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名蹴会発足
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赤い羽根共同募金ポスター
先日、赤い羽根共同募金のポスターを目にしました。募金をしたのは、学生のころ集められて以来ですので随分昔の話です。それ以来あまり気にもとめていませんでしたので自分の中では、女性タレントが赤い羽根を持って微笑みかけているイメージしか持っていませんでした。もうそんなイメージポスターではないのですね。今は募金がどのように役立てられているかを、募金を行う方に理解していただくことをコンセプトに制作されているようです。目にしたのは使い道をアイコン化し、より理解を深める事を目的とした物でした。「募金はしたものの何に使ってるの?」と思っていた自分のような人に、少しでも理解してもらい募金を募る為のアイテムへとなっていました。
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怪獣映画は世界を救う、のか?
以前にブログで、怪獣映画をお題目にして書かせてもらったことがある。そのとき僕は「怪獣映画の灯は永遠に消えた」と書いたが、その後になって仰天するニュースを耳にした。何とゴジラ映画がまたまたアメリカで制作される、というではないか。しかも3Dになるらしい。公開は2012年というからかなり先の話しになるが(その頃には3Dなんて死語じゃないの?)途中で頓挫しなければ久々に怪獣映画が復活することになる。
しかし思い出されるのは1998年のハリウッド版「ゴジラ」だ。話題にはなったものの、世界中のゴジラファンからはブーイングの嵐、興行的にも成功したとは言えず、続編の話しも立ち消えになってしまったようだ。なのにまたハリウッドでゴジラを作るのか?という疑問もあるけれど、制作プロデューサーいわく「従来のゴジラの世界観に沿ったものにする」とか。恐らく日本で作られた第一作のゴジラ、原点に立ち返る、という意味合いなんだろうけど、それについてはいろいろと考えさせられることがある。
ハリウッド版ゴジラ公開のときにこんな意見があった。アメリカ人は自分たちが一番偉い、強い、と思っているから怪獣は徹底的に貶めてやっつけないと気が済まない、という。だからハリウッド版ゴジラは魚を食べて、子供まで生んでいた。「怪獣」であるゴジラは繁殖機能、排泄(食事をするのだから当然ね)まで伴う「生物」に貶められてしまったのである。しかも最後は吊り橋のワイヤーに絡まって身動き取れなくなるという(確か…記憶が曖昧)何とも惨めな姿でジ・エンド。そりゃないぜ、と思わず愚痴も言いたくなる。 イギリスのネス湖に生息するという未確認生物、ネッシーをご存知だろうか。古代の恐竜の生き残りじゃないか、ということで一時期、それらしい写真やビデオが公開されて世界的な関心を集めていたけれど、ここ数十年、新しいニュースがないから若い世代には知らない人も多いのではなかろうか。 何かの本で読んだのだが、アメリカ人の生物学者とかいう人がネッシー生存説に反論していた。彼の言い分はこうだ。「ネス湖の魚の生息数から見ても、そんな巨大生物が生きていけるだけの食糧があるとは思えない」つまりエサとなるべき魚がいない湖で巨大な生物が生きていけるわけが無い、故にネッシーなどいるわけが無い、というのが言い分だ。もちろんそれは正論だ。しかし相手が生物ならばその論理は通用するが怪獣となると話しは違ってくる。 平成「ガメラ」シリーズでは、ガメラは古代人が作り出した地球の守護神ということだ。守護神、つまり「神」である。「ねえ、神様って何食べてるの?ウンチとかするのかな〜」なんて子供の疑問じゃあるまいし、聞くだけ野暮ってもんだ。もちろんネッシーは怪獣でもないし、神でもない。しかし、何でもかんでも自分たちの決めたモノサシに合わせようという強引な考え方では、怪獣にロマンを求めるのはちと無理がある。 随分前の話しだが、とある法事の席でお坊さんと雑談をすることがあった。ちょうどアメリカで9.11同時多発テロが起こったすぐ後のこともあり、キリスト教、イスラム教と仏教の違いとは?なんていう話しになった。まだ若そうなそのお坊さんは「仏教は自然の中に神様がいる、という考え方なんです。」キリスト教もイスラム教も敬うべき対象が非常に狭い、という。狭いからこそ、敵対する。その範囲に入らないものは否定し、排除しようとする。だから紛争が起こるのだ、とも。 なるほど自然の中に神(信仰すべき対象)がいるのなら、敵対する相手のそばにもいるわけだし、そもそも自然を破壊してしまうテロや戦争は道理が通らない。自分たちを超えたもの、自然に対する畏敬の念があれば、それを支配などはできないし、常に一歩引いて奥ゆかしくならなければならない。 最近は見ることがほとんどできないが、昔は家に蚊帳(かや)というものがあった。僕も小さな頃、田舎の実家でかすかに記憶がある。蚊を見つけたら、辺り構わずにすぐに殺虫剤を吹きかけるのではなく、昔の人は蚊帳を作って自分たちと蚊(自然)の共生を考えたのだ。まあ蚊取り線香なんかも昔からあったけど、殺虫剤や、部屋まるごとを煙で殺虫するのに比べたら随分と平和的な武器だ。 また、下駄という履物は地面に接する部分が極端に少ない。それは地面にいる草花、虫や微生物をなるべく踏みつけないようにする、という考え方では無かろうか。問答無用でアスファルトやコンクリートで踏み固めて歩きやすくするのでは無く、もともとそこにある自然の邪魔をなるべくしないように、という配慮ではないかと思うのだ。 前述のガメラ、環境の激変(もちろん人間の仕業だ)により地球のエネルギーの磁場が狂い、凶悪な怪獣ギャオスが生まれる。そこに古代人が作り出した守護神ガメラが立ち向かう。ゴジラ第一作、人類の水爆実験により眠りを覚まされたゴジラが蘇り、日本を襲う。いずれも自然を恐れることなく支配しようとする人間のエゴに対する神の怒りである。もともと人間が立ち向かい勝てる相手では無いのである。確かにゴジラ第一作では芹沢博士の作り出した化学兵器オキシジェン・デストロイヤーでゴジラは倒される。しかし芹沢博士もゴジラと共に自らの命を絶つ。オキシジェン・デストロイヤーが悪用されるのを防ぐため、という理由もあるが、彼の死は言わば生け贄だと思う。人間の一方的な勝利にはしない、できない。何故なら怪獣を生み出したのは人間の悪行であり、エゴだからである。 9.11同時多発テロについては様々な憶測が流れている。イラク攻撃を正当化するためのアメリカの自作自演だという説もある。もちろん真相は分らない。しかし、そのアメリカで本当に「従来の世界観に沿った」怪獣映画が作れるのだろうか。怪獣映画の難しさは、怪獣の存在意義をどこに落ち着けるか、にかかっている。平成ガメラシリーズがファンに受け入れられたのは、それに真面目に向き合ったからだ。それは同時に(怪獣を生み出した)自らの負の行いを認めることでもある。突然現れて破壊の限りを尽くす、人類には何の責任も無い、ひたすらミサイルを撃ちまくって怪獣を惨めに倒せばいい、そんな都合のよい脚本など観たくはないと思うのだ。3DだろうがCGだろうが、根底に骨太な思想がなければ怪獣映画に命は宿らない、と思うのは昭和世代の怪獣映画少年の勝手な幻想なんだろうか。 1971年、「ゴジラ対ヘドラ」という映画が公開された。ヘドラとはその名の通り、ヘドロと宇宙生物が合体して生まれた怪獣だ。当時日本全国でヘドロなどの公害が社会問題となっていたから、まさにタイムリーな企画だったわけだ。この頃のゴジラシリーズは完全に子供向けの映画になっていたけど、この作品は全編サイケで退廃的なテイストにあふれていて、ファンの間ではいまだにカルト的人気が高い。公開当時、僕は小学生だったけど、この作品が大好きで親にねだって2回も映画館に観に行かせてもらった記憶がある。 暴れ回るヘドラに全く歯が立たない人間たち。そこへゴジラが登場、死闘の末にヘドラを倒す。ラストシーン、闘い終わって立ち去るゴジラがふと振り返り、見守る人間たちに向かって遠吠えする。ヘドラの攻撃で手は白骨化し、片目は焼けただれ、ボロボロになりながらの遠吠えは決して勝利の雄叫びでは無かった。ヘドラを生み出した人類への怒り、やるせなさなのだ。それは子供心にも、悲しく切なく響いた。悪者が一方的に倒されればすべて良し、では無いこと。それを教えてもらった気がするのだ。 今でも世界中で争いが終わることはない。我々の身近でも中国との緊張関係など、決して他人事では無い。争いごとでなくても、環境は日々破壊され続けている。映画で世界が変わるなんてことはないけれど、ここはひとつ世界中へメッセージを発信できるような骨太な怪獣映画を作り出してもらいたいと思う。ハリウッドはできればお金と最新のCG技術だけ出してもらって、制作は平成ガメラシリーズのスタッフで作ってもらえないかな〜。 |
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10年連続2000本安打!
先日見事に大記録を達成したイチロー選手。
今年は無理かも知れない?とドキドキしながら 毎日試合の結果を気にしていたが、無事達成す ることができたのでホッとしました。 ここ数年最下位に低迷するマリナーズで優勝の 可能性が完全に無くなってただ試合を消化して いかなければならない中、腐ることなく安打を 打ち続ける姿勢はただただ感心するばかりです。 どんな状況でもやるのがプロ。 そんな状況に振り回されない強さが大記録に繋 がったのでしょう。 これからも次の目標に向かって頑張ってもらい たいものです。 低迷する野球人気の中でたまにはこのような 明るい話題があると嬉しいですね。 イチロー選手は「練習の練習をするんだ」と いつも言ってるそうです。 試合にための練習は誰でもするのですが・・・。 「ウオーミングアップのウオーミングアップ」 「打撃練習のための練習」。 「そうすれば準備の遅れはない」と。 試合が始まると、すぐに打席に立たなければな らない一番打者。 試合が始まってから「さあやるぞ!」では気持ち 的にも出遅れてしまいます。 絶対に出遅れないという意思の強さや事前の準備 が何ごとにも必要だと改めて感じました。 |
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建築としての城と藩体制の研究へ・・・
日本の城=戦国時代終末:安土桃山時代から江戸時代初期の城閣建築と、その後の藩体制(=幕藩体制と言うが幕府は心情的に省きたい)は、ともすれば古いとか時代劇がかりと呼ばれて終わりそうだが、温故知新、最も歴史に学ぶことができ、地方文化の創生期ともなる時代かと、私は文句なく好きな時代である。
建築として城が好きな理由 様式美と戦う空間としての機能性のバランスに興味が尽きない。少なくともどの城でも戦いを前提として、縄張りと言う地形を基に平面割から城の持つ機能を精一杯引き出そうと考える。山城や平山城は高低差を、平城は海、湖、河川との水平関係で、籠城して守れるかぎりの工夫を見出す。攻防の実戦を踏まえて、出丸、馬出し、三の丸から二の丸、そして本丸への動線に、堀や櫓、門や虎口、権威づけの天守、政務の御殿など、多様な機能が複合する。 また誰しも優先して魅入る天守閣と言う建造物。高尚さ、優雅さは仏閣に及ばないが、地方を管理する権威のシンボルとして、実にその地方の実情に適合しているようにも思う。望楼型、層塔型、連立式、連結式と様々なタイプの変遷がある。またそこには装飾された意匠があり、破風、唐破風、華円窓など幅広く導入されて、それぞれがなんとなくマッチしているように思える。時代と共に背景とともに、城主・藩主の考え方に沿って建築イメージが練られている様が推測される。 見聞できる建築物=天守閣や代用の高櫓、また大手門などは復元が多く、現存が少ない。だが城好きには残る石垣だけでも十分な思い入れができる。特に本丸や二の丸など主要な縄張りの遺構がほとんど手つかずに残存している場合、そこに佇むだけで十二分な感傷に浸れるからうれしい。ご存知のように石垣も野面積みから算木積み、打ち込みハギなど進化も時代と共にある。大石の出にくい関東以北の城は土塁が多く、西日本の石垣が魅力の城を見慣れると物足りなさもあるが、江戸末期の内乱で大砲が威力をもたらせた時は、打ち込まれた周辺の破裂がない土塁の方が安全だったなど、城の攻防の歴史は面白い。戦国中期は木造むき出しの櫓組みや板塀的な構造の山城が多く、戦国武将のロマンはひしひしと感じるが、建造物の美としては今一つのめり込みないのも許されたい。 ※見どころポイント別に近畿圏の城について・・・ 1:石垣に見るべきこと多い・・・高取城(=奈良県)、竹田城(=兵庫県)、大坂城(=大阪市)、姫路城(=兵庫県)、和歌山城(=和歌山市)、彦根城(=滋賀県)、安土城(=滋賀県)、観音寺城(=滋賀県)など 2:現存や復元でも風情が漂う・・・岸和田城(=大阪府)、伊賀上野城(=三重県)、 津城(=三重県)、赤穂城(=兵庫県)、龍野城(=兵庫県)、出石城(=兵庫県)、 福知山城(=京都府)など 3:縄張りがしっかり残る・・・姫路城(=兵庫県)、彦根城(=滋賀県)、大坂城(=大阪市)、和歌山城(=和歌山市)、高取城(=奈良県)、竹田城(=兵庫県)、小谷城(=滋賀県)、洲本城(=淡路島)、丹波篠山城(=兵庫県)など 4:櫓、城門、天守閣が残る、再現される・・・姫路城(=兵庫県)、明石城(=兵庫県)、赤穂城(=兵庫県)、彦根城(=滋賀県)、大和郡山城(=奈良県)、大坂城(=大阪市)、水口城(=奈良県)、龍野城(=兵庫県)、出石城(=兵庫県)、福知山城(=京都府)など 5:幻の名城(=残っていれば大きな遺産)・・・尼崎城(=兵庫県)、膳々城(=滋賀県)、安土城(=滋賀県)、高槻城(=大阪府)、丹波亀山城(=京都府)など その後の藩体制に留意する理由 悪く捉えれば当時の江戸を中心とした幕藩体制は、今の東京中心の社会システムとオーバーラップしていて心地よくないから、それで冒頭、幕府は除くとした。さりとて各藩=最盛期は280余藩を数えてそうだが(=大藩、中藩で支藩を創ったため)実に武家社会の体面と言う、本来の武家のあり方でない華美、瀟洒な社会が続き、藩経済は江戸中期で既にたちゆきかねる体たらくとなった。 また幕府もいつまでも規範を旨に固執した運営にこだわり、江戸在勤での浪費(=上屋敷〜下屋敷、中屋敷も構えるため)、参勤交代での疲弊、権力者の奢り、と悪しき慣習は数えれば切りがない。歴代諸侯に名藩主がほとんどいないのは、そういう慣習に染まりきってしまった無感覚さが全ての要因だ。 ただ敢えて藩体制の良さを挙げれば、各藩での殖産興業にあろうかと。また文化・教育の推奨もまた各藩なりの独自性や人材の多様性を発露したのではないかと思うからだ。 支給米が、藩経済、武家経済の中心で一切変わりえなかった江戸時代。貨幣経済の主役はいつしか商人に握られ、武家の生活苦は百姓の比ではないにしろ、散々たる有様でしかなかった。それもわかりつつ、しかしけなげに地方の諸藩は独自の地場産業の振興を画策した。無論、新田開発が優先的な藩が多かったが、それでも藩経済を商人とともに地方の生き様として、目指し健闘した例は多い。それが今日の地方なりの独自性や固有の経済基盤へつながっているように見受ける地方が多い。 特に会津藩開祖:保科候、上杉家中興の鷹山候のような名君は数少なく、半ば強引な家老職あたりのお家再興の辣腕振りは枚挙するほどあるが・・・。しかし藩民から登用した、藩校からの生え抜きで頭角を現した者の重用などで、傾いた藩財政や規律を立てなおした事も多かった。さらに江戸幕府が倒れ、明治維新が成り立ち多くの武士は路頭に迷いつつもなんとか職業転換ができた頃、その中から文化、経済、医学、運動、研究分野で多くの日本人が活躍し始めるが、ほとんど庶子であった。とにかく一番始末に負えなかった人材層が藩主クラスだったようで、彼らから明治維新後、それぞれの業界や分野で名を成した人材は、まず稀だったそうだ。 私の記憶間違いでなければ、歴史小説の大家“司馬遼太郎先生”の話に、江戸時代を通じて作家として、人間として、最大に評価できるのは“高田屋嘉兵衛”だそうだ。厳しい歴史小説家の眼には権力者である藩主、それに近い人物に尊厳を感じることがないほど人材は無きに等しいのだろう。しかし藩独自の殖産興業は、米経済からの脱皮と地方色豊かなローカリズムを発揚できたようだ。 今日本では地方の衰退化の懸念ばかりだ。確かに少子高齢社会で地方ほど若手層が不足し将来性は乏しいのが現実ではある。ましてや待遇面で大きく格差がでる東京本社:大手企業への切符が切望される社会心理構造である。地方は第一次産業ですら後継者がいなく、退潮著しい第二次産業や、これも少子高齢社会に後手となった第三次産業構造の不安要因も多い。江戸時代のように農民が80%を占める職業分布の時代とは単純に同列化出来ないが、少なくとも独自の殖産興業を考え抜いた姿勢、他地方に追随を許さない向上心、だけは見習いたいものだ。さて、我々が故郷四国、中国地方(=岡山から)の殖産興業や人物を列記してみよう。 1:殖産興業・・・うちわ・綿(=丸亀藩)、漆器・砂糖(=高松藩)、藍染め・塩(=徳島藩)、イグサ(=倉敷天領)、瓦・線香(=阿波藩:淡路)、酒造米(=姫路藩)、杉・和紙(=土佐藩)、塩(=赤穂藩)、備前焼(=岡山藩)などいくらでもあろうかと。 ※小藩から大藩まで風土や気象条件、人材の資質を見合わせて独自性を練り上げて行った。 2:人物として・・・先ほどの高田屋嘉兵衛(=淡路)、山田方谷(=岡山高梁藩)などに代表される商人、治世家などをあまた輩出しているはず。ここでは記憶が曖昧のため割愛するが、言いたいことは、再度、自分たちの足元を歴史に見習い、謙虚に立ち返り、そして真摯に立ち向かうことだろうなぁと痛感するのだが。しかし自身は疲れているなぁ、これで願望ろうなんておこがましいなぁと反省ばかり。長々、城好きからこんな話にすり替えてきたが、でも地方色の豊かさは、江戸時代の藩体制にあることは間違いないだろうと。ただ80%近い藩民が農民であった時代とは大きくかけ離れる今、しかし物作りが基本であるならば、再度、物作りとは???と問いなおす、そういう城好きもいるのか??と自問自答のブログであった。合掌 |
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せとげい
先日の連休を利用して、瀬戸内国際芸術祭、略して瀬戸芸に行って参りました。この夏に小豆島行ったときにもちこっと見ているので実質2回目です。
今回は親同伴で、メインストリームである直島へと渡ったのですが…大いにミスジャッジでした。 朝は6時に家を出てフェリー乗り場に着くや、なにやらすごい人だかり。直島行きの始発を待つ人たちだったわけですが、これがあまりの多さに定員オーバーになり次発を待つはめに。ここからあれよあれよと予定が狂い、昼時に島入りして結局見ることができたのはかぼちゃと家プロジェクトくらい。最終の船便が午後5時って、ちょっとどうなのさ。 とまあそんなこんなで不満だらけの島めぐりになったわけですが、あんなに人がうじゃうじゃいる直島というのもそうそう見られるもんではないでしょうからまあよしとしましょうかね。今後行く予定の方はくれぐれも甘くみませぬよう…。地元人はとりあえず直島以外を回られるのがよいかと。 大人気のかぼちゃ。 |
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最近の癒しグッズ
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ナチュラル
先日、綾歌町にある「KITOKURASU」というカフェ、ギャラリー、ショールームを併設している
ナチュラルなショールームに行ってきました。
何がナチュラルかというと、建物がほぼすべて木材でできているんです。
※ここに写真を載せたいのですが、ホームページから見た方が伝わると思います↓
http://www.yamaichi-mokuzai.com/2_kitokuras/kitokuras.html
もともと「KITOKURASU(木と暮らす)」は山一木材という材木を取り扱っている会社が
自分たちの敷地内に作ったショールームみたいです。
周りは湖があったり、森林に囲まれていたりとすごく自然に密着しています。
実は雑誌「PEN」や「CASA」にも取り上げられていて、音楽イベントや、
木を使ったワークショップなど定期的に開催しています。
西讃にもこんなところがあるのかと少し感動しました。
しかも、入るのにタダで入れます。
ショールームの隣の湖に、カフェで買ったコーヒーを持ったまま移動したり、趣味の
ジェンベを勝手に叩かしてもらったりと(もちろん邪魔にならないように湖のほとりで)すごく
ゆるーい雰囲気です。
経営者の方も気さくで「どうぞどうぞ」という感じです。
まさにナチュラルですね。
文章でうまく説明できずに申し訳ないのですが、まずは行ってみてください。
私の言うナチュラルさが伝わりますよ。
http://www.yamaichi-mokuzai.com/2_kitokuras/kitokuras.html
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形状に沿って描かれるパッケージ
残暑も残すところあとわずかとなりましたが、
残暑?というよりもまだ猛暑が続いています。 暑いときにはやっぱっり、コレですね〜。 僕は一日一個は、必ず食べてます。 まぁ、それはさておき今回、紹介しようと思うデザインは、 清潔感のあるオシャレなパッケージデザインを紹介!! Waitrose Sundaesというアイスのパッケージデザインですが、 すごく、シンプル!! 背景の白と、シロップがかかるアイスの白がリンクしてて、 さらにパッケージ形状の折り目と重なってシズル感を感じます。 パッケージも基本は印刷なので、2次元的に考えてしまう事が多いのですけど、 これは2.5次元というか?パッケージならではの方法論で創られているように感じました。 |
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echino
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