●熊野市は三重県の最南、和歌山県との境。熊野大社で有名だが案外と知られていない。
熊野権現大社詣では相当に有名だが、はたして国史跡=赤木城や、紀和鉱山など知る由はないということもあるやもしれない。
今回は昨今いろいろあって、急に信心深い真似をしたようで気恥しいが、当然、不遜な思いは全くないのでご寛容のほどを。
1:続・百名城に選ばれた「赤木城」・・・天空の城ブームの一つになってきたが。
マニアックなところではあると冒頭から伝えておきたい。熊野市そのものも東海圏からも近畿圏からもそれなりに遠い。また市内を大きく外れて熊野大社では時間を使えても、余程がないとへ回れないところではある。
しかし山間の峠道を延々と走り、「丸山千枚田」という棚田百選にも選ばれた景観に感服しつつ、ようやく到着する。
駐車場からこじんまりと山城跡がうかがえる。なんと石垣がしっかり残っているではないか??急に、事前情報以上に現物の良さに興奮してしまう。
2:戦術的な目的ではなく、一揆対策の見張り城としてという理由に驚く。
まさに小ぶりながら、地形を生かした縄張りと、低いながらも石垣を巧みに築き、このあたりに一揆勢の勢いを挫くに十分な構えである。なんと秀吉時代に、築城の名手:藤堂高虎が構えた城というからなおさら驚きだ。見渡す限り狭い盆地の回りは山だらけ。年貢など取り立てようがあるのか???と・・・誰しも築城の意図が読めない。ところが当時は、良質な鉄や銅を採出する鉱山があったことで刀鍛冶も多く、また豊富な木材の切り出しが盛んだったことが伝わる。一揆を抑えるというのは、念食い代わりに鉱山利権や材木資源をかなり無理して取り立てていたのかもしれない。
3:小ぶりでも縄張りが秀でて、山城の特色である防備に堅固な城である。
本来なら土塁と木柵を張り巡らすのが戦国末期の山城であるが、石垣で築くあたりに藤堂高虎の面目躍如たる点で、しかも伊予今治へ転封されるまで11年間も拠点にしていたそうだ。無論、江戸時代に入ると破却されている。そのため歴史的背景がしっかりありながら、雑草に埋もれていたのである。30年前に整備事業が始まり16年もかけて取り組まれてきた成果が、今の評価になっている。行けばわかる!!・・・ここではあえて詳しくせず、ぜひともとお勧めする次第!!