• 2020.02.08 Saturday
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1984年「ぴあ」で過ごしたときのこと
 ここのところ、東日本大震災がらみのお題目が続いたこともあり、今回は少し趣向を変えてみたい。

この4月、情報誌「ぴあ」の休刊が決定した。昨年に関西版、中部版が相次いで休刊されたのに続き、今回休刊されたのは首都圏版、これにより出版物としての「ぴあ」はすべて消滅することになる。

「ぴあ」といっても地方に、しかも西日本に住む人にとってはあまり馴染みが無いかも知れない。要するに首都圏全域をカバーするタウン情報誌なのだが、地方都市によくあるそれとは目的も役割もかなり違う。コンサート、演劇、映画、といったイベントの情報が中心なのは同じだが、首都圏でのその数は地方の比ではない。インターネットの無い時代、利用する側がそのすべてを知るのも、また主催する側が告知するにも「ぴあ」が唯一にして最大のメディアだったのだ。その影響力たるや、首都圏でイベントを楽しむためにはまず「ぴあ」片手で無ければ一歩も始まらないと言っても過言では無かったくらいなのだ。

実は僕は23才の頃「ぴあ」で1年間、編集の仕事をしていた。アルバイトという立場ではあったが、今でも思い入れは深い。そこにはいろんな理由があるのだが、今回はそれをお題目にしたい。


「ぴあ」の編集の実務作業はほとんどが僕たちのようなアルバイトが担当していた。僕が所属していたのはコンサート班と呼ばれる、コンサート情報を扱うグループ。誌面にしておよそ20ページくらいを5〜6人で担当していた。

「ぴあ」は隔週の発行だから、作業は2週間サイクルで同じ流れを繰り返すことになる。1週目のスタートはまず編集部に郵送されてきた膨大な量の封書の整理から始まる。メールなんてものは無い時代、掲載依頼はすべて封書で届く。内容はアマチュア、インディーズバンドのコンサート。ロック、ポップス系だけでなく、クラシックや童謡・唱歌、琴の演奏会まで、コンサートの名の付くものは全て。送られてきた情報はすべて掲載するのが「ぴあ」の基本姿勢だったが、掲載にはひとつ条件があった。それは送り主と必ず電話連絡がついて、開催日、料金などの情報を口頭で確認できること。それはガセネタや、送り主の記載間違いを防ぐためだ。だから膨大な量の情報を片っ端からとにかく電話連絡していく。

今のように携帯電話など無いし、一人暮らしの学生などはなかなか連絡が付かない。しかしせっかく送ってくれたコンサート情報、町の公民館とかで開かれる小さなアマチュアコンサートでも主催する人にとっては一世一代の晴れ舞台。何とか時間の許す限り、電話連絡にトライする。


そうして連絡が付いた情報から原稿用紙に記入をしていくのだが、DTPはもちろん、ワープロ入力による電算写植などもありはしない。手にマメができそうな勢いでとにかく原稿用紙のマス目を埋めていく。そして書き込んだ原稿には赤鉛筆で校正記号を入れなければならない。・(中黒)は四角で囲む、句読点はチェックマークを入れる、太字になる部分はサイドラインを入れる、といった要領だ。それを元に写植オペレーターの人が作業する訳だから、汚い字や省略した字、紛らわしい句読点表示などは許されない。作業がひとりで完結する現代のデジタル工程と違い、アナログな工程には次の工程の人のことを考えた丁寧な仕事ぶりが求められる。

この段階で最も怖いのは原稿作成の時点での書き写し間違いだ。日付、料金など、送られて来た元情報から間違えて書き写してしまえばそれは致命的なミスになる。だから「ぴあ」では元情報と作成原稿に関しては人を変えて少なくとも3回はチェックをかける。原稿を目で追うだけではどうしても見落としが出るから、最後のチェックは2人1組になっての読み合わせをする。


そしてすべての原稿が揃うと、全体のページ数に収まるように、つまり行数の調整を行う。DTPなら行数の調整はモニター上でどうにでも出来るけれど、ひたすら原稿用紙の行数を合計しながらの調整はかなりツラい。原稿用紙のマス目は誌面の1行の文字数に合わせてあるから、その行数を原稿を削ったり増やしたり、頭の痛い作業を繰り返す。それでも何とか帳尻を合わせて写植屋さんに原稿一式を渡せば第1週のお仕事は目出たく完了となる。


第2週は写植屋さんから上がって来る版下の校正作業がメイン。文字の間違いはもちろん、急遽発生する情報の変更などにも対応しながら、カッターナイフとペーパーセメントを手に写植文字の切り貼りまでを自分たちで行った。悪戦苦闘を繰り返しながら何とか版下を校了させ、印刷所に入稿して第2週の作業が終了。後は本が出来上がるのを待つだけになる。

ほぼこの流れで毎号の作業が進む。今日のDTP環境であれば、恐らく作業の手間は半分以下で済むに違いない。しかし、アナログの時代ならではの苦労は今思えば懐かしい。編集部全体に漂うマスコミ業界っぽい賑やかさもあったと思うが、それだけでは無い。


アルバイトの面々は、ほぼ20代前半、東京の人もいたが大半は僕のような地方出身者だった。学生もいればアルバイトで食いつなぐフリーターもいる。(僕の場合は後者)学生はともかく、フリーターという連中は何かしらの夢を持っている。特に地方出身者はそうだ。ミュージシャンになりたい、役者になりたい、華やかなマスコミ業界で活躍したい、あるいは何でもいいから有名になりたい、誰もがそれぞれに夢を描いて東京にやってきていた。特に働く場として「ぴあ」を選んだ連中はその傾向が強い。そんな仲間とワイワイ騒ぎながらの編集作業は何か高校生の文化祭の準備のような無邪気な楽しさがあった。

第1週目の週末、ページの行数を合わせて版下屋さんへ渡す原稿を用意するまでの作業は結構ハードで、全てが揃う頃には深夜1〜2時を過ぎることも多かった。既に終電車は無くなっているし、そこから上がり切ったテンションのまま、街に繰り出す。そして夢を語りながら朝までグダグダと飲み明かす。ある男はいかに日本の映画界が腐っているかを熱心に批判し、ある女の子は名前も聞いたことのない劇団の芝居がいかに素晴らしいかを一生懸命に語る。そしていずれは自分たちの力でムーブメントを起す、と本気で考えている。他人から見れば、しがないフリーターの世迷い言なのだが、本人たちは大真面目なのだ。


「ぴあ」で過ごした1年間、僕の回りにはそんな夢見るフリーターであふれていた。冷静に考えれば、若さと勢いにまかせて現実からかけ離れた夢や憧れの世界へ逃げ込むこんでいただけなのかも知れない。もちろん時は容赦なく過ぎて行く。いずれは夢も酔いも覚める時が来る。いつまでも若くは無いし、永遠にフリーターでいられる訳でもない。しかし、ひととき夢を見させてくれる、語らせてくれるのが東京という街の面白いところであり、また怖いところでもある。

僕自身にとっても、世間の厳しさを知らず(というか目を背けて)東京という街の熱気に浮かされてつかの間の夢に酔う、それがギリギリ許された年齢でもあった気がする。だからこそ「ぴあ」での1年間は僕にとってもどこか懐かしく、恥ずかしくも甘酸っぱい思い出なのだ。


僕たちコンサート班のすぐ隣にはライブハウス班のテーブルがあった。女性ばかりの6〜7人の班。ライブハウスの情報を取り扱うだけあって、音楽好き、しかもマニアックな音楽好きが集まっていた。その中に、島根県出身のある女性がいた。僕とほぼ同じ年齢、同じ中国地方出身とあって気になる存在ではあった。音楽関係のフリーライターを目指して高校卒業後上京してきた彼女は、田舎の両親からは「早く帰ってこい」といつも文句を言われる、とこぼしていた。実際何度か実家に戻り、また諦めきれず上京、を繰り返してきたらしい。その頃彼女は、とある無名バンドの大ファンだった。少女漫画風に描いたメンバーの似顔絵をテーブルの回りにいっぱい貼っていた。そのバンドの名前はBOOWY。2つ目のOに斜め線が入った変わった名前のそのバンドはまだ無名ではあったが、そろそろ一部の目ざとい音楽好きを中心に注目が集まっていた。

「有名になってもらいたいとは思うけど、人気が出るのも少し寂しいのよね〜」彼女はよくそう言っていた。無名の頃から応援しているバンドが、やがて自分の手の届かないところへ行ってしまう、そんな複雑な胸中だったのだろう。夢を追いかける彼女にとって、まだ無名だったBOOWYもまた同じく夢を追い求める同志のような存在だったに違いない。

そんなBOOWYがその後、わずか3年間の間にトップに登り詰め、しかもその頂点で解散、20年以上過ぎた今でも伝説のバンドとして語り継がれることになるとは、誰が予想できただろう。


先般、バンドのボーカルだった氷室京介は東日本大震災のチャリティとして、全曲BOOWYの曲でライブを行うと宣言した。場所は東京ドーム。5万人のキャパシティに対してチケット応募は30万通を超え、急遽追加公演が決定した。またギタリストだった布袋寅泰はBOOWY解散後に吉川晃司と組んだユニット、COMPLEXの再始動ライブを東京ドームで行うと発表、収益金の全額を被災地に寄附するという。こちらも予想をはるかに超えるチケット応募が殺到し、追加公演が決まった。

そういえば吉川晃司がアイドルとして芸能界にデビューしたのは1984年春のこと。僕が「ぴあ」で働き始めたばかりの頃、回りの女性陣が夢中になっていたのを思い出す。まだ19歳だった吉川は夢への第一歩を踏み出したばかりの輝きに満ちていた。BOOWY、吉川、島根県出身の彼女、そして多くの仲間たち。立場は違えど、夢を求めて前しか見ていなかった時代の象徴として僕の心に今でも強く残っている。

サイドを刈り上げたショートカットに、後ろ髪だけを長く伸ばしたヘアスタイルの彼女の風貌をふと思い出すことがある。今頃は遠く島根の地で今回の氷室京介、布袋寅泰の話題を眩しく懐かしく見ているのだろうか。狭いライブハウス、汗が飛び散ってきそうな至近距離で彼らのライブに熱狂していた時代は今も彼女の心に鮮やかに残っているに違いない。


今回、東京ドームに集うファンの中には僕たちと同じ時代を過ごしたかつてのフリーター連中も多く参加するだろう。いい歳こいたオジサン、オバサンの時計を少し巻き戻させてもらえばいい。そして氷室、布袋、吉川には、まだまだ夢を追い求める姿を見せてもらいたい。

もちろん彼らのライブは東日本大震災へのチャリティが最大の目的。しかしその日、その夜だけは、夢や憧れが永遠にTo be continuedだと信じて疑わなかった時代に誰もが戻れる時間であってほしい。


実は僕にとって「ぴあ」での編集のアルバイトは、紙の印刷物に関わった最初の仕事。以来四半世紀近く、僕は印刷物に関わる仕事で生きてきたことになる。何となく感慨深いものもあるけれど、僕は「ぴあ」で働いた期間内に、この仕事に関わる以上避けては通れない「ミス」を初めて体験した。ご存知の通り、印刷物のミスというやつは、それが世に出るともう取り返しがつかない。その怖さを初めて知らされた体験でもあった。もちろん今に至るまで数えきれないミスは起してきた。しかし記念すべき(?)初めてのミスということで今も忘れられない。ということで次回はこの「初めてのミス」について少しお話しさせてもらいたい。


  • 2020.02.08 Saturday
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