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現代 大学生事情
東京で、仕事を求めて、あらゆる企業・団体に出向いて行っている。 一人でも多くの関係者とお会いし、現在、何が求められているのかを、肌で感じることを大切にしている。そうした中、大学に行く機会が増え、実際に生徒を教えている教授の方や、事務に携わっている人たちから、現在の大学生事情を聞くことが多くなった。 気になった点をいくつか紹介してみたい。皆さん、口をそろえて言われることの1つに、入学された生徒の学力に幅があることを指摘される。入学する方法も、20年前と比べると様々である。AO入試、センター試験による合否、推薦入学など、学部に拘らなければ、1つの大学で、6〜7回ぐらいチャンスがあるそうだ。高校生ぐらいの子を持つ親からすると、信じられない話しである。 また、多く聞かれたのが、漢字が書けないことを嘆いている先生が多かったこと。 物心付いたときから、すでにコンピューターが普及し、手書きで書く機会が少なくなったことも要因のひとつであろうが、とんでもない当て字をする生徒が多いと話されていた。答案用紙を採点する先生では、字を見ただけで、この子の成績が分かってしまうと言っていたぐらいだ。 また、エネルギッシュで目立つ子は、女子生徒がほとんどで、男子生徒がおとなしくなっていることを指摘する先生方もいらっしゃった。 いつの時代でも、年配者は「近頃の若い者は・・」と嘆くものだが、若い人の特権の型にはまらないエネルギッシュさはなくさないで欲しいものである。 |
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健康について・・・そして“白い航跡:吉村 昭(作家)”、崇高クリニック:荒木 裕(医師)“へと。
先般、香川県が野菜の摂取率で男性が全国ワースト1、女性が全国ワースト2と発表された。当然、糖尿病の罹患率もお隣の徳島県同様、全国ではトップクラスだそうだ。まずその理由としてあげられるのが、「讃岐うどんの食べ過ぎ」からくる野菜不足と炭水化物摂取過多と言うことにつながるか?と。全国の小麦粉消費グラフで見ると香川県はダントツの多さである。しかし香川県は農業生産大国でもあり、生産種類の幅広さや生産品目で全国有数の種類も多い方だから訳がわからない。以下、こうした健康と食事について紹介したいことがある。
健康で気になる=糖尿病(贅沢病とも言われる)と炭水化物の関連である。炭水化物:特に白米の摂取オーバーは食が進み、栄養もカロリーも過多になり易い。甘味を感じることで“食べる幸福感”が余計に促進されると言う、脳自体の働きかけにもよるそうな。
1:まずは「炭水化物=糖尿病の悪友」・・・特に白米は穀類では断然おいしさが違う。でも精米が進んでいるためビタミンBなどが欠乏し、含まれるミネラルが少ない。また小麦粉も同じ炭水化物だから、麺類、パンなども気をつけなければならない。 「糖尿病の駆け込み寺」とも言われている兵庫県加古川市の「崇高クリニック:荒木医師」様が有名だ。余りに独創過ぎて評価は分かれるそうだが、私は著書を読み実践して改めてすごいなぁと感心した。徹底して炭水化物を排除し、糖分の多い野菜・果物も避けた食生活で立ち直らさせているのだ。特にタンパク質・アミノ酸の摂取の大切さ=体力維持にも、と説かれている。まるで目に鱗であるが、認めていない医師も多いそうだが、まずは自身の健康のためなら大いに試すべきだろう。価値は十分にあり=第一、薬療法でなく食事の見直しなのだから危険性も全然ないことがあげられようか。私は大阪で単身赴任中に実践して、見事7カ月で腹回りだけを減量できた。運動は全くなしである。でも今は悲しいかな、讃岐うどんでリバウンド=「あぁ、うどん断ちやなぁ」と迷うこの頃であるが。 ★「 崇高クリニック 荒木 裕医師 」と、カナ検索すれば、すぐ出てくるのでご参照ください=糖尿病でお悩みの方は!!
2:まずは“白米至福主義”は返上しよう・・・明治時代の海軍軍医で「高木兼寛」という医師がいた。戊辰戦争時代は薩摩藩軍医、明治になって優秀さが認められて帝国海軍の軍医に。当時、海軍の長期艦隊訓練では、毎年、洋上公開が長くなるほど途上「脚気」で死亡する兵士が続出。理由はウイルスだとか、個人的な病気のように言われていた。高木軍医は早くから白米によるビタミンB不足からという考えを提言し、周囲の冷ややかな視線の中で苦労の上、実証して行った。高木の提言の時代、毎年700~1000名近い死亡者が記録されているから驚く。要は海軍へ入れば美味しい白米が食べられると言う訳で人気があった。しかし外国の海軍ではパンやビスケット、コンビーフなどが補助食品でビタミンの欠乏を補い、ほとんど「脚気」による死亡者はいなかったそうだ。しかしその高木軍医の提言も、ドイツから最先端の細菌学を学んできた他の軍医から嘲笑され、幾度も立場上窮地に陥ったと言う。その追いうちの急先鋒が森軍医=後の文豪:森鴎外の若き頃だったと言うのも驚きだ。
明治海軍は高木を評価し、実践することで死亡者を激減させたが、陸軍は細菌説に凝り固まり、日清戦争で3900名、日露戦争で2800名近い死亡者が記録されている。しかも患者数はその10倍近いのだ。いかに高木軍医の功績が大きかったかと言うことである。彼は後に慈恵会医科大学の創設者となり、近代日本の医学に大きな存在を示す。またその功績は世界が認めるものとなり、南極大陸に日本人としてその名前を最初に、そして永久に残す人物となるのである。“Takaki岬”と言う。 ★吉村 昭著「白い航跡:上下2巻」・・・ネット検索でアマゾンでも購入できます。
●荒木医師の話は大阪事務所で取引先から「ふすまパン」のパンフレットの依頼があって本を読んだという偶然によるもの。立派なキャリアだが独創性ゆえに医学界からは異端児と言われ?崇高クリニックもあまり知られた存在でもないかもしれないが、お困りの方には大朗報かもしれない。 高木軍医の話は歴史小説の名手で、史実・検証にこだわる作家「吉村昭氏の著書による。時代小説とは言いながら、氏の小説は本当に渋い!!「夜明けの雷鳴」「天狗争乱」「桜田門外ノ変」「冬の鷹」「深海の使者」「零式戦闘機」などはひとまず読んでいるのだが。歴小説でこうも一般的には無名の人々や大事件ではないが、気掛かりな事変によくも光が当てれるものだと感心しきりの作家だ。
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地面に描かれた広告
広告のあり方も色々ありますが、地面に描かれた
広告はインパクトがありますね。 アイデア満載の地面広告を見ていきましょう。 スキー場のリフトに乗っている気分が味わえるベンチ スキー板の広告でしょうか? それともスキー場でしょうか? ペットショップの前の通路に一枚いかが! ワンちゃんがそこから動かなくなるかも。 街路樹の間に切り株の広告 自然破壊の啓発広告ですね。 どんなところにも駐車できる ジープの広告。ナイスです! バーコードの横断歩道、 ショッピングセンターの駐車場とか 使えそうですね。 階段が衣類の引き出しに! 購買意欲が増します。 湯気が出るマンホールのふたに コーヒーの写真。 飲みたくなりますね。 電車の床がビーチに! 海に行きましょう! ユニセフの公共キャンペーンです。 足にくっつく丸いシール、その下は!! 地雷の問題を取り上げた広告。 こんなふうにアイデア一つで面白い広告が できちゃいます。 遊び心を持った広告だからこそ、 関心を持たれるのかもしれません。 |
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静寂の境内に佇む、精進料理店の話から
つい先週の明けに、営業打ち合わせで岡山市北区御津町へ。新しい商品パッケージの打ち合わせだったが、先方が大変ビジネスキャリアのある方で、案件の契約や進め具合がスマートで段取りよく、久し振りに手際よいビジネスとなった。それで少し時間に余裕ができたため、新規開拓として以前から訪ねたかった大学の先輩のところへ。
名前をは精進料理店「金亀」”という予約制のみの、今どきどえらい贅沢な経営をされている店である。場所は岡山県民には名高い臨済宗の禅寺で「宝福寺」という総社市にある古刹の門前にある。耳年増で大筋を理解しながらも、実は初めて訪ねるのである。ましてや完全予約制の店ながら、ネットで調べると1種類だけ:金亀御膳とかだけは予約なしで大丈夫とか・・・で、勇んで伺ったのだ。 総社市と言えば年に一度とはいえ、弊社神棚に鎮座するのが最上稲荷であるため、必ず年始には詣でて、お札を頂いている馴染みの土地である。また自民党香川県連の青年局員であった頃、全国研修で東京へ派遣された時が橋本龍太郎総理で、研修打ち上げの大パーティーに急きょ参加いただき、私も瀬熱にも握手いただいた記憶が思い起こされる。小柄な方だが、剣道の高段者としても名をはせた、私には好きな首相で、この総社市が地盤であった。流石に閣僚経験が長く総理大臣として激務の中、剣道をする時間もなかっただろうから、竹刀だこの後はなく柔和な笑顔とともに温かく柔らかな手だったことが印象深い。 全国研修は分科会に分かれて、国の施策を各担当議員から説明を受け、質疑応答するという思った以上に熱のある高度な研修会で、あっという間の3日間だった。私は運よく防衛問題研究会を選択させていただいて良い勉強になった。こうした実りのある研修などはマスメディアにはまったく報道されない=普段、あおることや上滑りなだけの大手マスメディアの論調に、苦虫を噛む私にはもう18年も前の事だが、自民党中堅や若手には尊敬に値する議員が多く、参加できてよかったと思っている。打ち上げでの大パーティーでは、GIIN“Sとか名乗る議員によるバンド演奏もあった。いい加減うんざりするハマコ―氏と違って子息の浜田氏がバンドメンバーでその意外性に感心した。秀逸は作詞作曲ができる林参議院議員で、彼のCDはその場で購入した。またステージネームは失念したが、橋本総理の物まねをしつつ、政治談議をかけあう漫才コンビも現役議員においでて、これはこれで巧みな芸だった。現役総理の前で風体まで真似しつつ、漫才ネタで批判をしてのけるのにまず驚愕だった。それほど当時の自民党は中堅若手に活力があり、いい意味で政策論争、権力闘争ができていたのだと懐かしい。
前置きが随分長くなった=いつもながら・・・で、その総社市は広く、宝福寺までは最上稲荷から結構離れていた。ナビがついている営業車だったが、淋しいローカルの単線沿いの細道に入りかけると本当にあるのだろうか?と不安も起きたのだった。いよいよとどの詰まりに鬱蒼と緑の木々がこもった丘が迫ると、そこに臨済宗:宝福寺が弧高の侍の様に佇んでいた。 門前へのアプローチは広大な寺領、境内敷地にくらべてかなり狭い。茶室へ入るためのにじり口のように、身をかがめて入室するかのような気配である。
ご興味が起きた方はネットで総社市の禅寺:宝福寺と文字入力したらすぐアクセスできて、寺の由来や沿革はすぐわかるので、ぜひ知っていただきたい。回りくどくなったが、そうしてたどり着き、さてお目当ての「金亀」をと境内をうろついてもない???ようやく散策コースの長い長い樹林の下を歩くこと10数分。更にうっそうとした林の中、確かに門前に和風の家が見えるではないか。小さな小さな看板しかない。でも暖簾が出ていない?!下調べが悪く定休日もなかったのでと高をくくったのがいけない。ここまで来たら仕方ない、恐る恐るインターフォンを鳴らした。
懐かしい40年経っても覚えている店主の声で「今日は予約がないため、お休みを頂いております」とのこと。あれれれ・・・取引先の人もいるので弱ったなぁと、不躾承知で「天峰先輩、大西です、お久しぶりです!!」と再度声掛け。少し間ができたので止むなく引き下がり始めたら、戸が開き「おぉ済まんなぁ」との懐かしい声が。そう、この精進料理店は名刹「宝福寺」と共に何代も続く、学生時代:デザイン科の2つ上の先輩の実家兼店舗なのだ。しかしいくら先輩と後輩でも、こればかりはやむを得ず、また次回にと言うことで失礼をしたのがその日だった。
なんとなく観光化しているようで苦手で撮影は割愛したが、この宝福寺の入り口にはある人物の銅像があるのだ。40歳以上の方なら日本の偉人伝記で「雪舟」を知らない方は少ないと思う。中国の墨絵を日本人として初めて中国に認めさせた禅僧であり画家である。彼が小僧見習いで修業したのがこの宝福寺で、辛さの中で涙をこぼして、何げなく床に描いたネズミの絵が余りにすごいと噂となり、画僧への道を開くきっかけとなったという逸話が残る。でも冷静に考えて、小僧の足の指で、しかも涙で描いて濃淡など出せないし、細かなことも表現できるはずがなく、それが鮮明に見えるほど寺の床が汚れていたか?と言うとどうも眉唾な話である。ただ私は子供の頃からお絵描き少年で、絵を描くことでしか自身を目立たせることができなかったので、当時、伝記をむさぼるように読み、記憶に深く残したものだった。他愛がない話だが、もしそのネズミの絵が、輪郭線で描き得て、生き生きとした絵であれば才能あってのことだと思う。アメリカのウォルト・ディズニーではないが、彼もネズミ=ミッキーマウスで大成功したので、洋の東西を問わずネズミがキーポイントかい???とあながち比較しても面白いが、それでひっそりと足で絵を描こうとしている雪舟の銅像なのである。総理大臣から名僧まで飛躍するこのブログの内容もすごいが・・・えぇ。私ですか?そりゃ比較されても困る、ごく平凡な人生でございますよ!!合掌 |
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素晴らしい最期。
私というより、私の父の代からお付き合いがあった、香川県丸亀市在住の92歳の男性が亡くなった。親子2代に亘って親交があり、とてもお世話になった方なので、訃報を聞いた時は、あまりのショックに全身の力が抜け落ちる感じがした。 社会福祉に70年余り従事し、亡くなる直前まで、現役を貫き通した、一本スジがピンと入った素晴らしい方だった。 その方の最期の様子をお聞きし、こんな人生の幕引きもあるのだなと、不謹慎ではあるが、感心してしまったので、お伝えしたい。 去年の暮れから、その方は、体の不調を訴え、大きな病院に入院された。病院側は、年齢も年齢なので、特別な治療は施さず、少しでも病状の悪化の進行を抑えることを主眼としたものだった。 それならばと、家族も、もちろん本人も自宅に帰りたいと希望を出し、珍しいケースではあるものの、希望が受け入れられ、退院となった。家族も、力を合わせて、介護をすることにし、自宅に戻ってきた。退院した日は、子どもたちはもちろん、孫もすべて揃い、全員で夕食を共にした。その様子をベッドに横になりながら、なんとも言えない表情で見つめていたそうだ。そして、夕食が終わり、一段落したときに、その方はそのまま、帰らぬ人になった。家族みんなの喜ぶ顔、自らの事業の後継者を育てた満足感、様々な思いが去来し、かつ安心して旅立たれたように思える。 人間は、素晴らしい最期を迎えるために、しっかりと生きなくてはいけないと、私は最後の最後まで、この方に教えられた気がした。 |