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無印のTシャツ、タグ表記
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秋の癒しに。
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アートトレッキングin枌所2010
来月の12日から約1ヶ月間、高松空港から少し奥にある田万ダムの周辺で、野外造形展が開催されます。私もいちおう参加します。開催地が綾川町(三本川に傾いたaがくっついているような町章のデザインをしたのが我が社の社長)ということで、会社から寄附もいただきました。
まだぜんぜん作品をつくるという気分にはなっていないのですが、とりあえず約2週間のお休みは許可してもらったので、前半1週間は屋外に出ることに慣れる期間、間でちょこっと仕事をして、後半3日間は集中して制作する期間、と決めました。 11日の搬入にはなんとか間に合うだろうと、結構呑気にかまえているのですがどうなることやら。 残暑厳しい折ですが、山の空気は気持ちいいものです。氷トマトを売る出前カフェもでるかもしれません。準備期間も短く、すべて何とかギリギリ間に合った感じのする今回のイベントですが、私の中では今のところ"今年の出来事ベスト3"に入っています。 森林浴を兼ね見にきてください。 |
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電気のこと
「あと○○年で石油がなくなる」的な言葉をどこかで耳にしたことはないでしょうか。自分も小さい頃からそんな話を聞いていて、以外と無くならないなぁと不思議に思っていましたが、最近読んでいた本にそのことが書かれていました。
以下に画像あります本書は一見すると固そうな内容に見えますが、風力と太陽光発電を軸に電力のことが説明されている比較的ライトな内容の本です。で、冒頭の疑問の答えですが、ここで言われる○○年というのは今の金額で石油が提供できる年数ということだそうです。石油は自噴するので他の燃料よりもコストが低く済むらしいのですが、○○年が過ぎある程度取り尽くすと、取り出すコストが高くなり、金額的にあえてそこから取り出す意味がなくなるとのこと。決してその期間を過ぎたのでいきなり0になると言う話ではないようです。○○年の期間が伸びているのは、技術の進歩によりそれまで無理だった場所から、安価に石油を取り出すことができるようになったためです。 このまま使い続ければいずれ化石燃料は無くなりますが、そこには以外と選択肢が多いのかもと感じさせてくれる一冊でした。 |
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冤罪事件を考える・・・
先日、 「あの時、バスは止まっていた」という、 KSB瀬戸内海放送の記者、山下洋平さん著書の本を読んだ。 高知で起こった白バイとバスの衝突死事故に ついて書かれた冤罪ではないかという考察本だ。 被告側はバスは右折しようと中央分離帯前で 停止していたと主張、検察側は無理な横断をしようと 動いていたと主張した裁判である。 バスは止まっていたと目撃した人には、 バスに乗っていた多数の児童や、バスの後についていた 校長先生などの目撃談は軽視されていた。 現場検証も通常では考えられない30人規模の捜査員、 本部長クラスの人間もいたそうだ。 この状況は異例のことと専門家は見ている。 それに、山下さんの取材では近隣の住人は普段 この道路では白バイが高速走行の練習をしているとの 情報もあるようだ。 もし、白バイ隊員の一般公道での高速走行を 隠すための行動なら、許されることではない。 ましてや、ブレーキ痕のねつ造なんかが 実際に行われているとしたら、ゾッとする。 最高裁まで争われて、結局有罪になったが 納得できないところは多分にある。 最近でも足利事件をはじめとする冤罪事件が後を絶たないが、 捜査技術の問題なのか、犯人特定のためには多少の強引さも 必要だったのか、とにかく、事件に巻き込まれないよう 普段から注意が必要と感じさせる書籍だった。 |
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夏がくれば甲子園、ということで
日本の夏の風物詩といえばいろいろとあるけれど、やはり甲子園の高校野球は外せない。ちょうど先週土曜日に決勝戦が終わったばかり。沖縄県代表の興南高校が見事に春夏連覇を成し遂げて大会を締めくくった。僕は別に高校野球のファンでは無いが、やはり高校球児がひたむきに戦っている姿には心打たれるものがあるね〜。(オッサン臭っ)地元の学校の試合は何だかんだいって気にはなるし。
今回、我らが地元からは倉敷商業高校(以下倉商)が出場。実は倉商は昨年の夏の甲子園にも出場、そのときは1回戦で敗れてしまった。実は長男の同級生の友人が倉商に通っている。昨年の敗退時にその友人が「来年の倉商は強いよ〜、特にピッチャーがスゴイ。」と言っていたのを長男から聞いていた。それは期待できそうじゃん、と思っていたら今年見事県大会を勝ち抜いて2年連続で甲子園出場を決めた。ところが1回戦のくじ運がちょいと悪い。何と相手はあの早稲田実業。2006年にハンカチ王子こと斎藤佑樹投手を擁して日本一に輝いたのは記憶に新しいし、伝統のある甲子園の常連校。高校野球に興味の無い人でもその学校名には聞き覚えがあるはずだ。 しかし高校野球のこと、何が起こるか分らない、と期待するも残念ながら2-0で敗れてしまった。しかし、2回戦で中京大中京高校から21点を奪った早稲田実業の強力打線をわずか4安打、2失点に抑えたのは大したものだ。僕自身、試合は観れていないのだが、奪われた2点も守備のエラー絡みだったらしい。そう考えると長男の友人の言葉通り、ピッチャーはなかなかの実力者だったのだろう。くじ運に恵まれていれば、もう少し勝ち進んでいたかも知れない。 しかし全国4000を超えるチームの中で、甲子園の晴舞台に立てるだけでも立派なことだ。僕は毎日電車通勤で山陽本線を利用しているけれど、その線路沿いに倉敷工業高校の練習グラウンドがある。倉敷工業は近いところでは昨年の春の選抜で甲子園に出場、地元でも名前の通った実力校だ。でもってそのグラウンド、電車の窓からすぐ見えるのだが日曜であろうと祝日であろうと、無人の状態というのをまず見かけることが無い。練習中か、朝早くであれば補欠と思われる選手が地面を馴らしていたり、とにかく誰かがいる。 また、僕の住んでいる玉島には玉島商業高校という学校がある。1974年の夏の大会以来、随分と長いこと甲子園には行けていないが、県予選では毎年そこそこ上位に食い込んでいる。昨年の夏、お盆休みの真っ最中、たまたま学校の前をクルマで通り過ぎたのだが、野球部が普通に練習していたのには驚かされた。県予選大会が終了し、季節的には一区切りつくシーズンオフのはずだし、世間はお盆休みなのだ。高校生にはお盆休みなど関係ないように思うが、親戚が集まったり、家族揃って帰省や旅行など、それなりに予定もあったりするだろう。練習が休みになるのはお正月だけ、なんていうのを聞いたこともある。甲子園を狙うような学校はまあ、ハンパじゃないね〜と改めて思わされた次第。 しかしそうやって高校生活のすべてを練習に打ち込んでも、甲子園に行ける学校はごくわずか。中には高校3年間、一度も試合に出られない、それどころかベンチにすら入れない、という選手だって多いだろう。前述の倉敷工業グラウンドの話し。電車に乗っていると、休日など遊びに繰り出す高校生のグループと出くわすことがある。映画でも観に行くのか、男の子も女の子もめいっぱいオシャレをして楽しそうにはしゃいでいる。その窓の向こうのグラウンドでは、汗と泥にまみれて真っ黒に日焼した坊主頭の選手たち。もちろん価値観は人それぞれ。どちらが幸福かどうか、などと野暮なことは言えない。 実は30数年前、高校2年生とき、僕の通っていた学校が夏の甲子園に出場した。もちろん後にも先にも(まあ、未来のことは分らないけどね)このときの1回きり。事前に前評判が高かったワケではないし、甲子園に行ける実力があったかどうかは分らない。しかし高校野球、実力通りにコトは運ばない。とにもかくにも県大会を勝ち抜き、甲子園行きが決まったのだ。それからがスゴかった。父兄、関係者を含めて学校中が大騒ぎ。何度か甲子園を経験していればノウハウもあるのだろうが、何せ初めてのこと。僕たち生徒は直接は知らないけれど、準備、資金集め、段取り、と大変だったに違いない。とにかく応援団すら正式には存在していなかったのだ。運動部が毎年そこそこに活躍している学校であれば応援団も自然に整備され、応援の仕方も上手になるのだろうけれど。そこで急遽、他の運動部のメンバーが狩り出され、にわか仕込みの応援団になった。夏の真っ盛りに詰め襟の学生服を着せられ「まったく、カンベンして欲しいよな〜。」とボヤく友人の姿を今も思い出す。でもまだ救われるのは、岡山県にとって甲子園のある兵庫県はお隣の県だということだ。これが東日本、東北地方となるとホント、大変だと思う。頑張った野球部には申し訳ないが、関係者とすればいい迷惑、というところが本音じゃ無いだろうか。 そんなこんなで迎えた甲子園大会。運が良いことに第1試合だった。いくら応援の練習を繰り返しても、実際の甲子園のスタンドに行ってみないと人の配置など予定通りにいくかどうか分らない。第1試合であれば早めに会場入りして細かな配置とかを調整できる。それはラッキーだったのだが、1回戦の相手が悪かった。当時強豪校として名前が通っていた沖縄県代表の豊見城(とみしろ)高校。後にドラフトでプロ野球の道に進み、現在も中日ドラゴンズでコーチを務めている4番打者の石嶺選手が人気を集め、前評判も高かった。案の定、健闘虚しく9-2で敗退。しかし、僕にとっても初めて体験する甲子園という独特の空間、いろいろと思い出深い体験が多かった。 最終回の9回裏、2アウトからヒットが出た。しかし普通ランナーが一人出塁したぐらいで、9回裏で7点差があればまず勝敗は決まった、と思うだろう。観客席にいれば帰り支度を始めたり、飲食物を買いに席を離れたり、テレビ観戦ならまずチャンネルを変えるところだ。しかし、応援席で全員で肩を組んでワッセ、ワッセとやってると、不思議なことに「絶対勝てる、いける。」と本気で思ってしまうのだ。「どーせダメじゃん、7点も差があるのに。」などとは口が裂けても言えない状況なのは確かだ。しかし、そんなひねくれた意味ではなく、心の底から「勝てる、逆転できる。」と信じ込んでいた気がする。それが群集心理というものなのか、と後になって考えた。よくデモや暴動で、拳銃で威嚇する警官隊にひるむことなく立ち向かう群衆の姿をニュース映像などで見ることがあるが、それと同じ心理状態に違い無い。もちろん、まだうら若き高校生の頃、回りの熱気や「信じれば叶う。」といった青臭い思いに突き動かされる純粋さがあったんだろうし。しかし7点差でもこう思うのだから、1点差で迎える最終回など、どんだけ舞い上がるか、考えるだけでも恐ろしい。よくテレビで泣きながら声援を送る応援席が映されたりするが、気持ちはよく分る。あまりのテンションの高さが精神状態のキャパをはるかに超えてしまうのだ。あのとき味わった異常な盛り上がり、冷静な判断ができなくなるような興奮状態は今も忘れられない。そしてそんな中でも落ち着いたプレーを続ける高校球児たちの精神力の強さにはホントに敬服させられる。 そのときのチームに小西という同級生が一人いた。彼は2年生ながらレギュラーとしてサードを守っていたのだ。試合に負けた後、選手達はよく甲子園の砂を思い出として持って帰る。小西もそうしようとしたが、先輩から「お前ら2年生は来年また来るんだから砂は持って帰るな。」と言われたらしい。試合に負けた悔しさを後輩たちに託そうとする先輩の前で「そんなこと言われても来年出られる保障なんか無い。」とも言えず、泣く泣く砂はあきらめたらしい。その次の年は予定通り(?)地区予選で敗退してしまったから、小西にとって甲子園の砂は文字通り幻となってしまった。 僕は小西とは特に親しくなかったので、卒業後の彼の進路は知らなかったのだが、数年後、小西が阪急に入った、という噂が卒業生の間で流れた。阪急といえば阪急ブレーブス。現在のオリックスバッファローズの前々身だ。パシフィックリーグの強豪チームである。小西はもちろんドラフト会議などには縁が無かったから、テスト生として入団したのかも知れない。テスト生からスタープレーヤーに登り詰めた選手も多い。あのノムさんこと野村克也さんも元々はテスト生出身なのだ。これはスゴイ、快挙じゃん、卒業生からプロ野球のスターが生まれるかも知れない。そして話しによると、ユニフォーム姿の小西の写真が学校に届き、職員室の目立つところに貼ってあるという。その頃に僕はたまたま就職に関する書類をもらいに久しぶりに学校に行く用事があった。これは幸いとばかりに学校に着くと、早速小西の写真のことを当時の担任の先生に聞いてみた。「お〜、貼ってあるぞ、見て行けよ」そして僕は小西の写真と対面した。 そこに確かに小西が写っていた。しかし写真の背景はグラウンドでもスタジアムでも無かった。どう見ても電車のホームだ。服装も確かにユニフォームには違いないが、野球のユフォームでは無い。紺色のブレザーに白い帽子、そして白い手袋、写真の下には小西の直筆でこう書いてあった。 「僕は今、阪急に入って、毎日改札口で切符を切っています。」 つまり、阪急は阪急でもブレーブスでは無く、その親会社である阪急電鉄に入社したということなのだ。いやいや、阪急に入った、は確かにウソではないな。駅のホームで右手を帽子に当てて敬礼のポーズを取る小西の凛々しい姿は30数年たった今でも覚えている。その後、小西がどうしているかは知らないが、今でも高校野球をテレビで観るたび、あの写真を思い出す。多分小西もどこかの空の下で、毎年甲子園を楽しみにしているのかも知れない。初めて出場した甲子園のこと、持って帰れなかった砂のこと、そんな青春時代の思い出があるっていうのは素晴らしいことだ。 力のある選手の獲得にお金が動いていたりとか、選手の負担を考えない無理な日程の組み方とか、いろいろと問題も多い高校野球だけれど、毎年一人でも多くの野球小僧たちに素敵な思い出ができることを願わずにはいられない。 |
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ベスト・キッド!
先日、たまには映画でもと思い、なんばパークスへ。 見たかったのは、昔「ダニエルさん」で有名だったベスト・キッド。 (このシリーズ、全て見てきたのもあったので!) 20数年前にあったリメイク版で、舞台がアメリカから中国へ。 空手からカンフーへ。 あの有名な練習場面は、前作では「ワックスをかける、ワックスを とる」といった修行法でしたが、リメイク版では「ジャケットを かける、ジャケットをおろす、ジャケットを着る、ジャケットを脱ぐ」 といった感じになっていました。 少年ばかりに気を取られていたので、ポスターをジックリ見るまで 全く気付かなかったが「ジャッキー・チェン」が師匠役に。 そういえば何処かで見たことのある顔でした。 ストーリーは母親の仕事の都合でアメリカから北京に移住してきた 少年がいじめられているところを、カンフーの達人(マンションの 管理人)が助け、成り行きから武術大会に出場することとなり、 少年が師匠からカンフーを学びながら逞しく成長していくという内容。 ※見たい人のために、詳しくは語りません。 また紫禁城、武当山、万里の長城など中国の世界遺産も多数登場。 やはりジャッキーが出演していることで、初めは所々にコメディの 要素が多く笑っていたが、だんだんとシリアスになり最後には感動 させられてしまいました。 (最後は予想外の結末が・・・) 裏話で、オリジナル作品のアクション描写には不満を持っていたという ジャッキー。 アクション監督も兼任した今作では、劇中の役どころ同様、主演の少年を 厳しく鍛え上げたそうだ。 「オリジナル作品では、それほど空手がアメリカでは知られていなかっ たし、ドラマ重視だったからアクションは二の次だったけど今回は違う。 僕の映画のファンは世界中にいるからアクションを疎かにはできない。」 とのことでした。 いやぁ〜っ!映画ってたまにはいいもんですね! |
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同じ名前で出ています???
この最近余りにストレスはあるし、たたわしくもあり3度ブログ坦当をチョンボした。今回は気合いを入れ直して再開だ。テーマは「同じ名前で出ています」あれっどこかで聞いたような・・・それは「昔の名前で出ています」だ。と軽くお小父ギャグをかまして始まるこのダサさ。やはりブランクは大きい? 私の名前は「大西 洋三(おおにし ようぞう)」と言うが、いい名前かどうかは別にして、ありがたく両親から授かった名前だけに、なんとか期待に応えようにも既に55年間近。全く期待には応えていない。むしろ大学を出てからは勝手次第、相当負担を掛けたので応える⇒堪える(=親からしたら)これが正解だろう!! とにかく名前が大きい。大西姓は香川県で最大姓、全国でも150何番目と言うランクのはずだ。・・・珍しくはない。名前が洋三で、ちょっと語感が悪い気がする。同じ濁音でも幸三や才蔵なら含蓄があるが、確かにベタ感は強い。本人もそう思うくらいだから堂にいっているか? しかし問題は私の体格で、小さい時からチビで小学校・中学校・高校とほとんど前一番か二番目。そういうコンプレックスから名前負けは否めない。それが幸いか災いか、今はそれを越してなんとなくやんちゃで自己主張も強い。行き方上、嫌なことは頑として応じない、でもデザイン上は柔軟でデザイン商人かもしれない。しかし一時期は相当やばいくらい突っ張っていて剛直でもあった。江戸物や戦国期が好きと言う志向は、まさに世が世なら下級武士の類かと思う。・・・一方、良く言われてきたのが「名は体を表す」だが、この事例としては私は大きくはずれである。 さてもこうした前振りは何も私の反省記ではない。“同じ名前・・・”を皆さんは意識されたことはないだろうか?私もついこの間、とうとうグーグルとウィキペディアで調べた。 出てきた出てきた・・・初めて調べた時点では、なんとおめでたいこと一番目に。次は医学系のソフト企業の社長、さらに遺伝子研究のエンジニア、三番目は脚本家、さらにさらに作家、最後は高知の漁師。えぇ・・・感想は5人もいるのか?だった。この55年間(=性格にはまだ十数日は54歳)で、結構いろいろ広く交流(=広い方だと思う)したが、同じ名前には出会ったためしがなかった。姓が違って“洋三”は、香川県で2人は経験済み。お互い珍しいよねとか言いつつ、なんとか交歓ができたが・・・全く同じとは。感動である。 しかも他の人は立派そうで良かった良かった。三面記事ものなら困ったものだが。それでついつい思い付く人をすこし当たってみた。愚息でも一番最初だった。やはり名前が変わっているからで、苦心惨澹に名づけた。産みの苦しみは家内の仕事で、名前でどれくらい苦しんだかは別ではあるが・・・家族で一番子育てに縁遠かった私が名前だけは専横権で出張って決め込んだ。結果=まだ大学院1回生で将来はどうだかわからないが、個性的なだけは自慢。でももう一人姓は違うがいた。舞踊の世界で後一人、名前が同じとは。でも希少価値か?珍種か?と。せいぜい気張ってくれよと、大西家を傾かせた張本人は、愚息に大いに期待しているので始末に悪いが。 久し振りで前振りが長い。なんでテーマが「同じ名前ででています」か??・・・これは今年の8月14日:土曜日に観音寺であった中学3年の時の同窓会に端を発する。担任の先生を囲んでの8人程度の小さな同窓会だったが、幹事役の元委員長がなかなかに出世している。幼稚園から中学まで同じ学校で同じクラスは3年の時。小さい時から良く勉強ができ、ほとんど1番だった気がする。しかもガリ勉的でもなく、順調に秀才らしいキャリアを重ね大手企業の幹部に。それから大手企業の中核をになうグループ会社社長に。時代の風を受けたみたいな業態の子会社なので、もっと偉そうにしてもよいのだけど、昔以上に気さくだ。ふるさとでしか見せられない顔かもしれないが・・・。で、彼の名前を調べると同姓同名は多いが、グーグルでもウィキペディアでも顔写真付きで一番に出てくる。 またこの同窓会で話題になった、大手企業のアメリカ子会社の社長になり、地方行政の幹部に転出した同級生も調べると、これも一番で、しかも写真入りで。追々どうなってるんだこの学年は?と嬉しいやら、でも他人様の努力や栄光なので、ほっておけばよいものを・・・つくづく同窓会とはいろいろ不思議なことが気になるものだと思った。しかしすごいなぁと感心しきりだった。 では大学はどうか?と調べると、アナウンサーの彼は出てきました!“いの一番”(=これってコマーシャルで有名:随分昔)てなことで。同じく脚本家は?残念、相当できた彼は名前が一般的過ぎた。なかなか出て来ない・・・探し疲れでお手上げ。漆芸家の彼は、おっ一番やないけ?!でも画商がWEBサイトに出してんねんやなぁと少し残念。でも名前が面倒な字画。子どものころはさぞかし名前を書くのに苦労したやろうなぁと同情。 ところで今、夜中の何時?・・・あかん、こんなことしている場合ではない。カンプが明朝までに急ぐのにと、急遽ここで打ち止め。これは調べれば切りがないし途方もない。 余程暇でなければできもしないし、それだって55年も生きてきて、同窓会で初めて思いいたった次第、間が抜けているわなぁと反省ばかり。 |
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天神祭り
7月最後の週末に天神祭というお祭りが大川のほとりで行われていました。規模の大きなお祭りで、ことしは開催される25日がたまたま週末と重なったために、いつもの年よりもさらに大変な人出だったようです。
自分も特に用がなかったですが、野次馬をしにひとの流れにまかせて浴衣姿の人間が密集する方へ向かいました。大川沿いにある天満橋駅の東側に、片道2車線の橋がかかっており、そこが歩行者道路として解放されていて、警察が交通誘導をしていました。 時刻は夕方にさしかかり夕日が川面を照らすなか、白い衣装を着た人たちがかけ声をかけながら木造の船をこいでいました。何かの神事のようですが何をしているのかはよく分かりませんでした。webに載っていた情報によると祭りの期間中は100隻ほどの船が出るそうです。立ち止まって見ることは禁止されていて、橋をゆっくりと通過し川沿いを歩く道を進んでいくと、人が多いせいか川下へ歩くように一方通行になっていました。本当に人出が多くきたことをだんだんと後悔しだしたころ、正面から白装束の集団が何かをかついで川へ向かっていきました。川岸に足場が組まれているようで、そこで何かが執り行われているようでしたが、最後までは見ずに出店を見て帰りました。 その日の晩には5000発の花火があがったらしいですが、その時間は下宿のごみ箱を買いにホームセンターいっており、まったく目にすることができませんでした。遅くに夕飯を食べに出たときには、帰りの人たちが駅の方から流れてきており、何となく祭りが終わったことが分かり少し後悔しました。歩き疲れて下宿に帰って思ったことは、何ごとも下調べが必要だということした。 |
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「七人の侍」考
大盛り上がりの内にサッカーワールドカップも終了しちゃったね〜。なんて今頃になっていつの話しをしてるのか?とツッコミが入りそうだがこれにはワケがある。随分前にこんな書き出しで書き始めたのだが、いろいろと諸事情があって頓挫してしまったのだ。でもって仕切り直しで再度書き始めたので、こんな季節外れの書き出しになってしまったわけ。
でも今回のお題目は実はワールドカップではない。というのも、ワールドカップ開催中にこんな記事を目にしたのがコトの発端。
映画雑誌の大手エンパイア誌が、ワールドカップ大会を記念して「英語以外の言語で製作された古今東西の映画」のランキングを発表したという。どこがどうワールドカップと関係あるのか、理解に苦しむところだけど、まあ英語圏に限らないワールドワイドな映画のランキング、というところかな。でもって堂々1位に選ばれたのが黒澤明監督の作品「七人の侍」だったわけだ。ということで今回は映画「七人の侍」をお題目にさせてもらいたい。 ここでこの映画を知らない人のためにちょこっと説明なんぞ…。公開は1954年。2年にも及ぶ製作期間、当時のお金で2億円もの予算が投じられ、上映時間は3時間27分のまさに大作。ストーリーは単純で、戦国の世、個性豊かな七人の浪人侍が、毎年麦の収穫時に野武士に襲われるある村を助けて戦うというもの。黒澤明監督の文句無く代表作だ。 エンパイア誌によると、「七人の侍」は英語作品を含めた中でも上位に来る作品、とのことだが、ハッキリ言ってこの映画、世界一の映画である。いきなり結論付けてしまって恐縮だけれど、今までの長い映画の歴史上、もちろんこれから先も、これ以上の作品は恐らく作れないと思う。この春にお亡くなりになった作家の井上ひさし氏はかつて「映画という表現形式は黒澤明監督が『七人の侍』を作るために生まれたものである」とおっしゃられている。少々大げさな気がしないでも無いけれど、この作品に魅せられた人なら誰でも納得できるコメントだ。今現在作られている映画とは、同じ映画というジャンルでありながら、完全に別物だ。決して良い悪いの問題では無い。例えば東大寺大仏殿も普通の住宅も、木造建築というジャンルでは同じだけれど、決して同じ土俵で比べられるものでは無い。でも、東大寺大仏殿も、住宅も、立派に役目を果たしていて、優劣は付けられない。つまり例えればそんな感じだ。 とはいっても僕は昔の映画はすべて良かった、とか、黒澤作品こそが芸術作品だァ〜、などと声高らかに宣言するつもりは無い。言うとすれば時代が違うのだ。映画こそが娯楽の王道で、徹底的なこだわりと手間をかけて作られていた時代と、様々な娯楽の中で映画もひとつのビジネスコンテンツとして大量消費される時代とでは明らかに状況が違い過ぎる。 例えば「七人の侍」の中にこんなシーンがある。岡本勝四郎という若い侍が村の娘、志乃と村の裏山の森の中で初めて出会うシーン。この二人がやがて恋に落ち、ストーリーの中で様々なエピソードと絡んでいくことになる。二人が見つめ合う後ろの斜面には一面に花が咲いている。しかしそんなところに最初から花は無い。実はスタッフがトラックに花を積んで運び込み、そこに1本1本植えていったのである。やっとこさ植え終わってさあ撮影、となると今度は思うような日差しが来ない。何しろ60年近く前の作品なのだ。とりあえず撮影して後はCG合成、ってなワケにはいかない。そうこうしていると花はしおれてしまい、スタッフは花を撤去。そしてまたまたトラックで新しい花を運び込んで植え始める。今度こそ撮影、しかしまだ思うような光が来ない。仕方なくまたまた撤去、運び込み、ということで、3回目にしてやっと黒澤監督のイメージ通りの日差しが来て撮影できたという。その間、スタッフはもちろん、役者もその場を離れるわけにはいかない。その頃、黒澤作品に出演できることは役者として光栄なことであると同時に、苦痛を伴うことだったらしい。何故なら長時間拘束され、他の作品との掛け持ちは絶対に許されない。役者としては喜んでばかりもいられない状況だったらしいのだ。 しかし、そのかいあって、このシーン、実に素晴らしい画面になっている。モノクロでありながら柔らかな光と影はどんなカラーを使っても表現しきれない幻想的なシーン、それは前後のストーリーの中で実に際立つ役目を果たしている。黒澤監督はほぼすべてのシーンに自ら描いた絵コンテを持って臨んだという。自らの中に確固たる画面が描けているからこそ、一切の妥協は許されないのだ。いくら時間と手間がかかろうと、である。だからこそ「七人の侍」は画面の持つ力強さがものすごい。ほぼすべてのシーンが名場面といっていい。 そして CGの無い時代、そこには気の遠くなるような作業とアイディアがあった。モノクロ画面で際立つよう水に墨を混ぜた雨、しかも地面に跳ねた時の勢いを出すために、水には粘りを持たせる材質を混入させていたという。僕は一時期、黒澤映画に関する様々な文献を読んだが、撮影の苦労、工夫の数々には何度も驚嘆させられた。 撮影や俳優さんだけではない。脚本の作り込みもまた凄まじい。七人の侍、その一人ひとりに大学ノート一冊分に及ぶ人物設定があったという。どこで生まれ、どのような人生を歩んで来て、といった設定である。具体的なストーリーとは別にそこまで人物像が練り込まれているのだ。もちろん、それがあったからといって普通に映画を観る分には何の関係もないように思える。しかし、何度も観ていると、人物設定の深さが、ちょっとしたセリフ、表情、仕草に至るまできちんとリンクされていることに気付かされる。観ている人は大学ノートの内容までは分らない。しかし何度も観ているうちに、観ている人の中にも人物設定が鮮やかに浮かび上がってくるのだ。そして人物に対する思い入れが観るたびに深くなる。 インスタントの味噌汁も、しっかりとダシをとって作られた味噌汁も、一度飲んだだけでは違いは分らないかも知れない。しかし、何度も飲んでいるうちに、ダシの深さはじわじわと人を魅了していく。その余韻は味わうたびに深くなる。それは一生かかっても飽きがくることはない。しっかりとダシをとって、たっぷりと煮詰められた脚本が醸し出す味わいの深さはまさに一生モンだ。 「七人の侍」が世界の映画界に与えた影響も見逃せない。スティーブン・スピルバーグは今でも映画作りに迷ったらこの作品を改めて見直すらしいし、「スターウォーズ」のキャラクター、ヨーダが困った時に自らの頭を撫でる仕草は「七人の侍」の登場人物、志村喬さん演ずる島田勘兵衛がやはり困った時に頭を撫でる仕草のオマージュだと、ジョージ・ルーカスは語っている。もともと「スターウォーズ」シリーズは黒澤映画の活劇をSFで表現したらどうなるか、が基本テーマだったらしく、ロボット「C3-PO」と「R2D2」のコンビは同じく黒澤作品「隠し砦の三悪人」の太兵と又吉をモチーフにしているのは有名な話しだ。またアメリカでは「荒野の七人」というリメイク作品が作られている。スピルバーグや「スターウォーズ」に夢中になっている人たちには、そこに大きな影響を与えた日本映画が今から60年近くも前に存在していたことをぜひ知ってもらいたいと思う。 「七人の侍」から7年後の1965年、黒澤監督最後のモノクロ作品「赤ひげ」が公開された。江戸時代のこと、エリート医師を目指して医学を学んで来た若者、保本が配属されたのは貧困と偏見が渦巻く小石川療養所。落胆のあまり自暴自棄になる保本だが、貧しくとも気高く清廉に生きる人たち、そして頑固で風変わりながらも豊かな人間味にあふれる「赤ひげ」の異名を持つ新出医師に影響されて真の医学の道に目覚めていく、というストーリーだ。この映画の撮影時のエピソードにこんな話しがある。あるシーンで、黒澤監督が「人物の頭上高くから俯瞰で撮影したい」。早速数人の大道具係が半日がかりでカメラが据えられる櫓を作った。それに登った黒澤監督、櫓から下を眺めてひと言「やっぱり違うな」。そのひと言で櫓は解体されることになった。取材記者が解体に取り組む大道具係に「半日かけて作ったものがわずかひと言で解体、撤去なんて、正直、腹が立ちませんか?」すると大道具係の人、「いや、全然。だって監督は他にもっとすごい撮影方法を考えるはずですから。」そう言うと実に誇らしく、嬉々として解体作業を続けたという。 ジャパンクールだとか何だとか、日本製品のことをシャレた言葉で表現してるけれど、その根っこはこんなに熱い信頼関係で結ばれた人たちの情熱だ。それはいつの時代も変わらない。「赤ひげ」の製作時、映画界はちょうど落ち込みの激しかった時期らしい。家庭へのテレビの普及が原因だ。しかし撮影にあたって黒澤監督は「今、映画界は非常に厳しい時期ですが、それを超えるのは我々映画人の誠意しかありません。誠意を持って作品に取り組みたいと思っています。」と言ったという。まさにモノ作りの基本中の基本、ここにあり、だ。もったいない文化同様、世界に誇れる日本文化、興味がある人はぜひ触れてみてもらいたい。 ちなみに黒澤作品のおすすめはまず「七人の侍」は必見。次は「生きる」。長いのはちょいと苦手、という人は「椿三十郎」あたりが手軽でいい。そこにハマれば「用心棒」「天国と地獄」「赤ひげ」あたりへ進む、といったところかな。晩年のカラーになってからの作品は、どれもあまりおすすめできないのがちょいと残念。 |