真田流戦法の本領発揮、名だたる上田城。
3連休の中日、想像以上の人出でにぎわっている。江戸時代は平穏な城として明治を迎え、現在は解体の憂き目から復興したものが多い。ただ戦国末期〜徳川幕府開府までの2度にわたる上田合戦は、歴史好きにはその痛快さがたまらず、そうでない方にも史実として記憶にあるところ。
真田家の本拠地となった上田城は、智将:真田昌幸が家康軍の防衛拠点として築かせながら、後の盟主替えで乗っとった曰く所以がある。縄張りはシンプルで、城下町と近接した近世型の城ながら、ゲリラ戦のような戦い方で2度も徳川軍を敗走させた。上田の町もそうだが城域も河岸段丘に立つのである。
この地から兄弟で分かれ、徳川方に組した長男:信之は、関ケ原の戦い以降、沼田城を預かり有力な臣下となる。父:昌幸と次男:幸村(=信繁)は、上田合戦後は敗軍の将として紀州九度山へ配流される。さらに大阪城における冬と夏の陣で大活躍をしながらも討ち死にした幸村のこともあり、信之は松代へ領地替えとなる。
上田城も真田から仙石へ。江戸時代はほぼ松平家の領地、本城となる。明治維新後は解体され、遊郭に利用されていたが、有志により買い戻され現在の復元を見ることに。
本丸は昔の面影を色濃く残しているが、城好きにはまぁまぁであろうか。ただ実戦の城として強烈な存在感であり、現在では市街地要路となってわかりづらいが、堅固を支えた尼ケ淵の跡地から臨むといかに攻略が大変だったかうかがい知れる。まさに観光の城化しているけらいはあるが、城下町としての仕掛けは多く、一泊するなど時間をかけて楽しんでいただけるところである。