• 2020.02.08 Saturday
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「あぁ、三州瓦の本拠地・聖地へきてしまった!」事前準備もせずに。

●全国の60数%を占める三州瓦、その聖地は高浜市だったのか?

 

駆け足もいいところで、半田市〜西尾市〜高浜市を通りすぎた感は、反省大だが。特に城跡・史跡後巡り〜美術館・博物館巡り、郷土祭り巡りに執着する私には、この地を駆け足で抜けるのは残念至極。と、言っていい格好をつけても実は、三州瓦の大生産拠点だったことを忘れて、あまりに立派な「かわら美術館」を道沿いに発見して慌てて立ち寄った次第・・・馬脚を現している。

 

 

●高浜市やきものの里「かわら美術館」地場産業の誇りであろう!

 

実は愛知県はやきものの産地で名だたる窯元や産地が列挙される。昨年は常滑市を走り、INAXさんの「世界のタイル博物館」や周辺公園にも感服した。今回は偶然では失礼だが、過去10数年も「淡路瓦」のメーカー様複数社と取引をして、常に三州瓦のすごさは身に染みていた。しかし諸般事情で縁遠くなることで、通過するときも三州瓦の本拠地というイメージが忘れ去られていたのだから現金なものである。ただ最大手のメーカーは半田市にあるが、いわゆるこの南三河は全体でそういう産業基盤を有しているのである。

確かに西尾市へ向かう道すがら多くの瓦メーカーさんをやり過ごした。

 

 

●「かわら美術館」は企画展の入れ替え日で、常設の産業説明の観覧で!

 

まず威容を誇る美術館の外観=国道傍に立つため引きができないので存在感はわかりづらいが、一旦、公園側&観音寺側から臨めばその威容が飛び込んでくる。コンサートホールのような趣であろうか?

また公園は飯伏瓦のモニュメントや造作が点在し、ある意味、超小型のガウディの造形を醸す。10数年お世話になった淡路も、そこかしこの公園や公共物でこうした瓦の造形が目を引いている点では、さすがに同じく聖地であろう。

 

屋内を撮影できたので間に合わせな画像で申し訳にあが、懇切丁寧に産業としての瓦製造の成り立ちや現状をよく示している点は理解いただけようかと。それぞれのサンプルや解説も大変読みやすい、見やすい博物館であった。

ただ美術館を銘打っているので、3回の展示室を見ると、名古屋大学レゴ部さんの展示が・・・いかに風雅がテーマとはいえ、レゴにうるさい我々親子にはちょっと興醒めかなぁ???ましては不調とはいえ「レゴランド」がOPENした名古屋の意地にかけても、ここは東大レゴ部に迫る展示がほしかったなどと外野的な感想。

 

まずは、本当に現地には失礼なくらい早駆けのレポートでした。5年に一度の全山車がそろう半田祭りが来週とは・・・残念至極。

ただ歴史や文化、産業が多彩である南三河の魅力だけは忘れませんから。

 

 

 

 

 

「地元愛」がつたわる吉良の殿さまと領民の想い。

●西尾は元々”吉良ノ荘”と呼ばれていた。そう、あの吉良家の拠点である!

 

歴史の残酷さは勝者、または判官びいきによって物語られることだ。歴史に興味がない方でも江戸時代の「忠臣蔵」を知らない人はないと思われる。艱難辛苦の末、周到なまでの計画で主君:浅野内匠頭の無念を晴らした、赤穂浪人たちの仇討事件である。

仇討されたのは、元幕府の要職:”高家”を任じられていた吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)だった。その事件の概要はここでは省く・・・時の将軍:綱吉の裁断があまりに一方的という事で、赤穂藩士らが浪人となって後、幕府に対する反省を迫ったこととなるのである。庶民はじめ多くの武家でも、その行動を”快挙”として讃えたがため、吉良家はすっかり敵役となり、そのいわれが今日まで吉良の殿さまの悪評となってきた。

現地に来るといかにその後の領民が、その評価に悔しい思いをしているかが垣間見れるところがあちこちに。上野介が仇討で死去し、嫡男:佐兵衛義周は、守り切れずに自らも負傷したことで、武士道に適わずと流罪に。その死去をもって、一旦、吉良家は断絶となる。

 

 

●約10年後には遠縁の吉良家から義俊を迎えて再興となり幕末まで続く。

 

西尾市が旧吉良ノ荘と呼ばれただけに、今も吉良の地名は残る。特に菩提寺である華蔵寺境内の吉良家の墓や、周辺の道路などは”吉良ストリート”として美観・再整備されている。また寺の門前の駐車場にも上野介殿様の善政や遺徳をたたえる銅像や石碑が・・・境内にもいたわしさを嘆いて慰めた歌碑、看板の説明も入念である。「赤馬の吉良様」として赤毛の馬に乗り領地を視察する姿も、シンボリックな彫刻として、吉良ストリート内の小公園に設置されている。

確かに菩提寺もつつましい穏やかさであり、再興された吉良家も世間をおもんばかってか?華美さはどこにもない。世間とは難しいものである。

 

 

●「忠臣蔵」は双方に痛み分け、その後のことは話題にならない。

 

世間=現代までの「忠臣蔵」ファンでも、存外と浪士の遺族たちのその後に関心がある人は少ない。当時は仇討(=子が親のために討ち果たすこと)ではなく襲撃事件であったこと。幕府も偏った裁断を反省しつつも、かなり遺族には厳しい沙汰を出した。

15歳以上の遺児は伊豆大島への遠島、以下の遺児は15歳を待って遠島。恩赦が出るのに20年近い歳月を要した。その間死去したものや、許されても恵まれた仕官が叶うなど難しい問題は残った。

 

 

●刃傷沙汰の原因は今も不明、諸説は多い。

 

浅野内匠頭のこらえ性の無さや吝嗇な姿勢が、賄賂が当たり前の時代に上野介翁への欝憤となった?・・・上野介翁の病気による偶発的な感情の行き違い?・・・書画鑑定や茶器、衆道説などさまざまである。1つ面白いのは、吉良家も塩田を持ちながら、赤穂ほどの良質な塩田でなかったので、その技術指導を望んだが断られた?であろうか。

※添付の写真は、その塩田の様子を示したものである。

 

歴史は勝者の記録でもあるが、本当に見極めようとするなら現地を見ることでもあろうか?しかし現地は判官びいきかもしれないし

不明点は多い。だから面白い・・・偏った一般論だけで判断してはならないことだけは言えよう。

★池宮彰一郎氏の「四十七人の刺客」が映画化された「最後の忠臣蔵」杉田成道監督・・・は、そういう面で視聴に値する著書で映画であろう。

※余談ながら女優の桜庭ななみがとても可憐だったことを思い起こす。今も三菱地所のCMで、いかんなく魅力を発揮しているが。

 

城下町”西尾”。譜代大名が継承した要の地勢。

●三河の小京都と呼ばれた風雅が香る「城下町:西尾」。

愛知県は本当に歴史の宝庫だ。特に戦国期〜江戸時代好きの私には、興味も尽きないが探訪しないといけないところだらけ。今回は時間がなく1時間以内で行ける西尾を選んだ。愚息のアドバイスでもあり彼は3度目だったが。

 

 

01:鎌倉期に足利義氏が築城した西条城が始まりとされる。

こののち江戸時代で有名になる吉良氏と改姓する。戦国期には家康軍団の譜代家臣が入れ替わりで拡充する。本格的な城としての完成は江戸初期、太田資宗〜井伊直之時代によるが、以降、明治までは大給松平が、6万石の城下町を継承していく重要拠点であった。

現在は復元された本丸丑寅櫓と、二の丸御門:鍮(ちゅう)石門が、木造で復元され、堀の遺構とともに城跡らしさを伝える。立派な資料館があり、内容も充実しながら入場料は無料といううれしいサービス。

※史跡内の旧近衛邸では西尾の名物:抹茶が味わえ、しかも希望によっては金茶碗での喫茶が叶う。

 

02:西尾市は由来も豊かで名物が多い。

三河の東は遠江、戦国期までの代表的大名・今川氏も実はこの西尾がルーツ。さらに江戸時代の忠臣蔵ですっかり悪役イメージとなった吉良氏もここがルーツで、鎌倉時代までは”吉良荘と呼ばれていた。江戸時代は東上する反幕府軍を阻止するための重要な役目を持ちつつ、風雅を嗜む文化的な城下町、それゆえに三河の小京都と呼ばれることに。

なんといっても”抹茶”?!えっ、日本茶って宇治や静岡で、さらに全国いたるところに銘茶がありはしないか・・・と誰しも思いがちだが、古来より風雅な領主をいただいた西尾は、抹茶が生産量日本一なのだ。

※国道と並行して茶畑が野菜畑のように広がる意外な風景。段丘にうねる茶畑のイメージが一般に強いが、まるで農地という感じ。

 

03:広い面積を誇る西尾市は、南域が海に面して風光明媚さが漂う。

歴史に彩られる伝統催事が多いのも小京都と呼ばれた所以。さらに現代では佐久島クルーズ、トンボロ干潟、いきものふれあいの里、尚古荘、各記念館など見所・遊び所は多い。何より隣接の碧南市、半田市、高浜市、蒲郡市、安城市、岡崎市など、多彩な町に囲まれている点も利点だ。自市以外の魅力に触れるにもアクセスが良いのだ。

※今回は走り訪問だが、西尾市を中心に何か所をブログにしてみた。四国の人間は案外と訪ねることがない町のような気がして。

 

 

●最後に。

西尾市は人口17万人という中規模都市で、面積も愛知県では6番目とかで、まさに三河の代表的な町の一つ。本来は1日じっくりと歩いて、その風情を味わうべきだが、抹茶一杯飲まずに横切らざるを得なかったのが残念。

 

 

 

 

 

地域文化や伝統が、香り立つ”半田市”を見習いたいもの!!

●愛知県半田市ってご存じか?

 

愛知県の知多半島の付け根に位置する半田市、現在の人口約12万人の産業と交易の盛んな歴史に彩られた市。東海地区でも名だたる町あるが、我々香川の人には馴染みは薄いか?と。私が”町づくり、振興関係”で参考にしたらと思う町の一つであるが、地元で話をしても関心が深まった様子にはない。百聞は一見に如かずなのだが・・・。そういうことで以下、さらりとお知らせする次第。

 

 

●童話作家「新美南吉」と”ごんぎつねの物語”にちなんで。

新美南吉は郷土出身の童話作家。幼少期より童話に親しみ東京外国語大学卒業であるが、卒業後は童話作家に。惜しまれながら結核により29歳の若さで夭折した。作品「ごん狐」が有名であるが、記念館もそれが主体で構成されている。

 

01:記念館のデザインがユニーク。

童話の森として整備された公園内に、地中を擬した記念館となっている。新美南吉の生涯は無論、挿絵画家の紹介や、カルチャー教室など多様な施設となっている。

02:挿絵は、鈴木靖将画伯が記念事業として手掛ける。

童話のストーリーもさることながら、それを子供たちにより浸透させるには挿絵がの魅力も不可欠。記念館で物語の情景が浮かぶジオラマとともに、日本画家:鈴木画伯の手による挿絵が展示されている。

 

 

03:記念館すぐの矢勝川岸の曼殊沙華が咲きほこる美しさ。

”ごん狐”にちなんで、記念館横手の矢勝川沿いの岸辺には、曼殊沙華のじゅうたんのような景観が広がる。「ゴンの秋祭り」と銘打って300万本の曼殊沙華が咲きほこるのである。

私は30年前から、地域観光には小細工などせずに市内を流れる3本の川=財田川〜一の谷川〜柞田川の河川敷に、季節を分けて花を植えるだけで十分な観光資源になりことは伝えてきた。半田市:矢勝川の曼殊沙華はその成功例の1つ。今回は1週間早かったか?全面的ではなかったが、人・人・人の散策である。

 

 

●祭り山車は最高潮。東海地区を代表する保有数を誇っているようだ。

あと1週間遅ければ5年に一度の市内全域からの総そろい踏み=31輌の山車が集結する、荘厳で迫力のある祭りに出会えたのだが。

来場者は年々増えて、前回は53万人だったとか。

愚息の就職関係で犬山市に在留していたときに体感したが、春祭りのからくり人形を最上に備えた山車が、13輌でも50万人の動員というすさまじい祭りの中を歩いた経験がある。添付画像を見ていただければ、そのスケールに驚きかと。

 

 

01:五穀豊穣の神事だけではない、現代ならではの視点で。

半田市は湊が充実し、様々な物資や生産品の積み出し受け〜中継拠点として、中世〜近世に最盛を誇っていた。我々の郷里の太鼓台祭りは、農村が占める町ゆえ、五穀豊穣の秋祭り中心で伝統が引き継がれてきた。しかし昨今は地域の産業構造も変化し、また市民のライフサイクルも激変で、秋祭り=太鼓台文化の継承と繁栄が杓子定規のままでは存続すら危惧されてきた。

 

02:東海地区は柔軟性を感じる。

祭り屋台としては京都以東から東海地区までは、基本形は同形状に近い。ただ滋賀長浜のような子供歌舞伎の舞台(=相当手狭ながら)、犬山〜飛騨高山〜半田はから繰り人形舞台と特色が際立つ。少なからず観光目的を意識している点であろうか?

私たちの郷土「太鼓台(ちょうさ)文化は、五穀豊穣のまま、ほんの一部の春開催を除いて、95%の太鼓台は10月中で完了となる。集合の多い神社が日程で被ると、どちらかが観れないことに。当然、蠣手である若い衆は、他の町どころではないのである。

 

03:保有台数:約130台の秋祭りに人を呼び込むことは、地方にとって正か否か?

若手が毎年流出し人力に頼る太鼓台の運行や祭りそのものの開催が危惧される。1台:約7000万〜1億円以上もかかる造作の大変さ。またそれを運行するに100名を必要とすること。次世代へバトンタッチするには観光面でのしたたかな戦略が必要ではないだろうか?市内最多数の集合地区=豊浜で24台。歴史が古い観音寺で9台なのである。あまりに市内に点在してインパクトに欠ける。市制50周年記念で、市民に参加を募ったものの130数台の内50台程度となんともいわんや?!との声も・・・。

 

04:観覧に見合う文化かどうか?

東海地区の山車の多くは絡繰り人形が組み込まれた舞台をしつらえていて、多くの観衆はその演目の動きに魅了されている。無論、木彫の見事さや山車そのものの雰囲気も伝統が醸し出され素晴らしいのだが。当然、しずしずとした運行は、乱れることもなく暴れ出すこともなく、観衆は安心してその優美さに酔いしれる。

我々の太鼓台文化はどうか?造形物としての装飾美もまといながら、100名に及ぶ搔き手の暴発で喧嘩沙汰や死亡事故すら呼び込む荒々しさが、どこか自慢げでもある。また伝統と言いながら、太鼓打ちのリズムや運行〜掻き揚げの所作もどことなくあいまいで、100数十年の伝統も訝しい。

絡繰り人形は子供たちが、保存や修理を担うことで、モノづくりの基礎につながるという。さすがに我々の太鼓台も地区住民の手で補修はされるのは救いであるが。

 

 

●まだまだ類似点があるのだ・・・。

太鼓台文化を支える観音寺市&三豊市は、もともと同じ生活圏で合計12万数千人。太鼓台数でいえば150台を超す。また産業は多彩で、過去には上場企業も存在しながら、故有り今は中堅企業群となっているが、冷凍食品の国内最大の生産地。また同じ太鼓台文化を担う四国中央市(=愛媛県)は、衛生材〜製紙メーカーの世界最大の拠点。半田市は醸造関係の多い東海地区では酢で有名なミツカンさんの企業城下町である。

また新美南吉氏ではないが、美術においても「門脇俊一画伯、田中たかし画伯」を生んだ郷土でもある。・・・よくよく見ると類似性がありながら、なぜか半田市のような集客はない。産業基盤の規模や隣接する市町村の人口規模が東海地区とは比較にはならないが・・・言い訳や目移りしてばかりでは、地方振興のキーポイントを見逃してしまうのでは???

 

いつもそう思う半田市での半日だった。

 

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