• 2020.02.08 Saturday
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変わりましたなぁー阿倍野橋!!
以前から大阪市の南エリアの中心、天王寺界隈は近鉄中心で再開発が進んでいたのだが、通過するだけでゆっくりと界隈を歩くことはなかった。第一若者文化の最たるゾーンとして衆目を浴びる今の阿倍野橋&天王寺は小父さんには縁がないなぁと敬遠しきり。6年目くらいか?昔の県立高校クラス担任時代の卒業生2人と会食した時でも、ほとんど若者文化の拠点と言うイメージで苦手意識も強かった。特に今回は、渋谷「109」」が進出してきて、渋谷ガール的なギャル系にはたまらない空間ができたというニュースにうなづきつつも、これでは益々縁遠いなぁと思ってきた。

にょきにょき伸びている近鉄デパートのビル







また神戸・大阪で10年(=内大阪で4年となる)だが、大阪も谷町界隈でいると、梅田界隈にしか足が行かない。お世話になっている知人社長や先輩も北浜だし、松山へ帰った高校のポン友も近所だったので時間が取れれば京阪電車や近鉄電車で日帰り旅。年数回になった母校への顔出しも阿倍野橋は通過地点で終わっていたから不思議なものである。
ではそれでなぜ阿倍野橋のブログか?・・・実はここにこの3月オープンしたシティホテルがある。大手リゾート系グループのホテルの最新鋭ホテルだが、こうしたビジネス向けのホテルは少ないのだが、これまでのイメージをくつがえす=ニューヨークグラマシーっぽい作りなのだ。で、そこへ長年お世話になった支配人様が着任と言うことで、気軽にも着任祝いのご挨拶へ。

支配人を訪ねて。目立たないがちょっとグラマシー感覚ホテル。

きちんと勤務予定も確認せずに伺ったため不在だったので残念にもおあいはできなかったが、いやはやこういう機会でもなければ、阿倍野橋を歩かなかったなぁと。ちょーど人気ゾーンとなっている阿倍野キューズモールに隣接、天王寺駅は真横で、しかも陸橋でつながっている。地下鉄、近鉄、JR全てが直結の好立地。フロントはビルの3階なので、初めての人は少し戸惑うが、馴れると却ってプライベート感があっていいのかなぁと。1階の路面へ降りると街並みにすぐ溶け込める。スマートになった飲食街やショッピングゾーンに面して、ホテルライフには申し分のないロケーションである。たまたま伺ったのが午前10時でキュ―ズモールの賑わいはまだこれから、せいぜい開店準備が今さっき終わったと言う所で静かな感じ。しかしキュ―ズモールから横に目を回せば、後1年少々で日本一の高さとなる近鉄阿倍野百貨店のビル工事がにょきにょきと高さを積み上げているのが手に取るように見える。阿倍野橋も変われば変わったものだ。







少し前になり新鮮さも薄れたが難波界隈の難波パークスを核にした再開発もすごいなぁと思ってきた。その後は中之島:ほたる街(=これまで遅れていた西側)の再開発と続き、最近の梅田&大阪駅周辺の大変身も記憶に新しい中、取り残されそうだった天王寺、阿倍野橋であっただけに、いやはやこの不景気もなんとかできそうな新しい動きで、何やら誇らしい。えっ?そりゃそうですよ、阿倍野橋界隈は私らには母校への道すがらですもの。遊びとはほとんど無縁で、ひたすらデザインと拳法に明け暮れて南河内郡から出ることの少なかった学生時代だが、寮の仲間やクラブの仲間と少しはぶらぶら歩きをしたところでもある。しかしなんとなく大阪??のイメージを引きずる場末的なものも多く、決して洗練や文化とはとはほど遠かった。それでも界隈の映画館へ行った寮生が、館内で男に手を握られた、お尻をなでられた、肩を抱かれたという嘆きを聞き、それなら俺がついてったるわ!と勇んだことも懐かしい。※当時は天王寺公園に同性愛カップルが多かったので。

まず何より、大学の夏期講習に初めて高3の時に参加した時、JR天王寺駅と近鉄阿倍野橋駅が向かいにありながら、全然分からずに右往左往して、ようやく見つけたものの大汗をかいた記憶が強烈である。ナビサービスなどない時代におのぼりさん丸出しで連絡船に乗って、弁天町の港でおり、環状線を経由して講習を受けに行く田舎のデザイン科高校生。教師など何もしてくれない放任、無責任時代で、全ての情報、行動まで自身からでしかできなかった青い青い頃の話である。才能は自負したが余りに進学環境やそのためのモデルケースもない高校デザイン科・・・今の学生の様に恵まれた進学アドバイスの得られる時代とは隔世の感であろう。これで優秀かどうかと言われたら、無責任教師出て来い!!である。

偉い変な方向の話となったが、阿倍野橋は青春の大きなポイントだと言うことだ。でもその賑わいもショッピングユーザーとしては無縁の叔父さんであるが、散策するには十分すぎるほど楽しいだろうなぁと、この30年の変化にただただ驚くばかりである。こうした空間に小さなときから感化されて芸術分野へ進むとしたら、これからの人はきっと東京にも負けない、人材もさらに育つかとも思うし、関西の復権にもつながるかとも。
せめてそういう変化の中で、目的だったこのホテルくらいには泊まれるよう、受注案件を大阪のエリアでさらに拡充しなければと思った次第である。


世界のおもしろコイン
 世界の硬貨にはえっ!というようなコインがあります。
ここに紹介するコインは大半が記念コインだと思いますが、
コインらしからぬその形状をお楽しみください。

カメルーン 1000フラン
蝶の立体造形が斬新ですね。

コンゴ 10フラン
コインがコマになるようです。

ベナン 100フラン
葉の複雑な形はコインには見えません。

ニウエ 1ドル
ロートレックのコインみたいです。

フランス 10ユーロ
もう一つ画家もの、ピカソコイン。

ペルー 額はわかりません
楕円型コイン、ありそうで無いと思います。

どうですか?
面白いものですね。正直想像を超えていました。

日本で最初の記念コインは東京オリンピックの
記念コインだそうです。私が生まれた年の発行なので
記念にと持っていたのですが
現在は紛失してしまい残念です。


東京つれづれ ②
大都会 東京で拠点をもって活動することのメリットの一つは、仕事の規模が大きいこともさることながら、思わぬ人たちに出会うことも、その醍醐味だろう。
東京での営業活動を通じて、お会いした人たちの中で、刺激を受けた人たちをほんの少しだが、ご紹介してみたい。

先日、知人を介して紹介してもらったのが、60代の男性なのだが、本業のほかに、沖縄のサンゴ礁を復活させる運動をされている方にお会いした。ご存知の方もいると思うが、一昨年、お笑い芸人のナインティナインの岡村隆志さんが主役を務めた、映画「てぃだかんかん/海とサンゴと小さな奇跡」のモデルとなった、金城浩二さんの仲間の方だ。自然を心から愛し、小さなことにこだわらない、器の大きさを感じる人だった。

また、香川県出身者で、テレビドラマの創世記から関り、今なお、ドラマを作り続けている会社を立ち上げた男性とも、お会いすることが出来た。我々の世代では、山口百恵さんが主演の「赤いシリーズ」を、その後、「スチュワーデス物語」「スクール☆ウォーズ」など、その時代でヒットドラマを制作してきた会社を作った方だ。まさに、視聴率という数字と常に勝負してきただけに、多くの人たちが何に魅了されるのか、何が受けるのか、敏感に感じ取る、研ぎ澄まされた才能の持ち主であることを痛切に感じた。

最後にご紹介するのは、それこそ年齢がまだ、30歳代の女性なのだが、何事においてもチャレンジ精神が旺盛な方で、今年の正月には、マッキンリーに登頂に成功してきたというのだ。これも、香川県の出身の女性で、そのバイタリティーに驚かされるばかりである。


今回、ご紹介した方々は、皆、自分の才能を信じ、生き生きと且つ楽しく人生を過ごしている方たちばかりで、どの方もとてもエネルギッシュであり、私もそうした人たちのエネルギーを受けて、少しでも前進し、皆さんから評価される仕事を成し遂げるべく、頑張り続けたいと考えている。



GENGA展
いつのまにやら間が開いてしましましたが、一月ほど前に東京に遊び…ではなく偵察にいったことなんかをつらつらと。
そもそもの名目は「次回デザインフェスタに初参加する友人が事前調査をしたいというのでそれに同行」です。が、同時期にちょうどワンピース展や大友克洋GENGA展なんかが開催されてたので、ならばというわけでもろもろパッケージングの一泊二日企画になったわけです。すべてをだらだら書いてると収拾つかなくなっちゃうんで、一番「よかった〜」と感じたGENGA展について。


場所は秋葉原からほど近い「3331 Arts Chiyoda」。閉校した校舎を利用した文化芸術施設で、アート・デザイン通な人なら知ってる人もいるかと。そこで先月末まで開催されていたのが、日本を代表する漫画家、大友克洋氏のGENGA展です。マンガを読まない人でも「AKIRA」といえばどこかで見聞きしたことがあるんではないでしょうか。僕自身はマンガで読んだこともなければ通でもないんですが、そのネームバリューと鬼のような描き込みの凄さは十分知るところだったので、どれどれという感じで行ったわけですが…いや〜圧巻でした。展示スペース自体はそんな広くないんですが、四方真っ白けなスペースにひたすら「AKIRA」の原稿が多層構造で展示されてる空間はなんともコンセプチュアル(というべきなのか?)。(もちろん撮影禁止なので、どんなか気になる人は画像検索すると出るかも…)当然「AKIRA」以外の作品も多数あり、様々な原画が壁を埋め尽くす空間は終始盛況しておりました。まぁマニアックなところでは金田のバイクなんかもありまして…と。


東京の桁外れな人混みはさすがに疲れますが、こういったイベントや施設がゴロゴロしてるのはほんと羨ましいかぎり。そりゃみんな上京するよね〜。


ヒカリエですね。


夜の森タワーですよ。


ガンダムが大地に立ってますよ!


テイクオフしそうですね。


本来の目的です。
あぁ、城下町ブルース?!
 この頃あれこれと本社近くで動くことが多い。その中で取引先として、ある分野では全国区と言えるほどの企業様がある。今日のブログはその内の2社が多度津町と丸亀市に所在するが、その取引先のある町について触れてみたい。取引先のことは守秘性もあって詳しくは言えないが、多度津町が専門学校、丸亀市が薬品系メーカーとさせていただく。


実はタイトル通りに丸亀市には石垣の高さ(=三の丸から本丸、天守閣にかけての全高として。単独の高さだと伊賀上野城らしい=藤堂高虎による)で美しさ日本一とも称される丸亀城がある。別名、亀山城、蓬莱城とも呼ばれるが、その原型は豊臣秀吉より統治を任された、生駒親正により讃岐一国に対する居城の一つから始まる。関ヶ原の戦いで親子が別れた生駒家は、徳川方についた嫡男・生駒一正が17万石の領主として讃岐藩初代として受け継ぐ。しかしその後に生駒氏は配流、廃城されるが、1641年に山崎家治が5万3千石で移封されてくる。3代後には世継ぎがなく改易。1658年に京極高和が6万6千石で入城。そのまま京極家7代:丸亀藩として明治維新を迎える。現存する城の縄張りや遺構は1673年あたり、生駒時代より32年の変遷を経て完成したらしい。



とにかくその美しい石垣の構成美と、小規模ながらも戦国期の風情を醸し出す現存天守、三の丸から本丸まで当時の遺構が広く残されている雰囲気は城好きには堪えられない名城かと。香川県小学生絵画コンクールとして、この丸亀城の写生大会で小学校代表として入賞したことも懐かしい。

丸亀城

さてこの丸亀藩には1694年、二代藩主:京極高豊時代に丸亀の隣町・多度津に支藩を1万石で分知し多度津藩とした。政務は同じ丸亀城の敷地内で行われる形式的な支藩だったが1829年には陣屋敷が整備されて、名実とともに多度津藩庁が誕生した。たった3代で幕を下ろした支藩であるが、天然の良港に恵まれ江戸末期は「金毘羅参り」の船便はほとんど多度津湊を利用し、丸亀湊の隆盛を奪うこととなった。




多度津藩の陣屋は現在の町舎横を流れる桜川沿いの砂州に築かれた立派なものである。「家中」と呼ばれる住所当たりが該当場所で、武家屋敷の名残をとどめている。こうした関係で四国初の鉄道はこの多度津から琴平へとつながるのである。また太平洋戦争時は良港が故か、戦地への大量輸送の拠点として、また敗戦後は引揚げ港として重要な役目を果たす。港を見降ろす高台の公園:桃陵公園には、出征した息子の帰るを待ち叫ぶ母親の銅像が立つ。「一太郎ヤ―イ」は悲しい話として有名である。戦国期ならこの桃陵公園は、小振りながら構えが似合いそうな場所であるが、平和な江戸時代ではずっとふもとの陣屋が港の機能を併設して利便とされている。

多度津

長くなるがこの多度津藩と丸亀藩の中間地点に、京極家の大名庭園=中津万象園と言うやや現代風に修復されてはいるが人気の庭園がある。母校大阪芸術大学環境計画学科の中根金作教授の設計だ。京極家は滋賀近江の出身だけに庭園のコンセプトは「近江八景」。遠く琵琶湖を思いつつ築庭されたのだ。京極家は徳川家に縁があるのだが、平安時代から明治維新まで戦火をかいくぐって生き残った限られた名家でもあり、伊達家、島津家の三家だけとも言われる。それでも親藩ではないため、江戸末期には藩士で新撰組に走った猛者もいた。



ただただ恭順を訴えた大親藩(=江戸城では尾張、水戸と並んで最上位の部屋・・・確か溜詰ノ間だったけ???と言う名誉ある位置でありながら)高松藩とは大違い、気骨があるのだ。作家名は忘れた(=江戸時代小説フリークである私が書名や作家名を忘れるとは情けないが、丸亀藩出身の藩士を主題にした時代小説があることも付け加えておきたい・・・えぇーい思いだせない!年やなぁ・・・しょぼん)



最後にようやくタイトルに触れるのだが、弊社は無理して都心に拠点を構えている。岡山=池田藩(=岡山城と後楽園で有名)、大阪=徳川家城代(=元は豊臣家本拠地)、名古屋=尾張藩(=名古屋城と金の鯱鉾で有名)、東京=徳川本家(=江戸城界隈、岐阜:青山家敷地)と事務所は全てお城に近い。神戸は???江戸時代前こそ神戸は兵庫湊や花隈に小振りながら城がきちんとあったので無理に意味づければまぁまぁ城下町か?(=江戸時代は天領)・・・「私の城下町」などと浮かれて口ずさむほどの余裕はない。激しい経済助教の中、落城しかねない厳しい日々に、せめて天守の鯱鉾のように毅然と佇みたいなぁと思いながら・・・・。とにかく城下町にあるクライアントは大好きである。道中これほどうきうきすることはないが、持ち込むデザインが悪いと意気消沈=まさに落ち武者気分である。早く引退して城をテーマにした絵を描きたいなぁ・・・。合掌


※掲載しました写真は、学研社様「歴史群像:よみがえる日本の城シリーズ=第13巻:高松城・高知城など四国の城」より抜粋引用いたしました。












目からウロコ。
久々に溜飲が下がるというか、目からウロコの書籍にあたったので、是非、ご紹介させてほしい。題名は「日本人は、なぜ世界一押しに弱いのか?」である。


作者は、テレビのコメンテイターでもおなじみの、明治大学文学部教授の斉藤 孝さん。何気なく立ち寄った書店で、偶然見つけたものだが、この題名に引き寄せられるように思わず購入してしまった。是非、お読みいただきたいので、内容の詳細はあえて、記述しないけれど、1つだけご紹介すると、人類がまず、最初に誕生したのがアフリカ大陸だと現在は考えられている。そして、少しずつ移動しながら、世界各地に人類が広がったとしている。だがら、アフリカから最も遠い地域に移動した人類こそ、われわれ日本人の祖先となる。
われわれの祖先は、決してフロンティア精神旺盛で、はるばるこの地まで来たのではなく、争いなどを避けて、この地にたどり着いたのではないか、というのである。

そう考えると、納得することが結構ある。事故などで、たとえ自分が悪くなくても、謝ってしまうのが日本人だし、個人も弱ければ、国にしても外交ベタで、中国の押しの強さにタジタジになってしまのも、よくある光景である。私事で言えば、積極的にならなくてはいけないところで、尻込みする自分に気づくこともしばしばある。そういう弱腰のDNAが入っているとしたら、自分なりにある程度、理解出来てしまうのだ。

ここで、日本人の弱さを露呈したいのではなく、日本人としての特性を理解したうえで、世界に渡り合いたいと考えているのである。日本人だから出来る仕事があり、それは、世界でも賞賛されるものであると確信する。われわれの仕事においても、同様のことが言え、日本人ゆえになせる仕事を作り上げ、いつの時代においても良いものと賞賛される仕事をしていきたいものである。

火星の朝
 2005年にNASAが打ち上げた
マーズ・リコネッサンス・オービターは
一般的な商用衛星画像より高解像度カメラ
HiRISEを搭載しています。
マーズ・リコネッサンス・オービターが
撮影した「火星の朝」の画像をご覧ください。
幻想的な画像に心奪われます。

軌道上から見る火星の夜明けです。

クレーターを照らす朝日です。

影の長さは地球ではありえないものです。

大きな谷状の地形が目立ちます。

2030年代には有人火星探査機計画も発表されて
いますが火星に一歩踏み出す人類は誰でしょうね。
夢は膨らみます。

これがマーズ・リコネッサンス・オービターです。

日本でも近年「はやぶさ」で宇宙ロマンが
盛り上がりましたが、有人火星探査機となると
それこそ宇宙における偉業ですからね。
心引かれない訳はありません。

話は変わりますが、地球の表面にある高低差
(山から海溝まで)は地球の直径の1%にも
満たないって知ってました?
チョモランマに登頂しただの、10000m潜っただの、
それ自体はすごいことなんですけど、
宇宙規模でみるといかに人間の力って小さいかが
わかりますね。

昔、NHKの地球ドラマチックで放映された
「ETが住む星」という番組(科学者たちが推理)で、
宇宙空間に設置されたハッブル望遠鏡が
40光年彼方に地球に似た星(生物の住む星)を発見!
という考察ものをしていたが、
そういう日がくるのもそう遠いことでは
無いかもしれません。

「いよっ!くろがねやー」の声がこだましそうな雛の銘酒蔵。
歌舞伎では名場面で見映を切った時に「いよっ!成田屋ー」などと役者の家門を称した威勢よい声がかかる。日本酒が晴れ舞台となるシーンは少なくなったが、それでもやはりここ一番、例えば“新年の寿ぎ”、“記念式典”“受賞記念”“落成記念”などのときは、日本酒の鏡割りから始まるのが作法だろう。
その日本酒だが最盛期に比べて相当落ち込んでいると言われる。同じ和酒でもしっかり焼酎にお株を奪われてと言う感もイメージとしてはあるし、堂々たる日本酒メーカーが焼酎造りをしているのだから影響がないではない。ここでどちらが良いなどと言う話では空く、嗜好の違いは酒好きに方に委ねておくが、日本酒メーカー:特に地酒メーカーが日本と言う風土に密着して、様々な地域の特性を包括して、営々と風流なる地場産業、また資本家・名士として君臨してきたことは周知のことだ。

仕事柄、下戸の割り(=家系的には酒飲みのDNAだが)に、日本酒メーカーさんにはお世話になっている。どこを訪ねても威風を放つ白壁や板張りの重厚な佇まいは、日本が世界に誇る原風景であること、誰にも異論はないだろう。日本酒が隆盛を極め始める頃と、自身が大好きな戦国〜江戸時代の城の構えや、侍、商人、町民、百姓の生き方と切っても切れない関係を感じているからである。しかもどの階層にも息づく詩歌を伴い、それが風雅として花を添えてきた。文人墨客が逗留し世話になるのも大抵は地酒の蔵元である。ここら辺りの趣やニュアンスは、江戸時代を中心とした百花繚乱の体をなす時代作家の著書にふんだんにでてくるので、今さら私が説明するまでもない。

前置きが長くなったが、そういう言う地酒浪漫と懐古時代を今なお強く受け継ぐ全国の地酒蔵元の中で群をぬいているのが、今回レポートした高知県の司牡丹酒造さんだ。この酒造メーカーは余りにメディア露出も多く、語るべくもないのだが改めて目前に迫ると感慨は深い。土地に根差す風土と言うものが強く感じられ、その佐川町という土地そのものが酒と一体化している雰囲気があり、それもまた誇張ではないだろうと思う。
工場のある一帯が相当広く、関連する施設:青山文庫という洋館作りの建物、偉大な植物学者:牧野富太郎にちなんだ牧野公園など、工場との隣接がいい意味であいまい、渾然としているから余計に雰囲気を感じるのだろう。















江戸時代からの変遷で、今は「司牡丹酒造」と称しているが、本流の家系:竹村家が中心となり近在の作り酒屋を統合した頃は、「黒金屋:くろがねや」と呼ぶのが習わしとなっていたこともあり、この佐川町の地には「くろがね会」と言う有志の会も営々と引き継がれている。地縁の強いところである。

詳しくは「司牡丹酒造」で検索すればネットの十分すぎる解説で詳細は知ることができる。今回の写真はかなり遠慮しながら、あっという間の通りすがりで撮影したもので、お世辞にも良い写真ではない。次回は蔵開きにでも参加して、酔っ払い加減でディテールを撮影してこようと思う。



周囲の風景と蔵元工場が一体となって、一幅の名画の様になっている酒造メーカーもたくさんある。でもここには庶民的な人肌や目線とともに、郷土の生んだ偉大な人物の系譜も巻き込んだ一体感においてこそ秀逸だと思うのである。散々褒めちぎったが、別段ただ酒をご馳走になったのではないこともお伝えしておく。要は、全国に通用するが敢えてローカルチャンピオンでいることの潔ぎ良さや地味さ加減が好きでなのである。

東京つれづれ
東京に拠点を置くようになって、1ヶ月近くが経った。
学生時代を中心に東京に住んでいたけれど、久しぶりの東京暮らしでいくつか、気がついたことを今回は列挙してみたい。

相変わらず、人の数は多くて、毎日の通勤電車では、見知らぬ人と隙間がないほど車内で詰めあうことになる。
その風景は、以前とはそんなに変わらないものだが、変わったのが乗車している方々の行動である。車内での過ごし方の定番は、大抵は読書で、中には音楽を聞くものもいた程度だった。しかし、現在は、スマートフォンや携帯でメールなどをチェックする者、携帯電話から音楽を楽しんでいる人、自宅で録画した映像を見ている若者さえいた。一度自分で調査してみたら、1車両に約60人程度乗車していて、紙媒体を通して読書していたのが5〜6人ほどだった。大きく変わったことを思い知った。
また、以前、交流があった企業に、何年かぶりに連絡を取ってみたところ、会社名が変わってしまったところや、他の企業に買収されていて、会社そのものの経営主体が変わったケースもあった。

ほとんど、「浦島太郎」のようだけれど、世界はどんどんと変わっていっている証拠で、早く私もこのリズムになれ、バリバリと仕事を取って来たいものである。



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