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こんぴら ふね ふね〜♪
とあるイベントで
本物の芸妓さん会いました。
現在21歳で、 舞妓さんから芸妓さんになったばっかりだとか… (すごく可愛かったです!) 大学生の時には、京都に住んでいたので 時々町を歩いているところを見たことはあったのですが お客さんとして舞を見たり、 お座敷遊びをするのは初体験! 私が体験したお座敷遊びは、「金比羅船々」。 金比羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ… の歌に合わせて、 向かい合った二人でグーとパーを出し合うゲームです。 一回説明を聞いた時は、簡単だと思ったのですが これがなかなか難しい!! でもすごく楽しい時間でした! 普段経験しないことや、 見たことがないことを見るということは すごくイイ刺激になります。 今後もいろいろなものを見ていきたいなぁ〜♬ 芸妓さんは後ろ姿も美人でした! |
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日々のニュースを見て思うこと
いつも平日の帰宅が深夜になるので、この前早く帰ったときに久しぶりにテレビをつけてニュースを見ました。
インターネットで自分の必要なニュースだけを見ているので、なかなか経済の情報や世界情勢など入ってこない。 だが、興味深いニュースが流れていたので自分が思うことなどを書いてみようと思う。 「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)」= 加盟している太平洋にある各国同士の輸出入の関税を原則全製品撤廃する協定 この協定に日本が参加するかどうかという議論を政府でしているという話。 例えばこの協定に参加すれば、日本が誇る電気製品や自動車を加盟国には関税無しで、 輸出できるという。そうすると加盟している輸入をする国は関税がかからないので今までより多く輸入することに繋がり、 結果日本が今までよりも利益を得ることができる計算。おおざっぱだが何兆円という効果らしい。 原資や原料の生産が乏しい日本が輸入するのも関税がかからないため以前より多く輸入できる。 輸入した原資や原料を使って製造する輸出用の製品も多くできる。 まさに「WIN = WIN」の関係である。 しかしこの協定により大打撃を受けるのが農業である。 日本の農作物は外国から輸入するものより高価なため、関税のかからない外国からの「穀物系」は 日本人にとって安価で消費しやすくなるという予想。農業の損害は7兆円ほどにもなるという。 工業系などは得をするが、農業系は損をするだろうというしくみ。 いつもどこかで得をすれば必ずどこかで損をしている。そしてその二つは必ずつながっている。 地元の農業を営んでいるクライアントに仕事をさせて頂いたため、こういった情報は無縁ではない。 身近に感じるし、自分の生活環境にも関わってくることだと思う。 農業の方たちはただ作物をつくるだけでなく、自身の作物のブランドを確立させたり、 売れる方法を日々研究を重ねている。 経済の移り変わりや世界情勢にネガティブに捉えるかポジティブに捉えるか自分たち次第だが、 どんなところも毎日生き残るために策を練っているんだなと感じた。 いろんな意見はあるかと思いますが、こういった話がすぐそこまで来ていて、 じゃあ次に自分に来たらどうするの? て、少しなりますね・・・ |
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色のない色鉛筆『COLORBLIND』
色を消し、色の名前が書いてあるだけの色鉛筆のパッケージデザイン。
なんといいますか、色に対する感覚を揺さぶられるような感動を受けました。 例えば、C100,M50の色を頭で思い浮かべるように。 COLORBLINDというネーミングと合わせ 45色を超える創造力を育てられそうな色鉛筆です。 側面に色がついてるインターフェイスが当たり前だと思ってたし、 それを裏切るだけでこれほど揺さぶられるとは。 とてもドキドキしたパッケージデザインです。 色を消した45色の色鉛筆「COLORBLIND」 色鉛筆と聞くと色鉛筆自体がその色になっていて カラフルなものを思い浮かべますが、 今回紹介する色鉛筆「COLORBLIND」は 今までの色鉛筆の概念を変える色を消した色鉛筆です。 http://packaginguqam.blogspot.com/2009/03/colorblind-nathalie-dube.html |
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お祭りいろいろ
先日有給休暇をとって、閉幕間近の瀬戸内国際芸術祭2010に行ってきました。
平日だというのに朝の7時前から高松港は船の整理券を求める人でいっぱいです。直島行きと小豆島行きは積み残しが出たようでしたが、私が目指した男木島行きはぎゅうぎゅう詰めながらなんとか乗り込むことが出来ました。 この日の目的は、男木島と豊島。 男木島は駆け足だったものの、島のこじんまりとまとまったかわいらしさにとりあえず満足。 豊島も、体力不足で作品は半分くらいしか見なかったのですが、いちばんのお目当てだった"島キッチン"で食事が出来たので、まぁ満足。 キーマカレー 有名どころの作品はまたどこかで目にする機会もあろうかと思いますが、展覧会の雰囲気は実際に行っとかなくては話に参加することも出来ません。駆け足ででもひと回りしてきてよかったです。 そして昨日、たまたま「GOOD DESIGN EXHIBITION 2010」を覗いたら越後妻有の"大地の芸術祭"と瀬戸内の"海の芸術祭"が並べて展示されていました。 大地の芸術祭(左)海の芸術祭(右) 出品作家の作品だけでなく、こんなふうに周辺のデザインも賑わっているのを見ると楽しくなります。地元の人たちも思い思いに何かを作ってこっそり参加していたりして、汗臭い熱いお祭りは苦手ですがこんなお祭りなら1年中でも大歓迎です。 |
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腰痛
自分は運動不足と姿勢が悪いのとで、たびたび腰痛になります。そんな折り、書店で見つけていずれは目を通そうと買っていた本がありました。その名も「自力整体法」。ほとんど読んでなかったのですが、先週末から妙に腰が痛くなりはじめて、泥縄的に読み始めました。
この本によれば、腰や足の痛みの原因は「ゆがみ」「ちぢみ」「ゆるみ」から生じるとされています。まず骨を支える筋肉が「ゆるみ」、身体の土台である骨盤が「ゆがみ」、ゆがんだ土台の上で頭を水平に保とうとするため、背や肩の筋肉が「ちぢみ」、こりや怠さとなって表面化するそうです。そして、その状態のままにしておくとゆがんだまま身体が固くなり、ゆくゆくは痛みとなって表面化するのだとか。ちなみに、座りながら主に右手で作業をする環境だと、尻の左側に重心がかかりやすく、右側が腰痛に、左側が肩こり、足痛になりやすいとのこと。この右側の腰痛というのが、自分にはまんま当て嵌まります。 写真や装丁が少し古っぽいので大丈夫かと思いましたが、実践してみたところ、きつい姿勢が多いながらも、痛みは少しほぐれた気がします。 のど元過ぎれば・・・という風にならないよう、しばらく続けてみることにします。 |
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氷室京介という生き方
ちょうど先週末の日曜日のことになるが、久しぶりにとあるアーティストのライブに出かけた。そのアーティストの名は氷室京介。僕自身、氷室京介のライブは今回で3回目になるが、いつも通りライブのクオリティは高いものだったし、発売後即ソールドアウトになっただけあってオーディエンスのノリもとにかく凄まじかった(ホント、ハンパ無かった)。個人的な好き嫌いは別にしても非常に満足度の高いライブだったと言える。バンド時代を含めると実に25年近いキャリアの氷室京介だが、僕が関心を持ち始めたのはほんの5〜6年前からのこと。楽曲の魅力もさることながら、その生き方に強い興味を引かれたのがきっかけだ。
氷室京介、この名前を聞いて反応する人は恐らく30歳代後半以降の人たちじゃないかな。1980年代、今や伝説となったバンド、BOOWYのボーカリストとしてスターダムにのし上がる。1988年のバンド解散後はすぐにソロに転向、次々にヒット曲を世に送り1993年にはアルバムがミリオンセールスを記録、名実共にJ-POPの頂点に立った。しかし、この頃から氷室を取り巻く環境が少しずつ変化する。彼は当時の状況をこう語っている。 「レコード会社も事務所も、周りがみんなイエスマンになっちゃうんですよね。」 芸能界というのは一人のスターを中心に、まるで王国を形成するかのように多くの人が動くことで成り立っている。スターは国王のごとく君臨し、周りのスタッフたちは国王のために働くことで収入を得るわけだ。だから国王が何を言おうと、何をしようと、「ノー」は許されない。それを口にした途端、王国からは追い出され路頭に迷うことになるからである。余談だが昨今の芸能界の不祥事もそこに要因がある。国王のすることが仮に反社会的なものであっても、誰もそれを咎めるわけにはいかない。咎めることは自らの破滅につながる。もちろん、一部の不届きものの国王に限っての話しだけどね。 氷室の場合、彼が反社会的行為を行った訳ではないが、いろいろな人がフィフティフィフティの立場で意見を出し合い、クオリティを高めていくべき音楽活動において、周りが単なるイエスマンになってしまうのは少々問題有りだ。特に氷室は完全主義者で、自分が納得いくまでレコーディングには妥協を許さない。当然スタジオに入る時間も長くなり、それはスタッフも同じだ。そんなとき、スタッフが本当に自分と思いを同じくして付き合ってくれているのだろうか、自分が言うことだから仕方なく従っているのでは無いのだろうか。思い詰めた氷室はやがて人間不信に陥り、軽度の自律神経失調症を伴い、スタジオに入ることさえ苦痛になるようになっていく。 思い悩んだ氷室は1994年、家族を連れてロサンゼルス(以下、LA)への移住を決意。同時に個人事務所、個人レーベルを立ち上げ、日本の音楽システムからは一線を引いた立場に自分を置いた。LAでの氷室は自宅スタジオを拠点に目星を付けた現地のミュージシャンに自らオファーし、セッションを行うようになる。日本でのスター、氷室京介もLAではただの一人の日本人ミュージシャンでしかない。そしてアメリカ人のミュージシャンは皆シビアでプロ意識が高い。上下の関係なく、いいものはいい、ダメなものはダメ、とハッキリ口にする。日米の価値観の違いを氷室はこう語っている。 「普通に生活する分にはオレも日本人だし、お互い譲り合う日本式がいい。でも仕事をするなら絶対にアメリカ式がいいですね。」 LA移住に伴い、氷室京介の名前はJ-POPシーンの最前線からは遠ざかったが、彼の音楽性は格段に進化した。僕もよく聴くのは圧倒的に渡米以降のアルバムだ。もともと氷室が持つメロディメーカーとしての実力と洋楽ならではのドライブ感、キレのよいビートが調和し、サウンドは骨太になり聞き応えは渡米前のものとは比較にならない。しかし、同時にJ-POP的な「いい曲」、誰もがカラオケで歌えるような気軽さは無くなった。また、LAに住み、なおかつ音楽以外の活動を一切行わない氷室のニュースはほとんど日本のメディアに出てくることが無くなったが、その存在はやがて「孤高」「カリスマ」と称されるようになり多くのファンを惹き付ける。 今年、氷室は3年9ヶ月振りにニューアルバムを発表した。渡米後12年の集大成と本人が言うだけあって実によく出来たアルバムだ。いわゆる「誰が聴いてもいい曲」というのは一切無いので人に勧められるアルバムでは無いけれど(それでもオリコン2位になるのだから氷室信者のすそ野はけっこう広い)さすがに4年近い時間をかけただけ、サウンドには一分の隙も無い。お気軽なカバーアルバムや熱狂的ファンの複数買いを狙って握手券なんぞを付けたCDがバカ売れしてしまう昨今(もちろん、それが悪いというつもりはない)こんなアルバムに出会えることはうれしい。もちろんこれは人気絶頂の頃に、そこに胡座をかくことなく高みを目指してLAへと移住した氷室の生き方、音楽への取り組み方から生まれたものだ。 「決して誰かに評価されるために音楽をやっているんじゃない、というところにフォーカスできたのはやはりLAに来てからですね。」 今年9月に日本テレビのニュース番組でのインタビューに氷室はこう答えている。 「自分に才能が無いところもしっかりと受け入れて、そのための準備は怠らない。歌える権利が与えられているうちは例え暗闇の中でも一歩を踏み出さなきゃいけないんですよね。自らそれを放棄してはいけない。それがオレにとってのミッション(使命)だと思うんです。」 自らの戦う相手はいつも自分、と言い切る氷室。25年に及ぶキャリアを持ちながら、決して奢ることの無いその姿勢に多くのファン熱狂する。 ライブはニューアルバムを中心に構成されていた。氷室ほどの実績があれば過去の多くのヒット曲を並べれば手堅い構成はできる。しかしそれをやってしまったら既にミュージシャンではない。過去のヒット曲を看板にバラエティ番組の常連になっている元ミュージシャンもいる。もちろんどんな活動をしようと自由だが、肩書きにミュージシャンと付けるのは止めていただきたい。音楽にしろ何にしろ、アーティストと呼ばれる人たちは決してお気楽になってはいけない。 今年10月に50歳を迎えた氷室は、年末の日本武道館でのカウントダウンライブを含む来年2月まで続く50本もの全国ツアーを行っている。自身の年齢については 「他の50いくつの人に気持ちでは絶対負けてないぞ、ってあるじゃないですか。もしそれが出来なくなったら辞めるつもりでいますよ。ええ、それは公言していいです。」 いやいや、50歳といわず60歳でも70歳でも今と変わらず尖っていて欲しいっす。 ところでウチには中学1年の娘がいる。いつの日か娘と一緒に氷室ライブに行くのが僕のささやかな夢でもあるのだが、彼女は現在「いきものがかり」(最初名前聞いたときはお笑い芸人かホラー映画のタイトルかと思った)のファンらしく、氷室京介のことは「コーラのCMで見たことあるカッコつけたオジサン」になるらしい。以前、ツアーグッズのTシャツをお土産代わりに買ってあげたことがある。アーティストのオフィシャルグッズだから当然のことながら背中には「KYOSUKE HIMURO」とプリントされている。 娘「いいけど、これ着て外は歩けないよ。」 僕「何で?」 娘「だって知らないオジサンに『君、氷室のファンなの?』なんて話しかけられたりしたらイヤじゃん。」 僕「………(何にも言えねえ)。」 う〜む、父親のささやかな夢は当分かなえられそうに無い。 |
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ロゴタイプデザインとは言ったものの・・・
ロゴは会社の顔と言われるほど大事なものです。
だからこそ大企業となれば高額にならざるを得ません。 しかし、こんなケースもあるようです。 世界最大のスポーツメーカーブランド「ナイキ」の スウッシュと呼ばれるロゴは、スタイリッシュで 時代が変わっても人気は衰え知らずですね。 実はこのロゴ、制作費が驚きの35ドルでデザインされた そうです。なぜ?と考えざるを得ないのですが、 1971年にナイキの創業者のフィル・ナイトが講師を していた大学で、デザイン科を専攻していた女子大生の キャロライン・デビッドソンに、ロゴのデザインを 依頼したそうです。 その時、フィル・ナイトは出来上がったロゴに満足できる ものはなく、「今はこれが最良のデザインとは思わないが、 時間がたてば馴染むに違いない」と彼女に言い、 印刷物製作日程の都合上しかたなくスウッシュ にしたそうです。その当時は凝ったデザインのものが 流行していて、スウッシュみたいなシンプルなものは 物足りないと思われたのかもしれません。 また、このデザインはNIKEの社名の由来である、 女神のNIKEの羽根をイメージしているそうです。 そういった経緯や収益が低かった頃とはいえ、 さすがにたった35ドルはきつい・・・。 それから12年後の1983年、キャロライン・デビッドソンは フィル・ナイトに昼食会に誘われました。 そこで彼女を待っていたのは、ダイヤモンドと金で出来た スウッシュの指輪とナイキの株でした。 デザイナーもどきの私は、フィル・ナイトの粋な計らいに 心が救われた思いがします。 我々も中小企業や公共のロゴ製作をしていますが、 ロゴの持つ価値観は必ずしもデザイン料に反映して いかないことも現実としてあります。 いつの日かせめて数十万がもらえる実力と業界環境を夢見て・・・。 |
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最近読んだ本
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ユニクロ!
今、何かと話題を提供してくれるユニクロ!
ユニクロの商品といえば昔は品質、耐久性に欠け 「一回洗濯するともう着れない!」 「Tシャツの首の部分が延びた!」 「ボタンがとれたっ!」などなど そんな印象しか無かったですが、そんなお客さん からのクレームを募集して、それを元に改善し 現在の商品が完成したとか。 今では安くて丈夫?とまではいかないが・・・ 嫌々、今回はそんな話じゃないのでユニクロに 付いて詳しく知りたい方は『一勝九敗』でも お読みください。 先日オープンした「グローバル旗艦店」の国内1号店 「ユニクロ心斎橋店」。 地下1階〜地上4階建てで、売り場面積は国内では 3番目の広さ。 1〜4階までの吹き抜け部分を利用してロープで上下に 移動する「フライングマネキン」(国内初)が 設置されている。 また国内最多となる300体以上のマネキンを店内に 配置し、さまざまなパターンがコーディネート されている。 話題のネタに一度は行ってみるのもいいかも! これは閉店後の建物の壁面。 閉店と同時にカウントダウンが始まり、イルミネーションが 点灯。 パターンも何種類かある様ですが・・・ これはほんの一部です。 暗闇に浮かび上がる光の幻想的なアートの世界は 仕事帰りの人たちも心が癒されるかもしれません。 どれくらいの時間やっているのかは不明なのですが・・・。 ただ、そこにず〜〜っと立って見ているワケにもいかないので 早々に切り上げ、ミナミのネオン街へと消えてゆくので あった・・・。〜(#゜ω゜#)〜u |
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一意専心・・・
故里のシンボル:“ちょうさ”とともに 生きるということとは??? 1:雛がかった本社界隈 弊社は本社が四国は香川県観音寺市という古い歴史も残りつつ、鄙びた風情は少し失っても瀬戸内海に面し、山間も平野もほどよく抱える典型的な田舎だ。由来は琴弾八幡宮、豊浜八幡宮、大野原八幡宮などを鎮守とし、八十八箇所霊場:観音寺、神恵院、大興寺、雲辺寺なども擁する門前町の体である。江戸時代は東となりの街・丸亀市となった丸亀藩の領地であったが、明治以後は県名の変遷に揺れながら幾度かの合併を経て、平成の合併により1市2町で新しい観音寺市が誕生した。人口:約65000人、元々は1市9町という区分が地形的にも自然だったが、いろいろあり、片や7町で合併し現在“三豊市”として隣接する。 前置きが長くなったが平均的なローカル都市で、正直そう目立つようなことは少ない。そんな田舎が年に一度だけ、大きく個性豊かな一面を見せる時がある。 2:平凡から超非凡へ 皆さんはご親戚でもない限り、この地方の秋祭りなどはご存知ないかもしれないが、別途画像のように、全国どこと比べても秋祭りに関しては相当に賑やかというかうるさい地域だと思う!つまり祭りぼっこ(=熱気の意味)が数え切れないほどいて、それはシンボルたる太鼓台=ちょうさ、に起因しているといっても間違いない。以下この太鼓台=“ちょうさ”に関しての話なのだ。 自治会全家庭から分限者は多額に、一般の家も5年掛けや10年掛けで予算出しをして 最低でも5〜6000万、中には億を越す大金をつぎ込んで作るからである。無論一部は手作りもできるが、資材や部品はそれぞれが職人技でなければ叶わない技術工芸の粋でもあり、どんどんと数百万〜数千万を注ぎ込んで仕上げてゆくのであるから思い入れがあって当然ではある。自治会単位で保存される“ちょうさ”を、秋祭りには盛大に担ぎ出して、五穀豊穣を祈り1年の無事や健康を喜び、はじけるのである。無論、保存施設も専用で構え、空調も年間を通じて管理する自治会もある。 とにかく10月頭から10月末の約1ヶ月は、この“ちょうさ”の運行で町中が、赤色や金色、黒などの絢爛色に彩られる様からは、あの田舎の何処にそういうエネルギーが???という大きなギャップが実感だ。特に観音寺市はこの“ちょうさ”と呼ばれる太鼓台の保有台数が日本一=約120数台、子供用も入れればさらに・・・で、自負心も大きい。今でこそおとなしい祭りだが、若い衆がエネルギーをもてあまし、大勢掃くほどいた昔は、勢い余っての喧嘩沙汰も秋祭りの名物となって、死人がでるくらい激しいところもあった。そんな自治会のちょうさはペナルティで秋祭り参加は数年自粛させられる。それでも荒々しさは毎度のことでもあった。 この時期がそういう意味で超非凡といわざるを得ない時節、だからこその故里の風情でもあろうか。120数台が一堂に揃うことは、氏子として神社に帰属する秋祭りなので無理なことだが、十数台単位での見学なら所々の神社で可能だ。 3:しかし独自の発展でもあった この秋祭りを支える“ちょうさ”は実はこの地方だけの独自なものでもある。ルーツは京都にある山鉾・山車を意匠の素にしたとは考えられるが、実に流れ流れてこの地方では独特のデザインとなって今日に至る。 我々の地方といっても観音寺市というだけでは語弊があり、西域は愛媛県小松町、土居町、新居浜市、西条市、四国中央市と有名地区が目白押しだ。香川県側と一部徳島県で観音寺市、三豊市、宇多津町、琴平町、坂出市、みよし市、小豆島などと点在する。一体全体、何台が存在するのだろうかというほどの一大エリアだ。 外形からすると愛媛県側はほぼ同型で、一部、西条市の壇尻に京風の伝承が伺えるが、あとは本当にこの地方のオリジナル型でまとまっている。垂直に立つ2段になった高欄幕と、単結びの黒とんぼに四隅の大きな房が特色。威圧感がする迫力が自慢で、担ぎ手の若い衆の気風も荒い。 香川県側は吾が観音寺市、特に旧観音寺町と呼ばれる最も古い地区に特色のルーツがある。高欄幕は1段だが、その分、掛布団と呼ばれる四方に配置された座布団のようなもので一目瞭然の違いとなる。ただ四方だと幅が広すぎ、重量も増えるので今は前後二方の掛布団型が大半である。 観音寺市、三豊市内ではちょうさが自前のところはこの掛布団型、急ぎ他地区から購入したところは2段高欄幕の新居浜型と呼ばれるタイプとなり、いろいろ交じり合っている点が面白い。しかし琴平、小豆島などは、ちょうさの原型ともいえる少し小振りな太鼓台である。坂出など新興のエリアは新居浜型である。しかしほぼ同じ意匠の範疇といえるのではなかろうか。しかしこのエリア以外では似たようなものがない・・・まさにこの地域ならではといえる所以だ。 4:伝える人がいるから まず自分たちが大いに楽しむ、思い入れる・・が秋祭りの原点かもしれないが、独自の“ちょうさ”というカタチを持つ秋祭りのシンボルはその経費も考えれば、きちんと見つめなおす必要がある。それを地道に真摯に向き合い調べ上げて入る人がいる。勿論、多くの愛好家が興味を持ってそれなりに関心を強くする人も多くいるのだが・・・ここまで来ると既に学問領域である。サブカルチャーの大家とも言えるかと?ご本人は謙遜されるが、これだけ長年にわたり向き合う人はいない。“ちょうさ”を担いで騒ぐのは好きだが、一体どういう経緯や変遷があって自分たちの自治会の“ちょうさ”が伝わったなど、存外注意されてきていなかった。 彼のひたむきさは自身が子ども時代から担ぎ、参加していた“ちょうさ”のある秋祭りに、ささやかな興味と伝承に対する尊敬を持つことで今日の深く広い研究領域に繋がっている。 多大な予算を掛けながら、古くなると新調し、すると過去の物は不要とばかりに転売するか処分してしまう。記録すら定かでないという残念さを痛感し、せめて有形文化財的な証人としての“ちょうさ”、地区のシンボル=よりどころとする“ちょうさ”を、統計として記憶として整備して保存データ化してきた。民俗学の一端を大いに担ってくれているのだ。“ちょうさ”版:柳田國男かもしれない。地元はもとより“ちょうさ”と聞けば瀬戸内一円をくまなく闊歩。交流した自治会は数知れず、まとめたレポートの自費出版も含めて、この世界に彼ありである。 実は10数前には何度か、彼(=年齢では先輩なのだが、こういう情報ツールでの表現なので寛容いただくが)にお会いいただき厚誼をたまわった。ある資料作りで寄稿もいただき、彼のリポートがその資料の厚味を増し、各方面からの引き合いもいただく。つまり“ちょうさ”愛好家にとって彼は欠くべからずの人材、常に注目される人:研究家として当然でもある。本業は別にありながら寸暇を惜しんで、余禄を全てつぎ込んでという感じでもあろうか?執念ではなく、それぞれの郷土に根付くシンボルであり、伝承の粋:工芸的にも優れるため・・・歴史から風化されそうな危うさもあり、いとおしく愛するがゆえだろう。地域の人も彼に接することで、改めて地域の独自性に覚醒するという影響も持つ。 別段彼をヨイショするための紙面ではなく、こうした市井のなかにこよなく郷土を愛する姿勢を行動で示す人がいることを、秋祭りを迎えるたびに熱く思うのである。失礼を言うが郷土を盛りたてる地方公務員、市会議員が声高に故里云々を叫び当然のような口ぶりで語るが、はやして10年スパンや20年スパンで何を残してゆくかを見定めて、コツコツと取り組む人がいるとは思いにくい。また余りあるお金があっても地域貢献する人は意外と少ない。 私も微力、できない立場の範疇をもどかしく思う人間ではある。それだけに一人の趣味かもしれないが、全国に誇ってよいこの地方の秋祭りのシンボル=“ちょうさ”を見るたびに「継続こそ力」と痛感。そうした背景に沿ってこの“ちょうさ”を研究して止まない研究者が、地元にいることが嬉しい限りであると言いたいのだ。 長く連絡もしていないが、別途のように知っている人はきちんと時節が来れば、どこかで紹介をしてくれるので安心する。忘れてはいけないことを考えて続ける人・・・そういう人が増えるときに故里の本当の活力は生まれると思いたいこの頃である。合掌 秋祭りで思い出して欲しい人:尾崎明男さん・・・太鼓台文化圏研究家 太鼓台研究家:尾崎明男 ここでは研究資料的にこれまでの研究成果や各地での太鼓台を通じての交流の様子が窺えます。太鼓台研究の波及の成果・・・神戸芸術工科大学の「アジアンデザイン研究」は かな検索でアクセスできますので尾崎さんとの対談を参考にしてください。サブカルチャーとして注目大です。 四国新聞社の記事で紹介された最近のニュースです。 多度津町佐柳島での太鼓台のニュースに尾崎さんが登場しています。 観音寺市の太鼓台関係のサイトの一例 1:ちょうさリンク エリア内のいろいろな地区の太鼓台の画像が見られます。 2:豊浜ちょうさ会館 豊浜町にある、実物大のちょうさを展示した資料館でライブ感も味わえます。 3:さぬき豊浜ちょうさ祭 ちょうさ祭の具体的な運行状況や解説など。 一番集合する台数が多い地区の紹介です。 4:観音寺市のサイト 観音寺市のポータルサイトから秋祭り:ちょうさ祭へとリンクできます。 |