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東日本大震災〜ある被災者の方のお話し2
 今回のお題目も前回に引き続き、東日本大震災の被災者の方のお話し。年齢のせいなのかどうなのか分からないけれど、どうも最近、こういう話を読むと涙腺がやたらとユルくなる。


「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」こう話すのは福島県に住む熊川勝さん(78歳)。目前に迫る大波に奥さんの洋子さん(73歳)の手を引いて2階に駆け上がったが、水位はみるみる増していき洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとの状態。死を覚悟した熊川さんは「これまで、ありがとな」と呼び掛けた。洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」

その直後に強い衝撃があり、洋子さんが水中に沈んだ。必死に手でたぐったが、渦巻く波にあっという間に引き込まれていく。熊川さんは偶然着ていたジャンパーが浮き袋のようになり、天井とのわずかな隙間で何とか息ができた。その後、引き波で家ごと流されそうになったが、近くの橋桁にしがみつき何とか踏みとどまった。その間も洋子さんの名前を呼び続けたが、濁流にかき消され、もうどうすることもできなかった。(4.20毎日新聞より)


僕の父親は長男だったから、家では祖父、祖母が同居だった。祖母はどこにでもいる田舎のおばあちゃん、といった感じの人。僕がまだ小さかった頃、バナナを冷凍室で凍らせてアイスクリーム代わりに食べさせてくれたことがある。うっかり「おいしいね、おばあちゃん」などと口走ったばかりに、夏休みの間、毎日のように冷凍バナナを食べさせられたのには参った。たまにはイチゴ味のかき氷やチョコレートに包まれたフツーのアイスクリームが食べたい。でも倹約こそ美徳、と考える祖母の前では言いにくい。多少KYなところもあるけれど憎めない、そんな祖母だった。

しかし、祖父の方はわがままで自分勝手を絵に描いたような性格。機嫌の良い時はともかく、ひとたびヘソを曲げるとどうしようもない。憎まれ口を叩き、エラそうに説教をたれる。それでいて内弁慶で近所の人の前とかでは気弱になるらしい。家の中では一応、家長になるから誰もあまり文句を言えないのをいいことに好き勝手にふるまう。とにかく「イヤな奴」の一言なのだ。普通、年寄りにとって最も可愛いはずの孫である僕がそう思うのだから救いようがない性格の悪さなのだ。

こんなことがあった。僕が小学生の頃、友達の間で鳩を飼うのが流行ったことがある。友達が飼っていれば、自分も飼いたくなるのが子どもというもの。僕も両親に頼み込んで鳩を飼わせてもらうことにした。父親が日曜大工で鳩小屋を作ってくれると、僕は鳩を数羽友達から譲り受けた。祖父も理解はしてくれているようだった。最初の頃は。

ところが、数日が過ぎた頃から祖父は何かに付けて文句を言い始めた。鳴き声がうるさい、臭いがする、鳩小屋が邪魔だ、などなど。それは日に日にエスカレートして行き、ある日父親がついにキレてしまった。鳩のことだけじゃない、日頃の祖父の態度に対する不満がそれをきっかけにして一気に噴出したのだ。取っ組み合いになりそうな勢いで罵り合う祖父と父。祖母も母親も涙目でオロオロするばかり。ケンカの発端となった僕はそれこそ居場所がない。何せまだ小学生、大人のケンカなど放っとけばいいじゃん、などと割り切れるもんではない。僕はよく覚えていないのだが、騒ぎが収まった後に、どうも泣きながら鳩を全部逃がそうとして母親に止められたらしい。鳩さえいなくなれば誰もケンカしなくてすむんだ、と子供心にそう思い詰めたのかも知れない。

それ以外にも祖父には随分とイヤな思いをさせられた。中学、高校と進むとさすがに幼い頃のように精神的に傷付くようなことは無くなったが、それでも腹立たしさや嫌悪感は変わることが無かった。

祖母は祖父より先に亡くなった。確か僕が23歳頃のこと。その頃、僕は東京に住んでいたから、当然のことながら祖父と顔を突き合わせることなく暮らしていた。祖母の死去の知らせを聞いてとりあえず実家に戻った。葬儀の席、僕はなるべく祖父の顔を見ないようにしていた。正直に言うと心の中では「おばあちゃんよりも、お前が先に死ねば良かったんだ」と思っていた。わがままな祖父のせいで祖母がどんなに苦労したか、そう考えると無性に怒りがこみ上げてくる。

お坊さんの読経が終わり、いよいよ棺に最後のお別れ、というとき、祖父は棺の前に土下座して、額を畳みに擦り付けるようにしながら絞り出すようにこう言った。

「今日まで本当にありがとうございました」

その震える声とじっとして微動だにしない丸めた背中、僕は今でも鮮明に覚えている。


3月11日、ちょっとしたことで母親と口喧嘩になり、ふてくされて登校し、そのまま被災してガレキの下敷きになり命を落としてしまった子どももいたかも知れない。夫婦喧嘩したまま無言で旦那さんを送り出し、その後津波で家ごと波にのまれて亡くなった奥さんもいたかも知れない。一言でもありがとうと、ごめんなさいと言っておけば良かった。そう思いながら最期を迎えた人も少なく無かっただろう。

熊川さんの奥さん、洋子さんの遺体はまだ見つからないらしい。生前、洋子さんが秋には日光の紅葉を見たいと言っていたそうだ。せめて骨壺を持って、一緒に日光に行きたい。その思いを抱いて熊川さんは今も遺体安置所を回っているという。せめて最期に言葉を交わせたことが熊川さんの生きる糧になってくれればいいんだけれど。


祖母の葬儀の日、最期に感謝の言葉をかけた祖父も同じ気持ちだったのだろうか、とふと考えることがある。僕はそのとき「そんなことは相手が生きているうちに言えよ」と思ったが、せめて最期に声をかけられたことが祖父にとって意味のあることだったのならそれでもいいと思ったりする。

自己啓発本とかを読むと「今日が人生最期の日だと思って毎日を生きなさい」とかよく書いてある。そりゃ分かるけど実際そんな風に非現実的に日常を考えられないんじゃないかな〜と思っていたが、普通の生活がわずか数十分で壊滅してしまった今回の大震災を考えると、それは非現実でも何でもない。明日にでも、いや数分後にでも起こりうることなのだ。

熊川さんが奥さんと出会えること、一緒に日光に行けること、そして今なお行方不明の多くの遺体に、誰もが言えなかった言葉を最期にかけてあげられることを心からお祈りしたい。

  • 2020.02.08 Saturday
  • 11:57
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