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有力武将の系譜を持ちながら、何となく残念な城・・・雄姿を再び?!

大和郡山市を奈良県の中核都市に位置付けるのは、一にも二にも郡山城の存在感、歴史的背景抜きには語れないだろう。しかし一般の方は「日本一の金魚の町」という認識かもしれないが。戦国末期から織豊時代〜江戸時代初期には堂々たる城郭規模と重要拠点として着目されたところだ。

 

もう4度目くらいになる大和郡山城への訪問。これほどの城が案外と認知度が低く、再現性も乏しく訪れるたびに残念だと思う。ただ市や県による石垣復元事業は常に行われていて、決しておろそかになっているのではないのだが。以下、駆け足で画像点数も少ないが、少し歴史を紐解いてみたい。

 

❶筒井順慶・・・京都を目指す勢力にとって大和郡山は重要な交通の要衝、軍事的な利点を持ち、あまたの武将がここを通り抜けていた。戦国末期に松永久秀と覇権争いを起こすが、敗れたものの織田信長よりこの地を預かる。そののち明智光秀軍の与力となったが、山崎の合戦では秀吉軍との趨勢を傍観したことで「洞ヶ峠=日和見主義」という例え言葉を生んだ。その後、病没。ただ元が興福寺の僧侶から還俗した武将だけ、風流に富む文化人でもあった。

 

❷豊臣秀長・・・秀吉の弟。秀吉一族では出色の能吏&武将で、彼がもっと長生きしていれば秀次の事件、朝鮮出兵など後に秀吉の価値を貶める暴挙は起きず、豊臣政権の継続ができたのではと思われる。

秀吉との二人三脚で天下取りを達成しながら病没。筒井順慶の後を引き継ぎ、補佐役として100万石を領有した。この時の城づくりが現在の基盤となっている。秀吉が“関白”で秀長は“大納言”。公家では関白に次ぐ官位が大納言で、いかに秀吉の信頼も厚く、多くの武家にも支持された希有な人だった。

 

❸柳沢吉里・・・甲府15万石から転封、実質の藩祖。秀長没後は、水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平と目まぐるしく領主が後退したが、どの武将も歴史上に良く知られた名前だ。徳川譜代の城主によって完成を見たと言える。吉里というとピンとこない人も多いが、第五代将軍:綱吉時代の老中:柳沢吉保の長男である。江戸時代、トップ官僚:老中職に就いた者は、将軍没後は権力の座から引きづり降ろされ悲哀を囲うが、柳沢家は無事に明治まで続く。

※優れた文化人であり、善政を敷いたことで評価が高い。特に吉保・吉里親子は、甲府藩主として善政を敷いたことで、大和郡山への転封時には年貢の完納と見送りの列が続いたと伝わる。

★金魚の生産・日本一のとっかかりも、吉保が奨励したことに始まるとか。

 

 

■せっかくの城訪問でありながら全く縄張りや遺構に触れていないが・・・これだけの歴史的背景がありながら、城跡の整備が今一つ。苦言を呈して恐縮至極だが・・・今の大手門櫓や多門櫓のようにどんどん復元〜整備していただければ、残念とは思わないのだが。合掌

  • 2020.02.08 Saturday
  • 10:41
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