• 2020.02.08 Saturday
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サビキ釣り
 週末は、サビキ釣りが熱い。
もう何年も、サビキ釣りをしていなかったんだけど、子供がサバorアジを釣りたい!ということで、釣り具やの女将に、『最低限のもの揃えて!』とお願いして、いざ。
場所は、仁尾のマリーナ近くの防波堤。予想していた以上に、沢山の人が来ていたので、場所どりにも、一苦労。釣れなさそうな場所ではあったけど、まっ、海に仕掛けを投げられれば、子供は満足するか!と割り切って、仕掛けの準備。最初のリリースで、なんか、竿がしなってる!?
うん?!!!サビキ釣りで、、、あこうが釣れた。珍しい。肝心のサバはというと、寸前の所で、逃げられました。それを見ていた、隣の人が、そっとバケツにサバを入れてくれました。
サビキ釣りは、餌代が安くて済むかわりに、手につくと相当臭いのが辛いけど、また、週末には、チャレンジしようと思います。貰った唯一のサバは、家族3人で、美味しく頂きました。
バケツに入れて頂いた、心優しい方、本当にありがとうございました。

バッタ
夏の初めの捕まえてきた「ショウリョウバッタ」がまだ元気に生きています。

8cmほどある大きなバッタにはにつかわない、小さな虫カゴにいれて運動らしい運動もできす、エサもろくに与えてもらえないにも関わらず、大変な生命力だと感心してしまします。(そう思うなら逃がしてあげればイイのにとも思うのだが)

どのくらいの期間生息するのかちょっと調べてみると、まず8cmもある大きさはメスのようで、

オスは5cmほどでメスの方が大きいようです。7月頃から11月頃まで生息するようなので、あと少しの寿命の予定です。それまで十分に癒してあげてほしいものです。


高知・白木谷国際現代美術館にて
長らく出張も多く、生活のリズムが変わりすぎて社内ブログの担当をさぼっていた。すると免罪符のごとく皆なもサボりだすので範を示さねばと急遽、間に入れてもらう。今回のブログは驚きの美術館の紹介である。

高知の南国インターチェンジからも30分程度の白木谷と言う寒村にある。館長兼代表者は、武内光仁画伯である。その名も「白木谷国際現代美術館」という。とてもこうした穏やかな寒村から輩出されたとは思えない、しかし豪快な高知人として納得できる画伯=武内光仁氏とはいかなる人物で、いかなる美術館かと言うと写真のこれがそうである。



白木谷の渓流に沿うように、また部落内の幹線道路に挟まれつつ展開する、手製ながらなかなか立派な大工仕立ての木造美術館。全長100メートルはあろうかと言う増築に増築を重ねての建屋だ。高知県産の木材をふんだんに使っていてがっしりした矩体で安心できる。入口玄関はロビー兼喫茶コーナーで、大変よくできた鷹揚な奥様が喫茶店のマスターとして出迎えてくれる。入場チケットをもぎってもらったら後は勝手に屋内と屋外を散歩がてらに、武内ワールドに引きこまれながらの観賞だ。中には友人とかの作品コーナーもあるが、壁面展示は言わずもがな、天井から床まで全てが、立体=素材で造形が違う・・・平面まで、メインモチーフの「手形」を増殖させた作品にあふれ出ている。好きとか嫌いとかではなく、これだけの迫力をもって現代アートの旗手として、高知を基盤によくもまぁ頑張ってきたものだと驚くしかない。















屋外には丁寧にしつらえた東屋や遊歩道を歩ける構成の庭に現代アートの作品が乱立している。圧巻はどこの川から掘り起こしてきたか総重量が6トンを超える石の集合による造形作品だ。



賽の河原?かの様な連想も起きるが、題名には説得力がある。渓流のせせらぎを聞きながら、じっくりと散策しつつの観賞は、武内画伯の鑑賞者への愛情を感じる。判ろうが判るまいが、とにかく見てくれて、楽しんでくれたらいいと言う旺盛なサービス精神に加えて、並はずれた制作意欲とみなぎるパワーがさく裂する美術館である。

作品の評価は私にはわからないし、私ならば作ろうと思う世界観ではないのは確かだが、高知の岡本太郎と言って差し支えのない作家活動であることは間違いない。入館してすぐのところに東京都庁ロビーで開催された個展=石原都知事より要請があって(=池田20世紀美術館で見止めためたらしい)長く展示会をしていた模様が写真で紹介されている。無論その時の作品も展示されている=しかし売れてはいないのだが・・・常識を超えているという傑物の画伯であろうか?

入館料は、奥さんの心のこもったコーヒーか紅茶付きで500円。武内画伯は道向かいの元農協支所の建物をアトリエにして制作活動をしている。農協ビルを借り切るのだから、相当の名物人だろうなぁと。いやはや疲れる毎日にある我が身に、こういう瞬間が得られたことは大きい。

是非皆さんも高知へ行かれたら南国インターからも近いので寄ってみて欲しい。人間が持つ小さな私利私欲は完全に壊される。また一人の人生として、これはまたすごい覚悟と熱さがなければ成し得ない形だと思う。絵描きとは作家とは恐るべき人生観だと感じ入るし、これを見ればデザイナーである喜びや努力などいくら頑張っても惜しくない。大して売れるアートではないとか、生活や制作費の捻出はどうしているのかと、失礼にも想像しつつ、こんなセコイ、下世話な懸念などぶっ飛ぶパワーに触れ、改めて人の生き方の根源を感じて良いと思う。お勧めである。合掌
ブル中野という生き方(後編)
 毎日やりたくない仕事をやり、しかも実績も出ない、ギャラも上がらない、となれば誰だって心が折れてしまうものだ。しかしブル中野は女子プロレス復興を信じて孤軍奮闘を続ける。観客が減り、閑古鳥が鳴く会場であっても全力で悪役ファイトを繰り広げ、例えわずかな客であろうとも楽しんでもらい、満足させて次へつなげたい。彼女にはそれしかできなかったのだ。

そしてもう一つ、ブルには大きな役目があった。全日本女子プロレスのヒール軍団のトップとして、後輩達を引っ張り、育て上げなければならない。ブルにとってそれは単なる指導・育成では無かった。ベビー、ヒール、関係なくプロレスラーとしての技量が評価される時代を創る、その目標が例え自分の代では達成できなくとも、後輩達にその夢を受け継いでもらいたい。そのためにもブルはかつての師、ダンプ松本のように、旧来のヒールの型にはまった指導をする訳にはいかなかった。そうでなくとも女子プロレスの低迷期、後輩達は目標を見失い、疑心暗鬼になっている。ブルは後輩達一人ひとりの個性を把握した上で、それぞれの持ち味を活かせる指導を行った。「自分のことをよく知ること、自分自身は自分自身でプロデュースしていかなければいけないよ」それを毎日のように言われた、と当時の後輩選手の一人が語っている。


後に女子プロレスの枠を超えて人気者になるアジャコングもその中にいた。アジャコング(以下、アジャ)こと宍戸江利花は体格、キャラクターともに素晴らしいものを持っていた。しかし、リングの上では他人の目を気にして自分をアピールすることができない。それはアジャの生い立ちに原因があった。アジャは日本人の母と、軍人として日本に駐留していたアフリカ系アメリカ人の父との間に生まれた。彼女が生まれてすぐに父は本国へ召還される。浅黒い肌と縮れた頭髪という一目でハーフと分る外見、しかも母子家庭ということで彼女は幼少より激しいイジメを受けてきた。それが心のキズとなり、つい他人の目を気にしてしまう性格になってしまっていたのだ。ブルはアジャの過去を知った上で、体格を活かしたシンプルな技を中心に使うようアドバイスする。そして動きがシンプルな分、そこに感情を込めることの大切さを教え込んだ。単純な体当たりであっても、そこに感情が込められていれば客は反応する。それはアジャならではの恵まれた体格と、ハーフとして特徴のある外見だからこそできることでもある。自らのコンプレックスは逆に考えれば自分だけの武器になる。やがてアジャは自分だけの持つ個性を伸ばすことで、プロレスラーとしても人間としても、吹っ切れたように力を付けていった。

そして、そんなアジャコングとコンビを組んで後にスター選手となるバイソン木村(以下、バイソン)こと、木村伸子。バイソンは女子プロレスラーとして非常に恵まれていた。体型、ルックス、運動神経、どれをとっても優れた素質を持っていた。しかし、そのため何かひとつ強烈な個性に欠ける。性格もおっとりしており、我を押し通すタイプでもない。ブルはバイソンのルックスとスタイルの良さに着目し、女性としての美しさを前面に押し出すよう指導する。ヘアスタイルをロングのソバージュに変えさせ、メイクも派手できつめのものに変えさせた。そして美しさの中に凛とした激しさを持たせるため、空手技をアレンジしたファイトスタイルを教え込む。空手の型の持つ立ち振る舞いの美しさを意識することで、バイソンは美しさと激しさを兼ね備えた新しいスタイルの女子プロレスラーとして個性を確立していった。

元々全日本女子プロレスのスター選手はリングの上で男性を演じてきた。そこに少女ファンが熱狂することでブームを作り出してきた。ちょうど宝塚の男役スターを想像してもらえれば分りやすい。しかし、少女ファンは確かに熱狂的だが、その分心変わりも早い。また感情的になり過ぎるあまり、本来のプロレスの技量を冷静に観てもらえない場合が多い。やはり女性ファンのみに頼る宝塚スタイルでは限界がある。女子プロレスの人気を安定させ、しかもきちんとしたプロレスとして認知してもらうためには、プロレスを観に来てくれる男性ファンの確保が必要、とブルは考えていた。

男性ファンは普段、男子のプロレスを観て目が肥えている。そこにアピールするためには、男子プロレスには無い、女子プロレスとしての魅力を打ち出すしかない。かといってルックスだけのアイドルまがいの選手や、男性に媚びるだけの品のないお色気路線では意味がない。よく「いざとなれば女の方が怖い」と言われるように、本来闘争心は女性の方が激しいものを持っている。また、女性ならではの身体の軟らかさ、シルエットの美しさを活かせば、男子プロレスラーには出せない技、動きをアピールすることができる。そう考えるブルにとって、バイソンは絶好の素材だったのだ。

また、ブルは後輩達を頻繁に食事に誘い、彼女達とのコミュニケーションを図った。女子プロレス人気の低迷で若手選手はろくなギャラをもらえていない。満足な食事をとることもままならない。ブルも全盛期のようなギャラは得られないものの、それでも後輩たちよりは高額なギャラを手にすることができる。ブルはなけなしのお金で後輩達に食事を奢り、本音でいろいろなことを話し合った。ブルはよく笑顔で彼女らにこう話しかけたという。「あんな時代もあったねって、皆で笑い合える日がきっと来るよ」

ブルにとってそれは後輩たちへ、そして自分自身への励ましでもあった。


1990年、日本でユニバーサルプロレスリングという団体が旗揚げされた。メキシコのプロレス、ルチャリブレを売り物にして、元々他の男子プロレス団体のスタッフとして働いていたメンバーが仕掛人となってのスタートだった。しかし設備、選手ともに不十分ということで、男子プロレス団体との利害関係が薄い全日本女子プロレスがリングの提供も含めて全面協力することになった。そしてその興行の中で全日本女子プロレスの試合も組まれることになったのである。

当時、男性プロレスファンは女子プロレスについてはワンランク下に見ることが多かった。所詮ベビーフェイスとヒールのお約束ごと、一部熱狂的な少女ファンがミーハー的に騒ぐだけで、迫力も無いし、といった感じで見下げていたのである。もちろん、実際に見たこともない「食わず嫌い」の部分も大きかった。しかし、いざ目の前で全日本女子プロレスの試合が始まると、男性ファンの固定概念は一転した。中でもアジャコングとバイソン木村のインパクトは群を抜いていた。未開地の原住民を思わせる顔面ペインティングのアジャ、ロングのソバージュに原色メイクのバイソン、二人とも外見は典型的ヒール。しかし体格を活かしたアジャのダイナミックなファイト、そしてバイソンの華やかさの中に切れ味のある空手スタイルはプロレスに対して目の肥えた男性ファンをも唸らせた。

「女子プロレス、すごいじゃないか」男性プロレスファン同士、評価が広まるのは早い。やがて彼らは全日本女子プロレスの会場に詰めかけるようになった。

時代の変化はいろいろな要素が集まることで加速していく。当時、男子プロレスの世界でも他団体時代が到来していた。後に政治家、タレントとして世間を騒がせる大仁田厚が設立したFMWを筆頭に、テレビ局のバックアップを持たない独立系団体が数多く旗揚げされたのだ。その中には女子プロレス部門を持った団体もあった。選手の数が足りないので、どうしても男女混合になってしまうのだ。また、1986年に旗揚げされた日本で2つめの女子プロレス団体であるジャパン女子プロレスも何とか軌道に乗り、業績も上向きになってきた。そんな中から多くの個性溢れる女子プロレスラーが生まれた。可愛らしいルックスながら男子プロレスラー顔負けのデスマッチをこなす工藤めぐみ、またシュートボクシングから転向した風間ルミや全日本柔道選手権3連覇の輝かしい実績で女子プロレス入りした神取忍らも、格闘技色を押し出したストロングスタイルで独自の存在感を放ち、従来の女子プロレスの枠組みを超えて人気者になっていった。


そして全日本女子プロレスの中でも新たな変化が起こっていた。男子プロレスラー佐々木健介夫人として、家族または単独で、今やテレビのバラエティー番組の常連となった北斗晶。彼女は現役時代ベビーフェイスのスター選手だったが、今のままではプロレスラーとしての可能性が伸びないと悩み、ヒールであるブル中野にチームを組ませて欲しいと願い出たのだ。ベビーフェイスとヒールがタッグチームを作るなど、従来の全日本女子プロレスでは考えられなかったことだったが、ヒールでありながらプロレスを極めようとするブル中野の姿勢が、北斗晶の「プロレスラーとしてもっと強くなりたい」という気持ちを動かしたのだ。北斗はブルと組むことでプロレスラーとしての幅を広げ、後に前述の神取忍と壮絶な死闘を行い、プロレスファンの度肝を抜いた。試合後に北斗が叫んだ「私にはプロレスの心がある。柔道かぶれのお前なんかに負ける訳にはいかないんだ」は、彼女のプロレスへの思いがあふれる名台詞である。そして北斗は自分を慕う後輩達を集めてベビーでもない、ヒールでもない、独自の派閥を作る。こうして全日本女子プロレス内においても、旧態然としたベビー、ヒールの構造が崩れていったのである。

団体が増え、全日本女子プロレスのような既成団体からも多くの派閥が誕生し、多種多様な人気選手が登場することによって女子プロレスは一大ブームを巻き起こし、1994年には女子プロレス団体が一同に集まり、東京ドームでの興行を行うまでになった。そこでは各団体の主力選手がワンナイトトーナメントで最強を争った。最後に決勝を闘ったのは全日本女子プロレスの北斗晶とアジャコング。女子プロレス新時代を華々しく飾る東京ドームのメインイベントに立ったのは、奇しくもブルの遺伝子を最も強く受け継ぐ二人だった。そして誰もベビーフェイス、ヒールなどの区分けで女子プロレスを見ることもない。気が付けばそんな時代になっていた。


「私ができなかったことをアジャコング、バイソン木村の二人がやってのけた。それは自分にとって悲しくもあり、またうれしいことでもあった。」ブル中野は二人の1990年のユニバーサルプロレスリング登場を契機として始まった女子プロレス新時代についてこう語っている。そして女子プロレス人気が加速していく中、ブル自身にも時代の波が迫って来る。1992年11月、ブル中野はWWWAの王座を賭けてアジャコングと対戦することになった。WWWA王座とは、全日本女子プロレスが制定したチャンピオンベルトであり、その保持者は全日本女子プロレスで最も強い者ということになる。ブルは1990年に王座を獲得して以来2年間、王座を防衛してきた。その王座へ、自分が育てて来たアジャコングが挑戦してきたのだ。もちろん、今までアジャは一度もWWWAの王座についたことはない。

アジャコング、バイソン木村をきっかけに女子プロレスを見始めたファンたちは、ブル中野の存在をほとんど知らなかった。たまにかつてダンプ松本と共に活躍した時代のブルを知っているファンがいても「まだやっていたのか、とっくに引退したのかと思っていた」という評価でしか無かった。その日、会場を埋め尽くしたファンの声援はほとんどがアジャへのもの。誰もがその声援に女子プロレス界の新王者誕生の期待を込めていた。そして激しい攻防の末、ブルは敗れた。会場中のファンが総立ちでアジャに祝福のコールを浴びせる。アジャにとっても初めてのWWWA王座の獲得だった。しかし、リング上のアジャに笑顔は無かった。

「私がここまで来れたのはすべて中野さんのおかげです。ありがとうございました」アジャはマイクでそう語ると深々と頭を下げ、号泣した。アジャの脳裏にはブルの苦闘時代の姿が去来していたに違いなかった。女子プロレスの暗黒時代、例えガラガラの会場でも心折れることなく本意ではない悪役ファイトを続けながら、それでも希望を捨てず後輩達を叱咤激励してきたブルの姿。そうして新しい時代が訪れたにも関わらず、ブルを待っていたのは、新規ファン層からの冷ややかな目と非情なる世代交代という現実だった。しかしプロレスラーというのはリング上で相手選手を倒せば強いという訳ではない。常に世間の偏見と冷笑にさらされ、まともな新聞やニュースで伝えられることもない。待遇も評価も、プロスポーツと名がつく中でも恐らく最低ランクになる「プロレス」というジャンルで、いかに信念を貫き通すことができるか、人に感動を与えられるか、それがプロレスラーとしての強さなのだ。この日の勝者は確かにアジャコングだが、そのアジャを育てたブルこそが真の勝利者であることを誰よりも分っていたのはアジャ本人だったに違いない。

この試合、Youtubeとかでもアップされているから機会があったら観てもらいたのだが、最後、レフリーが3カウントを入れる瞬間、倒れたブルの身体を押さえ込んだアジャの背中にブルが左手を伸ばしている。それはまるでアジャを抱き締めるかのような手の動きだった。よくここまで頑張ったね、と言っているかのようにも見える。もちろん、それはただの偶然かも知れない。しかし、その手に込められたであろうブルの気持ちを想像すると何故か胸が熱くなる。

「悔しいというより、これで終わった、という気持ちでした。やっと肩の荷が降りたというか」ブルはこの試合を後年、こう語っている。それは長く苦しいブルの闘いが終わった瞬間でもあったのだ。闘った相手はアジャコングではない。自らの目標であり大きな試練、それと闘い、見事に勝利したのだ。

その試合以降、ブルはかねてからの念願であった単身でのアメリカ遠征を行うなど、全日本女子プロレスの闘いの最前線からは次第に遠ざかっていった。闘いの中心はアジャコングを始めとする新世代のスター達になり、やがてブル中野の名前は女子プロレス界から消えていった。プロゴルファーを目指している、アメリカに移住した、などと近況らしい知らせはあったものの、彼女が再びリングに上がることは無かった。


僕が今回、ブル中野という女子プロレスラーのことを延々語ってきたのには理由がある。ブル中野の名前を久しぶりにニュースで聞いたからである。実はブルは来年の1月、引退セレモニーを行うという。彼女が最後に試合を行ったのは14年も前のことだから今さら引退セレモニーなんて、とも思うのだが、今まで正式な引退セレモニーを行っていないこともあり、応援してくれたファンにきちんと挨拶しておきたいということらしい。彼女自身が昨年、結婚、入籍し私生活での区切りが付いたことも理由だろう。しかし、ブル本人は当日試合をする訳ではない。彼女にゆかりのある選手が中心になって試合を行うらしい。祝福にかけつける人も多いだろう。アジャコング、ダンプ松本、北斗晶ら、まだまだテレビで活躍している人たちはもちろん、完全引退して一般人となった人たちの来場も気になるところだ。

そしてブル中野はこの日のために、今体重を増量しているらしい。何でも全盛期の体重、体格に戻すというのだ。彼女の全盛期の体重は100kg。普通の生活を送っている現在のブルは60kg少々、それを100kgにするべく増量中というのだ。もちろんセレモニーが過ぎれば再びダイエットして元の体重へ戻すという。たかが1日のために、何でそこまで、という声も多い。急激な体重の増減は健康にもよくはないだろう。それはただ1日とはいえリングに立つ以上、ブル中野でありたいという意地だろうし、今までの彼女の生き方を考えればそれも理解できる気がする。

ブルが新人時代に憧れていた長与千種がプロレスラーの真価についてこんな言葉を残している。

「誰が一番強いか、じゃないんだよね。誰が一番似合っているか、なんだ」

似合う、とはつまり「らしい」ということだ。ブル中野はその言葉通り、最後の瞬間までブル中野らしくあろうとしている。長与千種が言う通り、それもまたプロレスラーとしての宿命であり闘いなのだ。一時期、リングを離れたにも関わらず何をするにも「ブル中野」という名前が付いてまわり、人前に出ることもイヤになったという彼女。セレモニーを機に前向きな人生を取り戻したい、という気持ちもあるらしい。プロレスラーであろうと無かろうと、人は生きる限り常に何かと闘っている。それに打ち勝つ強さとは何か、ブル中野の生き方にそれを教えられる気がする。これからの彼女の人生により多くの幸福があることを心から祈りたい。


イチゴのその後
8月末に植えたイチゴの苗、
順調に成長し、昨日(10月16日)ついに採取しました。
しかし、どうしても食べる気がしません。

食べる気にならない一粒目

昨日は春一番のような風が吹き、よく見ると実も葉っぱも犬の毛だらけになっていたからです。やはり14日にいただいてしまうべきでした。「もう少し大きくなるかな、」と様子をみたばっかりに、こんなことに。記念すべき一粒目が食べられなかったことは、かなりがっかりです。

食べ頃色の14日のイチゴ

結局味見もせず、翌朝生ゴミ入れの中に、、、
あ〜ぁ、残念。
今度の休日にプランターを移動させ、2粒目に期待しようと思います。




もし世界が100人の村だっら・・・
 10年程前、ネット上で世界的に広まった

「世界がもし100人の村だったら」を

覚えていますか。

書籍化までされたブームだったので

覚えている方も多いと思います。

ビジュアル的にわかりやすく表現したもので、

その最新バージョンがありましたので

紹介します。


宗教/

33人がキリスト教、24人が無神論者・その他

19人がイスラム教、13人がヒンズー教、

5人が精霊信仰


言語/

17人が中国語を話す

9人が英語を話す

8人がヒンズー語を話す

6人がスペイン語を話す

6人がロシア語を話す

4人がアラビア語を話す

50人がその他の言語を話す


マネー/

74人が39%を所有

20人が2%を所有

6人が59%を所有(すべてアメリカ)


自由/

52人は自由がある

48人は監禁、拷問、殺人、嫌がらせなどで自由がない


恐れ/

80人は恐れを抱いていない

20人は砲撃からの死、爾来、レイプ、誘拐などの恐れがある


おもしろいと思った雑学でした!


最近思う事
大学生の頃、仕事をする時は、なるべくならスーツを着なくて良い所。も自分の中では大きな判断基準のはずでした。が、最初に就職した不動産会社では、みんなパリパリスーツ。先輩に連れられ、アルバタックス、ビームス、アローズ、ポールスミスで次々に袖を通す内に、あっと言う間に、先輩達の仲間入りを果たした訳です。そうなると、営業用のカバンもゼロハリ定番という時期も何年か過ごしました。その後は、かれこれ10年間、当初思い描いた、スーツを着ない仕事というかスーツでなくても良い仕事をしていますが、最近、また、スーツが懐かしくなって来ました。昔のスーツはもう全く合わないので、購入しないといけないのですが、ちょっとスーツへの移行を考えている今日、この頃です。

おいしいコーヒーをいれるために
急に寒くなりましたね。
自然と温かいコーヒーが飲みたくなる季節です。

コーヒーは、飲むのも好きですが入れるのも好きです。
新鮮な豆がむくむく膨らむのが楽しみで
その都度豆を挽いたりしていました。

最近めっきりご無沙汰ですが。。。

コーヒー入門書(?)はたくさんありますが、私が一番ビビッときたのがコチラ。

 

豆を挽きたくなることうけあいです。
祭り
 祭りの季節になりましたね。
観音寺で祭りと言えば「ちょうさ」ですよね。

昔から僕は祭りが大好きで、子供(小学生)のころはよく祭りボケしてたものです。
授業中に机を太鼓代わりに叩いていました。

僕らの世代から子供の人数が減り、小学生の時は太鼓をたたけるのが僕を含めて2人だけでした。

朝から晩まで2人で一生懸命、手にマメをつくりながら叩いていたのを思い出します。

時は経て今はちょうさをかく世代。子供のころには経験しなかった「組み立て」や「役」なんかを経験する歳になりました。「役」に当たるといろいろと大変です。一日中自転車をこいでお金(御花)を集める「会計」や、車などの通行をスムーズにしたり事故が起こらないよう気を配り指示するするための「交通整理」、その日の運行を仕切る「総代」など…。沢山の人の協力でまつりは成り立ちます。

今回僕の役は「交通整理」と「さしあげの指揮者」です。さしあげの練習は全然参加できていませんが…「ぶっつけ本番でなるようになる!」と信じています。

また、祭りは普段あまり話す機会がない近所の皆と酒を飲みながら話すことが出来るので、僕の中ではすごく大切な時間でもあります。普段へ別々の時間を過ごしているけど、その時は同じ時間を共有でき、楽しさも共有できる。なんとも言葉では言い尽くせない楽しさがあります。

まぁ、あまり浮かれてちゃーいけませんがね…。
カーネーション
 「ゲゲゲの女房」から見るようになった
連続テレビ小説。

話の内容はもちろんじっくり見るのですが
最近では、ドラマのタイトルや
オープニング映像
ホームページもじっくり見るようになりました。


↑今日から始まった「カーネーション」のタイトル

すごく可愛いですよねぇ!!
ホームページも布素材を使ったりして
可愛いです!!

今回のタイトルなどを
誰が作ったのか。

今すごくそれが知りたいです。
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