• 2020.02.08 Saturday
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工夫するということ。
去る9月15日(祝)、voxの母なる存在つつい課長が休日出勤をしていた女子スタッフのために『手作りアルコールランプでラーメンを作る』を披露してくれました。

アルコールランプの仕組みを説明する課長。



これらはファミリーでキャンプを楽しむため、100円ショップで部品に使えそうなものを買い集め、毎晩試行錯誤をくり返し完成させた自慢のアルコールランプ、とのことです。

ラーメンを煮る傍らでトッピング用の餅を焼きます。

そして女子スタッフの昼ご飯『力ラーメン』完成です。

次は自分用に『さんまの蒲焼き塩ラーメン』を作ります。

美味しそうです。


そして、片付け。入れ子状態でみるみるコンパクトに。最後ゴムバンドで止めるところまで本当にお見事です。



仕事中に自分が飲んだコーヒーの空き缶で調理道具が作れてしまうなんて、、、『工夫する』ということを身近で感じたランチタイムでした。

課長、超〜〜〜超〜〜〜お忙しい中、ありがとうございました


 
これは、秀作かな!!とある強き明治女性の物語。
●諸田玲子氏の著書「お順(上)(下)」主人公は勝海舟の妹、その人生。


明治維新前後に歴史上、名を遺した様々な人材。武士あり、民間人あり、権力者あり、庶世人あり。また女性でも少なからずやである。歴史探索の好きな女性を「歴女」というらしいが、しかし案外とこの著書の主人公「順」は幕末〜明治維新の英傑に深くかかわる数奇な女性であるが、男性は言わずもがな、女性の方でもそう知る人はいまい。当然、私もまったく眼中になく、読むことで知ったという恥かしい限りではあるのだが。

幕末に幕府方、特に落ちぶれたとはいえ直参旗本の勝家が輩出した「麟太郎=のちの海舟」はあまりに有名である。また太平の世が長かったため武士が腰にさした二刀は飾りかと言われながら、外国船が渡来し、王政復古〜尊王攘夷などときな臭い情勢下で剣術も復活して町道場もにぎわったが、剣術界で不世出の剣士といえば男谷精一郎がいた。これが義兄弟である。


●勝海舟=男谷精一郎=佐久間象山という流れに深くかかわる。

勝麟太郎は、男谷道場に学ぶことで島田虎之助(=福沢諭吉で有名な中津藩出身)の剣技や人柄は兄弟子として尊敬していた。麟太郎は幕府の要職に就くまで雌伏の時だったが、開明派の人脈が確実に広がっていた。それは自身の研鑽の結果、私塾「氷解塾」を開くことでつながった人脈である。坂本龍馬が勝麟太郎を害しようと塾へ押しかけながら、逆に彼の広い視野や高邁な理念に啓発され、一番弟子として私淑したことは話すまでもない。当然、吉田寅次郎=のちの吉田松陰も学びに来ている。そうそうたる人脈交流の中でも傑出した人物に、信州真田藩の藩士で学者「佐久間象山」がいる。彼の唱える指針は開明派の多くに影響したと言われる逸材である。

当時、男はそれぞれの分で新しい時代の生き方にもがいていた時代。では女性はどうだったか?やはり生計的に独立できる時代ではなく、男性の働きに依存しなければならない服従の時代であった。この主人公、「順」は勝家の次女として生まれ、唯一父親、小吉の性格を映したような面があった。ゆえに数奇な運命をたどるのだが。しかし決して奔放で愚昧ということではなく、思い込んだら一途、できれば「日本一と言われるくらいの男に嫁ぎたい!!」という念が強いのである。それは今でいうセレブ志向ではなく、そういう男のそばにいれば自身も輝ける=自身の成長や溌剌たる働きができる、子育てととともに生き甲斐を・・・という考えである。貧乏は勝家で十分すぎるくらい味わっているので、ほとんど計算外、恐れなど微塵もない。生き方そのものを問うのである。


●剣術家:島田虎之助との婚約から、稀有の思想家:佐久間象山の正室へ。

勝家は貧しく、親戚の男谷家には援助を得ていた関係で、剣術家:男谷精一郎の高弟:島田虎之助と麟太郎の交流は深い。順(=お順)は、初恋の人として大変な憧れを抱いて、ひたすら島田の嫁となることを念じた。歳の差は20歳以上であるが、それだけ早熟であり、かつ明晰でもあったゆえだ。しかし結婚目前で虎之助は病死する。日本一と言われかけた剣術家との死別は大変なショックであった。

その混乱にありながら、周囲の勧めと「日本一と言われる・・・」を絵にかいたような思想家:佐久間象山へ突如、嫁ぐことになる。象山は松本藩士でありながら「象山塾」を開き、その思想は藩主の格別な庇護と推薦もあり、全国の開明派に影響を与えていた。すでに40歳を超え側女二人に子供を産ませていた。家族運なく、子供も死去した側女の息子が一人という家系存亡にあったことも大きい。また島田を失った精神的な虚脱感から気持ちを切り替えての結婚であった。


●勝麟太郎から勝海舟へ。佐久間象山の暗殺から、自暴的に村上の愛人へ。

佐久間象山に嫁いでからは佐久間家と「象山塾」の切り盛りで忙殺され充実していたが、悔しくも子供が授からず、象山にも側女を勧めなければならない辛さもあった。「順」は懸命に支えていることで、本来、女性が嫁ぎ先で頑張ることの充足感は満たされた人生であった。しかし母の病気見舞いで江戸へ戻っていた折に、京都へ出ていた象山が暴漢に暗殺される破目となった。その影響力を持て余した真田藩から、佐久間家の断絶が言い渡される。理由は後ろから斬られた(=当時、武士は背中を切られることは、逃げようとした卑怯なふるまいとされ)という難癖でもあった。後々には再興されるが。

順は江戸の実家にいてその知らせに愕然としつつ、仇討ちを覚悟した次第である。兄、麟太郎には制止されていたが。結局、信州に帰らず仕舞で佐久間家とは縁が切れるという始末の悪さもあった。すでに幕末、明治維新の真っただ中。兄、麟太郎は幕府軍と官軍のはざまで難しい政権交代の調整と諸外国との開国問題の処理に、海軍トップとして苦悶していた時期である。外国勢力に取り込まれる国になってはと、戦のない政権交代をひたすら目指す兄は、両方からの暗殺が懸念されていた立場であった。

ここで登場するのが、かつての島田虎之助を髣髴する剣術の使い手、村上俊五郎であるがどこの馬の骨ともわからない。ただ混乱時に兄の護衛役として、勝家の自衛にも当たっていたこと。さらに涼やかな良い男で都謡曲などの遊興にもたけている人物もなぜか惹かれる順であった。不逞は父、小吉の姿とダブり、剣術は島田とダブることで幻惑した一時的な気迷いと後述されているが、片方が勝海舟の義兄弟とあちこちで触れ回られる愛人関係となっては、事は簡単にすまなくなった次第。本来が不逞の男で最も危惧される顛末となるが、後ろ盾の男谷精一郎が破門するまで、何十度となく勝家へ金の無心に来るのである。すっかり愛情もなくなり疎遠とはなったが、後々まで嫌な思いを引きずるから、順の男運は今風の女性であろうか?


●女性はしたたかであるべき、また不可欠のものである!!

順の生き方は奔放で、かつ上昇志向である。当時としては珍しい生き方だが、意外と知らないものである。それも諸田玲子女史の筆によって広く知らしめられた。ポイントはいくつかあろう。初恋や最初の思いが強くても、また視線を変えれば男性観も生き方も変えても良い。日本一・・・にあこがれても、気迷いでは不逞な男にも惹かれる(=これは勘弁してほしいが)。

人が生きていく上では、何度も紆余曲折があり、とりわけ男女の中とは上昇志向であって、自身の美化で思い出の箱に閉じ込めるものではではないことかと。両者が、特に女性が応援すれば男は頑張れる・・・そういう存在が女性であることは今も同じかとも。友人には3度目の結婚という猛者がたくさんいる。是非は別として、それも人生であることを「お順」で感じた次第。

斬った張ったの時代が嫌いではない私に、明治維新期に活躍した人物の身内にこういう女性がいたこと=また女性が繋げた明治維新の人脈の不可思議さが、一気に読み通せた理由になった。合掌
旅の思い出写真集 〜伊豆大島〜
私が時々おじゃましている山の学校の副理事長が、第4回アートアイランズTOKYO・国際現代美術展に出品されたので、「この機会に!」ということで、伊豆大島に行ってきました。



覚書き(左上から)
1)岡山から熱海へ。新幹線の旅は駅弁から。
2)熱海から大島へのジェットライン。貸し切り状態。
3)車はすべて品川ナンバー。
4)宿泊割引券。ただいま観光復興キャンペーン中。
5)裏砂漠。富士山が見えてます。
6)オープニングセレモニーをすっぽかして案内してくれた副理事長と記念撮影。
7)アートアイランズTOKYOのポスター。
8)メイン会場。運動場の十の字も作品です。
9)校舎の廊下。気になる窓の高さ。
10)階段踊り場のLED作品。
11)資料室の作品。
12)仲良しロッカー。
13)OSHIMA BUS。
14)ゴージャスなひまわり。
15)海辺にぽつんとゴジラの像。
16)大島温泉ホテル。霧の中の露天風呂は最高です。
17)野生の猿。いたるところに出没します。
18)観光ポスター。れっきとした2014年版です。
19)懇親会でタイヌードルを振る舞ってくれたタイの先生。
20)椿の実。島中椿の実だらけです。
21)今回の旅の目的。副理事長の作品と記念撮影。
22)帰りの船の乗り場で。お別れのぷりん。
23)熱海駅前のレストラン。ウエイトレスのおねえさんのブルーのアイシャドーが印象的でした。
24)もういちど飲みたい静岡麦酒。




出発が近づくにつれ、どんどん危うくなっていった天気予報でしたが、このてるてる坊主のおかげでなんとか持ち堪えてくれました。ありがとう、てるてる坊主。
一隅を照らす・・・五条川沿いの桜並木
五条川の桜並木は前のブログにも書いたが、全国の桜100名選にもあげられる並木である。主に愛知県丹羽郡大口町から岩倉市にかけてが秀逸である。無論、清州あたりも集約されて美しいが、途切れがちになっての最終エリアだけに、やはりこの2市町が秀逸な並木の長さである。今日の堂々たる川岸を連ねる桜並木も、その元はといえば昭和初期世代の植樹が始まりだそうだ。しかしこの五条川は、戦国時代フリークにとっては桜並木とみごとに重なる歴史がちりばめられた並木道でもある。川でいえば川上になるのが大口町。ではここから歴史散策してみよう。

下剋上激しい戦国末期に、織田信長の台頭前にすでに別の織田一族の城があり小口城という。今は歴史資料館として”なんちゃって再現”ではあるが、資料館の展示としてはきちんと学術検証されて、展示も貴重なものがある。ここを少し南へ下ると、江戸時代初期の松江藩の藩祖として、また何より織田、豊臣、徳川3代において武勇で名を馳せた堀尾吉晴の出身地としての公園もある。その中には、堀尾家の身内として戦に出かけ戦死した、堀尾金助と母親の愛情物語として名高い「裁断橋」が復元されている。さらに南へ進むと岩倉市であり、当時に岩倉城があったことが記録されている。随分マイナーな話??でもこの大口町は小さな町ながら立派な資料館があり、大変丁寧にジオラマや展示品や記録集が整い、感心させられるのである。


さらに南へ下ると、織田信長亡き後、跡目相続の大舞台となった清州城に到達するのだが、那古屋城で生まれ育ち、尾張を制したことで小牧城を築いて移転した大きなエピソードも残る城である。清州城もそうだが、岩倉城、小口城、これらは小牧城に向かって存在している。当時としてはかなり大きな縄張りとなった小牧城。信長の入魂の城だが、のちに惜しげもなく岐阜城へと彼は居を移す。信長の跡目相続で、ついに雌雄を決さんと徳川家康軍と豊臣秀吉軍が合いまみえたのが、歴史で必ず出てくる、「小牧・長久手の戦い」の舞台へとつながるのである。併せて北に位置する、犬山城もその時に軍事拠点であった。

五条川はそうした歴史上の拠点をつなげる糸のような川なのである。武士は桜の美しさを生きざまに例えて誉としていた時代である。歴史の断片とはいえ、五条川の桜並木で見事に彷彿される。昭和時代に何気なく桜の植樹が提唱され、多少紆余曲折はありながらも、営々と五条川川岸を桜の植樹で埋めていった、この地の皆さんの努力には敬服する次第である。桜の季節では、すさまじい人での五条川ではあるが、ぜひその折に小口城歴史資料館や大口町郷土資料館、堀尾跡公園などへも足を延ばしていただきたいものである。



「一隅を照らす・・・」は、精神的な支柱として、その教えを全国から請われる、京都山科の一燈園さんの名言のひとつである。これだけ豊かになっても大学進学から始まり就職まで、東京信仰が薄まることはなく、長く続いたデフレや不景気感では余計にそういう風潮である。しかし人が生きるにあたり、全ての人が東京での夢はかなわない。改めて諦めるとかというのではなく、生きていく中での価値観の見直しとして、単なるふるさと志向ではなく、どっしりと構えた取り組みや永続的な積み重ねで、「小さなことでも、一隅を照らし、積み重ねていけば、後世には残るものがある」・・・そういう一隅を照らす人が増えてほしいものである。合掌


 
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