●この地から全国に名を馳せ、中国の覇者となった毛利元就の凄み!!
戦国時代の半ば、安芸の片田舎(=現在・安芸高田市)から始まり幾多の修羅場を潜り抜け、生涯をかけて中国地方を手中にした全国有数の大名が毛利元就である。彼の魅力は、これまで幾多の大河ドラマや時代劇になってきたことで、証明されているだろう。
❶小さな砦の城主からはじまり、尼子・大内、陶と名だたる太守レベル相手に勝ち抜いていったこと。
❷3人の息子の内、2人を戦国時代には珍しく良縁で本家を支える婿養子に出したこと。
❸織田信長、羽柴秀吉の天下人を相手に一歩も引かなかったこと。
こうした優れた戦略こそが真骨頂。他国の情報が得にくい戦国期に、しかも小さな砦領主が乱立する田舎地から、地方最大の大名家へと発展させたことに尽きようかと。
●広大な山城も難攻不落ではない。まさに知略・戦術に秀でたからこそ!!
現在城跡となる郡山吉田城は、どの山城とも変わらない縄張りで、広大ではありつつも近在の砦も似たようなもの。最大の危機、山陰地方の太守:尼子勢に攻められた時、その知略や戦術が見事に成功している。敵失にも恵まれたが、近在領主の協力も得て、見事に返り討ちさせた。
地方再生が叫ばれる今日、元就にならえば ”都会に一矢報いる気概を持て” と叱咤激励される思いである。
●一日、一力、一心・・・その日その日で、力を合わせ、心も一つにすれば叶う!!
「百万一心」の文字を微妙に分解して刻む。この時代、人柱を立てると難工事も完成すると迷信されたが、元就はこの文字を刻んだ石碑を埋めることで代わりとしたと伝えられる。それだけに、単に覇者を目指しただけではない、彼の領国経営や人心掌握の理念がうかがえる。城域内の石碑に向き合えば、改めて元就の思いを感じれる。
毛利元就は実に織田信長よりも30数歳年上で同世代ではない。信玄、謙信も20歳以上離れ、信長〜秀吉にとっては天下統一のための運も良ったかもしれない。家康はその毛利家を恐れて関ヶ原戦の戦後処理で、長門萩へ転封。しかし幕末まで営々と生き延びたその経緯からは、現代のわれわれが学ぶべき点も多い。
毛利家は秀吉時代には、現広島市にある広島城へと本拠地を移し、しばらくこの郡山城は歴史から忘れられていたが、江戸時代後期、広島藩の支藩として郡山城は復活する。それは台頭する長州藩の抑えとして・・・皮肉な話で歴史とは面白い!!
★それにしても、安芸吉田市の資料館は、人口規模の割に本当に立派な資料館である。ぜひご覧いただきたい。