの1つ=速玉大社も鎮座している。かなり古くから人が集まり、にぎわう営みがあったというわけだ。この2つの歴史的遺産が背景ならむべからぬと知る次第。さらに新宮城が「続・百名城の認定」によって、この町の注目度が上がる。

 

 

 

2:浅野氏が築城、しかしなぜ必要だったのか?

地理的にはかなり紀伊半島の南部、ほっておいてもよかったのでは?という立地。しかし歴史に詳しい人は、信長、秀吉が紀州全域を手中に収める苦労は大変だったことは存じよりかと。領知を好まない自主独立心が強い土地柄なのか抵抗はかなり強かった。故に浅野家は支城として配置する必要があったのだろうが、縄張りは大変優れたものであり、続・百名城にふさわしい。これに徳川時代の紀州藩立藩による付家老:水野重仲が初代城主として、さらに強固なものとして城下町形成とあわせて、明治まで続く。

 

 

 

 

3:熊野川を背景に独立した小山を縄張りにし、ひな壇状の総石垣づくりである。

小ぶりではあるが自然地形を生かして、ひな壇状にした総石垣づくりである。熊野川を背景に船着き櫓や監視所を置き、町割りが見渡せるよう小山全体を縄張りに。近世の城であるので、石垣は切込ハギ、算木積みが多くみられ堅牢さは一目瞭然である。結局、戦を経験してはいないが、攻めあぐねることは間違いない。熊野川にかかる大きな鉄橋を渡ろうとすると左手に見えるが、その姿は天守閣や櫓が残っていれば、さぞや秀麗であったかと。

 

 

 

 

 

4:復元に力を入れているので、貴重な写真があれば1500万円=懸賞金が出ている!

さすがに明治直ぐには写真館もそうそう全国にはできていないので、江戸末期の姿を残す写真はないだろうが。城に入る手前の駐車場に写真募集の懸賞金看板が。ジオラマによると秀麗な姿を示している。ぜひ、復元がかなうとよいお城だなぁと・・・今頃気が付いたのかい!とお叱りいただく城であった。ありがたい熊野3社巡りのついでといっては失礼極まりないが、名城です、ぜひ一度訪ねてみてほしい!!

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