• 2020.02.08 Saturday
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信州の名城巡り-松代城-

まさに真田家の継承、松代城下は歴史遺産の宝庫。

 

真田家を明治時代まで支えた松代の地。家康をさんざん梃づらせた真田家も、藩祖:信之の裁量によって、上田から松代に領地替えを受けてからは、減封も転封も受けずに治世を施した。しかし信之晩年には支藩とした沼田藩において、圧政と重税により一揆が起こるなど穏やかな最後とはならなかった。

 

一方、戦国時代には稀な高齢者だった信之は将軍4代に仕え、実戦経験の豊富さから「天下の飾り(武士の鏡)」とも讃えられた。

また城下は様々に整備が図られて、今日の歴史の語り部ともいうべき見どころ、遺産が多い街として続いてきたのである。今、松代城周辺は、藩校や家老の邸宅などの整備工事が進み、魅力を増している。長野市と言えば“善光寺”だが、この松代城界隈も新たな飛躍を迎えるだろうと。

 

肝心要の松代城は、江戸時代初期の城郭としては古風なデザインが特色で、縄張りの規模も小さいが質素ながらも美しい。政庁は郭外の手前に御殿を置くなど実務を重んじた配置である。また全くの平城のため防御には向かない、江戸時代を迎えるにあたり、平和を想って実戦形式や籠城が固い城づくりをあえて断念したのだろう?近代的な構えが、県庁所在地:長野市の基盤作りにつながるのだろう。

大手門や二の門なども構えも小振りで、信之の人柄からも質素倹約を旨とした藩の気風が反映されているようだ。それは雪にも強い仕様なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

信州の名城巡り-荒砥(あらと)城-

マニアしか行かない、荒砥(あらと)城。

 

千曲川を見下ろす山地にたたずむ、古代山城=戦国期後期の城で砦といった雰囲気。この地は信濃の有力豪族:村上氏の管轄地で多くの山城が築かれ、なかでも荒砥城は村上氏の重臣:山田一族によって守られる有力な拠点だった。特に川中島での幾度にもわたる攻防に、その存在感をとどめてきた。城好き、歴史ファンも多くいるが、こうした中世型の山城への訪問者は少ない。しかしこの日もシニア世代夫婦や若者の一人旅で、この辺鄙な城跡を訪ねてくるのが、なんともうれしくもあり驚いた次第。

 

峠を登り料金所を通過し、数分で山頂に。逆木の柵を通りながら、主殿や家来の共同棟、見張り用の井楼などが、昔の野武士の息遣いが伝わる。躍動する下克上の歴史も、こうしたところが起点となったことが強く感じられ面白い。

また特筆すべきは、NHK大河ドラマ「風林火山」のロケ地として、この荒砥城を整備したことで現在の史跡公園につながっている。狭く急な山道で機材搬入や撮影セットを組む事など、多くの苦労がしのばれる点も。

 

麓の町は鄙びた温泉街。戸倉上山田温泉というあまり有名ではないが、存外に旅館の多さに驚く。香川県の塩江温泉では太刀打ちできない軒数や格式の高い店があるのだ。これは大発見かと。

 

 

 

信州の名城巡り-上田城-

真田流戦法の本領発揮、名だたる上田城。

 

3連休の中日、想像以上の人出でにぎわっている。江戸時代は平穏な城として明治を迎え、現在は解体の憂き目から復興したものが多い。ただ戦国末期〜徳川幕府開府までの2度にわたる上田合戦は、歴史好きにはその痛快さがたまらず、そうでない方にも史実として記憶にあるところ。

 

真田家の本拠地となった上田城は、智将:真田昌幸が家康軍の防衛拠点として築かせながら、後の盟主替えで乗っとった曰く所以がある。縄張りはシンプルで、城下町と近接した近世型の城ながら、ゲリラ戦のような戦い方で2度も徳川軍を敗走させた。上田の町もそうだが城域も河岸段丘に立つのである。

 

この地から兄弟で分かれ、徳川方に組した長男:信之は、関ケ原の戦い以降、沼田城を預かり有力な臣下となる。父:昌幸と次男:幸村(=信繁)は、上田合戦後は敗軍の将として紀州九度山へ配流される。さらに大阪城における冬と夏の陣で大活躍をしながらも討ち死にした幸村のこともあり、信之は松代へ領地替えとなる。

上田城も真田から仙石へ。江戸時代はほぼ松平家の領地、本城となる。明治維新後は解体され、遊郭に利用されていたが、有志により買い戻され現在の復元を見ることに。

本丸は昔の面影を色濃く残しているが、城好きにはまぁまぁであろうか。ただ実戦の城として強烈な存在感であり、現在では市街地要路となってわかりづらいが、堅固を支えた尼ケ淵の跡地から臨むといかに攻略が大変だったかうかがい知れる。まさに観光の城化しているけらいはあるが、城下町としての仕掛けは多く、一泊するなど時間をかけて楽しんでいただけるところである。

 

 

 

信州の名城巡り-小諸城-

全国唯一?穴城といえる小諸城.

 

高校の修学旅行以来40数年ぶりだ。当時から城好きではあったが詳しい予備知識もなく、説明板なども不足で単なる“懐古園”という文人墨客の訪ね得る史跡の認識だったことは、今回で払拭。認識不足を恥いった次第。

小諸城を有名にした一人は、武田軍最強時代の軍師=山本勘助の縄張り強化になる。ブラタモリで有名なキーワードとなった“河岸段丘”を見事に取り込んだ、日本で唯一かもしれない穴城とした。もう一人はさらに領主として統治した仙石秀久であろうか。“信州そば大名”としても愛されている。上田城を経て播磨出石へと、領地替えのたびにそば職人を伴い、先々でそばの食文化を広めたと言われる。

 

河岸段丘の地形=各出丸を配置し切り立った崖を巧みに縄張りとして、難攻不落にさえ思われる。この城を見下ろせる高い場所が全くなく、地面に塀や櫓を乗せるだけで一気に要塞化できている。見通せない城=穴城、まさに個性派の名城である。もう少し復元ができれば、観光動員数は桁が変わるのにと。

残念なことに明治以降、旧国鉄が縄張りを分断するかのように線路を敷設し、JR液によって大手門あたりと二の丸あたりが別にはなっているが、それだけに面白さも倍加しているとも。併設の資料館には、西郷隆盛と藩主:牧野の殿様(=老中などの要職にあった)との書簡はじめ、珠玉の遺産が展示されている点も伝えておきたい。

 

 

 

信州の名城巡り-龍岡城五稜郭-

全国の各県に配慮した名城指定は、好評と歴史好きの増加もあって「百名城スタンプ」ラリーが、さらに「続・百名城スタンプ」ラリーまで始まった。

そういう流れで特筆されるのが、長野県である。今回はある事情=慣らし運転という事で、信州の城巡りとなった。

 

龍岡城五稜郭。

 

旧藩江戸末期、大給松平氏統治下の龍岡の地に洋式城塞が気づかれたのが、この龍岡五稜郭である。函館の五稜郭は実戦の歴史や規模もあり、かの地しか認知がないが、どっこい信州の鄙びたこの地にも築かれたのである。

 

元より陣屋大名だったため、予算も時間も確保できず、堀が狭く周辺も半分くらい未整備のまま明治を迎えた。つまり実戦はなかったという事である。

またこの地でなぜ洋式要塞が必要だったかはなんとも理解しがたい。途上の施設だったため、維新後は学校用地として活用を許されたことが、今の遺跡保存へとつながった。

しかしマニアには見るべき点も多く、この点では全国に2つしかない五稜郭の1つとして訪ねてほしいところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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