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「地元愛」がつたわる吉良の殿さまと領民の想い。

●西尾は元々”吉良ノ荘”と呼ばれていた。そう、あの吉良家の拠点である!

 

歴史の残酷さは勝者、または判官びいきによって物語られることだ。歴史に興味がない方でも江戸時代の「忠臣蔵」を知らない人はないと思われる。艱難辛苦の末、周到なまでの計画で主君:浅野内匠頭の無念を晴らした、赤穂浪人たちの仇討事件である。

仇討されたのは、元幕府の要職:”高家”を任じられていた吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)だった。その事件の概要はここでは省く・・・時の将軍:綱吉の裁断があまりに一方的という事で、赤穂藩士らが浪人となって後、幕府に対する反省を迫ったこととなるのである。庶民はじめ多くの武家でも、その行動を”快挙”として讃えたがため、吉良家はすっかり敵役となり、そのいわれが今日まで吉良の殿さまの悪評となってきた。

現地に来るといかにその後の領民が、その評価に悔しい思いをしているかが垣間見れるところがあちこちに。上野介が仇討で死去し、嫡男:佐兵衛義周は、守り切れずに自らも負傷したことで、武士道に適わずと流罪に。その死去をもって、一旦、吉良家は断絶となる。

 

 

●約10年後には遠縁の吉良家から義俊を迎えて再興となり幕末まで続く。

 

西尾市が旧吉良ノ荘と呼ばれただけに、今も吉良の地名は残る。特に菩提寺である華蔵寺境内の吉良家の墓や、周辺の道路などは”吉良ストリート”として美観・再整備されている。また寺の門前の駐車場にも上野介殿様の善政や遺徳をたたえる銅像や石碑が・・・境内にもいたわしさを嘆いて慰めた歌碑、看板の説明も入念である。「赤馬の吉良様」として赤毛の馬に乗り領地を視察する姿も、シンボリックな彫刻として、吉良ストリート内の小公園に設置されている。

確かに菩提寺もつつましい穏やかさであり、再興された吉良家も世間をおもんばかってか?華美さはどこにもない。世間とは難しいものである。

 

 

●「忠臣蔵」は双方に痛み分け、その後のことは話題にならない。

 

世間=現代までの「忠臣蔵」ファンでも、存外と浪士の遺族たちのその後に関心がある人は少ない。当時は仇討(=子が親のために討ち果たすこと)ではなく襲撃事件であったこと。幕府も偏った裁断を反省しつつも、かなり遺族には厳しい沙汰を出した。

15歳以上の遺児は伊豆大島への遠島、以下の遺児は15歳を待って遠島。恩赦が出るのに20年近い歳月を要した。その間死去したものや、許されても恵まれた仕官が叶うなど難しい問題は残った。

 

 

●刃傷沙汰の原因は今も不明、諸説は多い。

 

浅野内匠頭のこらえ性の無さや吝嗇な姿勢が、賄賂が当たり前の時代に上野介翁への欝憤となった?・・・上野介翁の病気による偶発的な感情の行き違い?・・・書画鑑定や茶器、衆道説などさまざまである。1つ面白いのは、吉良家も塩田を持ちながら、赤穂ほどの良質な塩田でなかったので、その技術指導を望んだが断られた?であろうか。

※添付の写真は、その塩田の様子を示したものである。

 

歴史は勝者の記録でもあるが、本当に見極めようとするなら現地を見ることでもあろうか?しかし現地は判官びいきかもしれないし

不明点は多い。だから面白い・・・偏った一般論だけで判断してはならないことだけは言えよう。

★池宮彰一郎氏の「四十七人の刺客」が映画化された「最後の忠臣蔵」杉田成道監督・・・は、そういう面で視聴に値する著書で映画であろう。

※余談ながら女優の桜庭ななみがとても可憐だったことを思い起こす。今も三菱地所のCMで、いかんなく魅力を発揮しているが。

 

  • 2017.09.30 Saturday
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