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新春の城巡り:第一弾:山陰の名城を行く「米子城」

■「米子城」・・・2つの天守を持った珍しい名城の跡を辿る!

山陰でも大きな都市:米子はご存知の方も多い。しかし米子城を訪ねる人は少ないかもしれない。昨今の城ブームで若干増えてはいるだろうが、そのブームとは無
縁で来た私には、どうしても見ておきたかった。東に戦エピソードに事欠かない「鳥取城」、西には国宝の名城「松江城」、また近郊に戦国期の一大名城「月山富田
城」が存在し、派手な戦エピソードが知られていない米子城は存外に損をしている。

 


 

 

❶「結論、石垣の魅力にあふれた、続・百名城では惜しい名城だ!!」

米子城の本丸(=天守址)から周囲を見回すと山なみと海が臨め、平地の広がりから古来より豊かな土地柄で、戦略的にも重要な交通路であったことがわかる。応
仁の乱以降は全国いたるところで、群雄割拠、下克上が始まる。当然、米子も山名氏系と細川氏系の争乱の地の1つであっただろう。戦国期は月山富田城を本拠とした尼
子一族の勢力下だったろうが、毛利氏の台頭で有力親族の吉川広家によって本格的な拠点化が図られた。

⇒ この時に4重天守が築かれたとされ、後々も4重櫓として残されることで、米子城の特異性がうまれる。まだ安土桃山時代は即戦の色濃く大きな規模でなかった。

 




❷領主代わりに遭遇しつつ、城としての完成度を高める。さすが山陰一の名城。

慶長6年に伯耆18万石の大名として、中村一忠が入封となり現在の縄張りに近い規模へ。以後、加藤家が伊予大洲へ転封となるまでは6万石城下に。こうした城
主の入れ替わりごとに城の完成度が高まる。中村氏の改易後は加藤貞泰が入封し18万石から6万石の規模に。改易後は減石がとなるが、当時大名候補は多く領地の石高
云々よりも領地任官が夢だったかもしれない。

⇒ この中村氏の時に5階建天守が築かれた。しかも既存の天守を残し小天守代わりとして。見事な高石垣の上に二つの新旧天守がそろう姿は、山陰一の名城にふさわしい威容だっただろう。

 

 


❸これからが惜しまれる定めに。鳥取藩の支城へと格落ちも城としての評価は残り続ける。

秀吉全盛期は豊臣側だった池田家(=恒興)も、長男・輝政は徳川幕府側(=家康の娘:督姫を正室に)になり、大出世となる。子輝政は姫路32万石、その子らは忠
継:備前28万石、光政:因幡伯耆32万石となっていく。その流れで、伯耆は独立藩としてではなく鳥取藩統治下として、城代が置かれて支城となる。寛永9年から
は家老の荒尾氏が代々明治時代まで管轄した。徳川幕府時代、一国一城令の元、大半の藩が領地に支城をもてなかったが、鳥取藩は池田家だったため認められていた。

⇒ 二つの天守を持つ美しく規模もある米子城は、何度か鳥取藩の本城として検討されたといわれる。


 


➍最後で恐縮だが、とにかく石垣が素晴らしい。各所に工夫とスケール感が漂い満足満足!

特に本丸に近づくにつれ、近世城郭としての戦略性や、シンボルとしての美しさなど、まさに名城と呼ぶにふさわしいレベルである。経路もわかりやすく、折々の解説
板もあり=ただ説明板の損傷や日焼けはなんとかしてほしい・・・見ごたえ、歩きごたえ十分である。

⇒ 城跡には割と数多く行っている方だが、天守址からの見晴らしの良さは全国上位に位置すると思う。海、山、平野が手に取るようにうかがえ、朝日や夕日の名勝か
もしれない。ぜひ一般的な知名度ではなく、訪問に値する城として米子城は一押し!・・・である。

 


 

  • 2020.02.08 Saturday
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