• 2020.02.08 Saturday
  • スポンサードリンク
  • -
  • -
  • -
  • pookmark
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

有力武将の系譜を持ちながら、何となく残念な城・・・雄姿を再び?!

大和郡山市を奈良県の中核都市に位置付けるのは、一にも二にも郡山城の存在感、歴史的背景抜きには語れないだろう。しかし一般の方は「日本一の金魚の町」という認識かもしれないが。戦国末期から織豊時代〜江戸時代初期には堂々たる城郭規模と重要拠点として着目されたところだ。

 

もう4度目くらいになる大和郡山城への訪問。これほどの城が案外と認知度が低く、再現性も乏しく訪れるたびに残念だと思う。ただ市や県による石垣復元事業は常に行われていて、決しておろそかになっているのではないのだが。以下、駆け足で画像点数も少ないが、少し歴史を紐解いてみたい。

 

❶筒井順慶・・・京都を目指す勢力にとって大和郡山は重要な交通の要衝、軍事的な利点を持ち、あまたの武将がここを通り抜けていた。戦国末期に松永久秀と覇権争いを起こすが、敗れたものの織田信長よりこの地を預かる。そののち明智光秀軍の与力となったが、山崎の合戦では秀吉軍との趨勢を傍観したことで「洞ヶ峠=日和見主義」という例え言葉を生んだ。その後、病没。ただ元が興福寺の僧侶から還俗した武将だけ、風流に富む文化人でもあった。

 

❷豊臣秀長・・・秀吉の弟。秀吉一族では出色の能吏&武将で、彼がもっと長生きしていれば秀次の事件、朝鮮出兵など後に秀吉の価値を貶める暴挙は起きず、豊臣政権の継続ができたのではと思われる。

秀吉との二人三脚で天下取りを達成しながら病没。筒井順慶の後を引き継ぎ、補佐役として100万石を領有した。この時の城づくりが現在の基盤となっている。秀吉が“関白”で秀長は“大納言”。公家では関白に次ぐ官位が大納言で、いかに秀吉の信頼も厚く、多くの武家にも支持された希有な人だった。

 

❸柳沢吉里・・・甲府15万石から転封、実質の藩祖。秀長没後は、水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平と目まぐるしく領主が後退したが、どの武将も歴史上に良く知られた名前だ。徳川譜代の城主によって完成を見たと言える。吉里というとピンとこない人も多いが、第五代将軍:綱吉時代の老中:柳沢吉保の長男である。江戸時代、トップ官僚:老中職に就いた者は、将軍没後は権力の座から引きづり降ろされ悲哀を囲うが、柳沢家は無事に明治まで続く。

※優れた文化人であり、善政を敷いたことで評価が高い。特に吉保・吉里親子は、甲府藩主として善政を敷いたことで、大和郡山への転封時には年貢の完納と見送りの列が続いたと伝わる。

★金魚の生産・日本一のとっかかりも、吉保が奨励したことに始まるとか。

 

 

■せっかくの城訪問でありながら全く縄張りや遺構に触れていないが・・・これだけの歴史的背景がありながら、城跡の整備が今一つ。苦言を呈して恐縮至極だが・・・今の大手門櫓や多門櫓のようにどんどん復元〜整備していただければ、残念とは思わないのだが。合掌

「死して皮(=飛び切り極上の著作という皮)を残す」・・・葉室麟という傑出した作家

福岡に生まれ、福岡で育ち、福岡で死す・・・。時代小説ファンでは傑出した作家であることは周知の事。しかし一般的知名度は、藤沢周平氏ほどではないかもしれない。時代小説の魁偉:飯嶋和一とも世界観が違うが、私は大好きで感銘を覚える作家である。
多くの傑作を残し、その業績や人柄を惜しまれ2017年に没した。“西の藤沢周平”とも評されるほど、北部九州=豊後、豊前、築後、筑前の江戸時代を舞台にした時代小説の作品群は、まさに正鵠を得た敬称かとも思う。
 
●葉室流の傑作・・・「蜩ノ記」「秋月記」は私的には彼の作品の真骨頂だと思っている。理不尽、不条理を描いて右に出る作家はいないという、重くも暗い作品も多い。しかし読後は清涼であり背筋を伸ばしたくなる。凛とするといってもよいか・・・地方にあっても知性や品性は磨かれる。「霖雨」「千鳥舞う」などは国文学者、画業者の生き方、存在感とともにその深さに強さも感じる。また案外と女性が主人公の作品や女性の視点での作品に、秀作が多いのも特色である。
 
●果てる者、朽ちゆく者、破れし者のあわれと、それも孤高、高潔な意思の人物・・・を見事に描く。この点で年の最後を飾るにふさわしい、12月=たった1回の社内ブログの言い訳である。これには11月末に死去した父へのレクイエム(鎮魂、悔恨)でもあると思う次第。
 
●人はどういう時に、どういう本を読むのだろうか?・・・今回「葉室麟」の作品で挙げたのは、「弧篷のひと=小堀遠州」、「黒龍賦=海北友松」、「津軽の双花=辰姫と満天姫」の3作である。


★「弧篷のひと」・・・茶人として作庭家で歴史に名を成す。が、戦国武将であり殿様でもある。武家茶道の聖祖:千利休の十大弟子の一人でありながら、作庭(=ランドスケープ)家としても一流、何より武家である。彼の生涯を描くには、あまりに当時の歴史上の有名人が登場しすぎ、目まぐるしい。彼の生涯がかすみそうになるが、多くの武将や権力者:天下人を通じて、また多くの茶人が辿る数奇な運命も含めて、まさにすさまじい人間模様を描いて緩みない。


★「黒龍賦」・・・織田信長に、羽柴秀吉に滅ぼされた近江:浅井氏の3本柱といわれた海北一族。敗軍側の習いとして一族の多くが処罰されたが、若くして仏門にいた友松はなんとか生き永らえた。武将としての天秤を持ちながら仏門で悶々と修行。武を怠らずいつでも還俗して武士として戦場に立つことも夢見ていた。ただ運よく画才も相当なもので、時の画壇:狩野派に警戒をされるほどの画力も併せ持った。友松を取り巻く武人や絵師の盛衰が面白い。


★「津軽の双花」・・・石田三成の娘:辰姫(=幼くして北政所“寧々”の養女として育てられ一命を残す)は津軽藩二代目:津軽信枚に嫁す。しかし徳川幕府により満天姫(=家康の養女として育つ。安芸の福島家へ嫁ぐも離縁させられ)との婚姻で正室の座を追われ、飛び地の領地:上州大舘で。大舘御寮と称される。長男を生むことで、早世したが満天姫の配慮でその長男を3代藩主へ押しやる。


●この3作品で特筆されることは、戦国期から徳川幕府の黎明期にかけて、権力者や武将の生きざまと、絵師や茶人の世界観が見事に描かれ、そこには凄まじい人間関係が綾なしていることである。特に主人公ではないのだが、3作品とも「明智光秀」、「石田三成」という、いわばこれまでの歴史上ではネガティブなイメージだった二人が、様々に関係してくるから面白い。すべて当時は敗軍〜負け戦の武将ながら時の人。400年以上たってもネガティブな評価、悪人としてこれまで語られてきた。
 
ところが来年からのNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は、明智光秀である。当然「石田三成」も少しは出てこようか?信長を本能寺に討った中心人物は明智家家老の斎藤利三。すぐさまの弔い合戦で秀吉軍に敗れた。しかし処刑場で斬首され晒された首を哀れと感じ、奪取したのが海北友松。その斎藤利三の娘が後に三代将軍家光の乳母となる春日局。
石田三成も家康に斬首されたが、息子は炎上する大阪城から脱出し津軽へ逃げ延び、やがて家老職へ。娘もその縁で先の正室へ。
 
●絵師の世界も狩野派が、権力者の信長や秀吉はじめ、家康そしてそれにおもねる各寺院や武将によって、独占的に絵の注文を得、台頭し圧倒的に画壇を独占した。しかし尾形光琳率いる琳派や、長谷川等伯の一族、個人として孤高の境地を開く海北友松、伊藤若冲、俵屋宗達など狩野派に目の仇ともされた。長谷川一派は中でも最も辛酸であった。
 
 
長くなったが、どうだろう・・・表面的ではつながらない、当時の武将や芸術家の人間模様と関係図から少し私の言いたいことを読み取っていただけただろうか?私には今まさに葉室麟氏の描いた作品の世界観と重なるのである。
経営者としての今やこれからの悩み、デザイナーではなく絵描きを選ぶべきだったかの反省、あれこれと打ち込んでこの現状の忌々しさ・・・“敗れし者”と重ねて、葉室氏の作品の3作がとてつもなく深く痛切さを伴っての読後だったのだ。死去した父の戒めを思い起こされるこの頃でもある。合掌

 

 

「天誅組の有力志士・・伴林光平(ともばやし みつひら)」を巡る。

天誅組の軌跡をたどる企画も終盤を迎えた。啓発してくれる藤田先輩との行脚も、珍しく先輩がまだ辿っていないところを巡るという珍しい流れとなった。

私が頚椎に不調を生じて、先輩から治療と併せて先輩が懇意にされている整形外科の仲谷医師のクリニックの治療も受けている関係で、拾っていただく場所とその近くでということで。

 

❶伴林光平は現在の藤井寺市内にあった浄土真宗・尊光寺が実家で、そのため幼くして宗教、国学、和歌などに長じて、成人しては八尾の教恩時の住職となっている。長く寺で国学を講義し、南河内では多くの弟子を育成、名声を得ていた。まさに純粋なる郷士でもあった。

天誅組の起挙にも心を寄せて、変が始まってから後続することとなる。彼の参加により天誅組のイメージも上がり少なからずの弟子たちも賛同し行軍にも参加していることで、彼の人望がうかがえる。

伴林が志士を連ねて参戦してのは、五条代官所の襲撃後からは天誅組内の行軍での記録方を務めている。敗走後に捕らわれの身となり京都の獄舎入牢後、斬首刑に処される。

★彼が従軍してからの経緯が、獄中録「南山踏雲録(なんざんとううんろく)」として記録され、現在に紐解かれている。

 

 

 

 

 

❷巡回のコース・・・天誅組の決起は通信手段がなかった頃。しかも幕末、尊王攘夷論が右往左往するときにだけに、義挙でありながら、後説、毀誉褒貶な伝えられ方も多い。しかし彼の人となりは評価が変わらず、いたるところに石碑が残されている。

・八尾市内の顕彰碑(=教恩寺址)・・・かなり大きいがこれこそが彼の八尾における存在感であり評価を示している。住宅街に囲まれている小公園内にそびえたつ。

・八尾市内の墓碑(=玉祖神社の隣接地)・・・一見、目立たないがこの地では有名は玉祖神社鳥居前の敷地内に。天然記念物の長鳴鶏が飼われている珍しくも雰囲気のある神社。

・伴林氏神社(=藤井寺市)・・・由緒ある神社で、西の靖国神社ともそ称される。彼が伴林を名乗る縁のある神社。この近くにも石碑がある。

・西願時址石碑(=羽曳野市)・・・彼が住職をしていた西願寺の跡地の遺跡碑。住宅と工場が密集したところに忽然と残っている。

 

 



●天誅組を巡るミニトリップは、いろんな意味で啓発を受け、主治医的にもお世話になっている藤田先輩に誘われて、関心だけでミーハーレベルで同行していたこともある。そろそろ終盤となり、天誅組の著書としては近著である「実録 天誅組の変」=船久保 藍 女史の著作(=淡交社)をお借りして読んだことで、これまで以上に天誅組の価値が再認識された。

確かにお互い限られて時間の上、先輩は幾度となく回っているので、私のような初心者で場当たり的なレベルでは、俗にいう一般論での認識がそう大きくは変わらなかった。しかし終盤を迎え、天誅組を構成している人となりを丹念に見返すと、純粋に維新を目指したこともでうかがえる。歴史評価は常に残酷で、今日まで暴挙とか軽挙とか記録され口伝されてきたことの危うさ=史実としての検証が一方的に・・・は、よくよく指摘される。

★地道な歴史研究家よりは、派手な歴史小説家の作品が目立つことで一般論が醸成されて、歴史がゆがめられてはいけないのだが・・・NHK大河ドラマはじめ歴史ドラマはあまりに偏りすぎだ。宮本武蔵、坂本龍馬などは個人的には、相当無理があるなぁと、大作家には申し訳ないが・・・と。


まさにそういう意味で天誅組も評価が低い事変なのだが、彼らの舞台を近くする大学で学んだものとして、せめてきちんと振り返ることは大切だ思う。それこそ今に続く日本を残してくれた彼らへの供養でもある。次はもっとも身近に位置する「水郡膳之佑(にごり ぜんのすけ)」を辿ることになりそうだ。

全国屈指の山城、竹田城。単なる“マチュピチュブーム”ではない確かな足跡

❶要衝を抑えるための必然の城。

群雄割拠が国内いずこでもありながら、この播磨〜但馬間の要衝であった竹田は、1431年ごろにはすでに砦として認められている。
応仁の乱の巨頭:山名氏の旗下:太田垣氏が入城し7代を数えて戦国時代を迎える。

この但馬〜播磨は豊穣の地であり生野銀山も開発されて、豪族には必然と両国にしたい土地。織田軍の有力方面隊の羽柴秀吉軍もすぐさま攻略に動く。しかしまだこの時点では砦を強固にした程度。



❷太田垣氏から赤松氏へ、だが短命に終わる竹田城。

怒涛の行軍で但馬〜播磨を制覇した秀吉軍は、弟:秀長に竹田城を任せ、さらに但馬、播磨平定へと。一時期、桑山氏が駐留後、元々の地場豪族の末裔:赤松広秀が最後の城主となる。赤松家はこの地の大豪族ながら戦国期前に衰退し、ようやく秀吉によって日建てられ、総石垣のこれまでの砦構造から一変した強固な城へと変貌している。

 

 

総石垣で縄張りされた、三の丸、二の丸、南二の丸、花屋敷、本丸は規模こそ中程度だが、戦略的には巧みな縄張りで、かつ穴太衆のよる堅固な石組から、完成時には素晴らしい山城であったと推定される。秀吉軍の但馬経営の拠点としての価値が裏付けられる。しかし関ケ原の戦い以降、西軍に属していたことなどで悲運にも、赤松広秀は自刃、竹田城は惜しくも廃城となる。



❸映画の舞台に。石垣の現存の素晴らしさが、ドラマを生み出した。

・1989(平成元)年・・・「天と地と」で上杉謙信の居城:春日山城に見当てた、壮大な実寸スケールで城が完成。城郭部分は、岡山高梁市にある備中松山城である。YOUTUBEにも紹介されているが、大したスケール感である。よくこれだけのオープンセットを組みながら石垣が強固に保たれていることに驚くばかりである。主演は榎木孝明、渡瀬恒彦、他に浅野温子、薬師丸ひろ子など。

・2011(平成23)年・・・「あなたへ」で高倉健と田中裕子が出会うきっかけとなる場所。城跡での「天空音楽祭」で歌う歌手としての田中裕子。それに見惚れてのストーリーが始まるんだが。エキストラに地元の「和田山虎伏陣太鼓」のメンバーが出演して盛り上げているが、のちに「天空の城」と呼ばれるきっかけになったのが「天空音楽祭」の“天空”かも???しれない。

 




●長くなったが、これ以外にも1シーンではいくつもの映画やテレビのドラマで活用されている。

あまりこうした背景にはミーハーではない私だが、秀吉軍の引き立てにより領主として任され、ずいぶんと善政を敷いたといわれる赤松広秀。またこの城は桃山文化の象徴として築かれているが、落城したわけではなく残念ながらも、奇跡的なくらい石垣の遺構が完全に近い形で残ったのだ嬉しい。彼についての歴史小説「天空の城」=奈波はるか氏を読んでだが。



また山上の縄張りを歩く訪問者の足にとてもやさしい、歩道を布材で加工敷設した整備な随所で水分補給できる小屋の配置など、様々な配慮は、全国でもここだけではないかと思われる。城を保存するにも快適で安全にとの朝来市民の努力は敬服に値する。

 


さらに城下町のあちこちに、意欲的な訪問者への持てなし空間=カフェ、レストラン、資料館などが巧みに構成されている。改めて「天空の城:竹田城と朝来市民の融和」が見受けられた。
 

橿原神宮で気持ちを引き締める・・・案外と知られていなくて勿体ない!

いつもは「天誅組」の歴史探訪で同行させていただいている藤田先輩と、時間がないなかで気分転換もあり割と近いということで、懐かしい(=学生時代に大会会場として一度きり:しかも体育館のみ)橿原神宮へ参拝に。

 

 

●橿原市は奈良県の真ん中あたりに位置し、一時県庁移転の話も出たほど神宮を核とした市街の概要はは何とも雰囲気がある。まさに神域の薫りがする雰囲気である。

 

●橿原神宮は、明治23(1890)年に建立されているが、なんと神武天皇(初代)を祭神として畝山のふもとに鎮座している。神武天皇を奉っているとは、日本会議会員としては失格なレベルだ。ゆえに神域としての佇まいは何とも言えない風格と歴史の重みが伝わる。

 

画像にはないが、橿原神宮へ向かう街道は片道3車線の両サイドの並木が整備されて厳かな景観で本宮へ向かう。

駐車場からは左右に配置されたたくさんの数の灯篭の参道を見ながら玉砂利をじっくり踏みしめて本殿への参拝に向かった。

 

●五月晴れのこの日は、画像で見ると参拝者が少ないように見えるが、たまたま人の動きを避けて撮影したためで、ずいぶんとにぎわっていたが外国人が少ないせいか、厳粛で静寂の空間であった。

 

●実は2組ほど神前結婚式が挙行されていて、晴天でまぶしいく、列席者も暑くて大変だったかと思いながら記念写真の様子を眺めていた次第。よき門出に良き人生を過ごせますようにと祈念するばかりである。

 

●奈良県では春日大社と並んで、初詣客の多い神社だとか・・・さもありなん。ロケーションの良さに和風建築様式がマッチした、厳粛な神社として風雅さを醸し出している。

 

素人丸出しな感想で恐縮だが、40年ぶりの橿原神宮は日本人の心に染み入る神社ですね。合掌

 

 

シ秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・佐土原城、佐伯城、延岡城、鹿児島城のそれぞれ。

❶佐土原城・・・宮崎県宮崎市佐土原町にあった明治まで続いた、佐土原島津家の城。

 県庁所在地:宮崎市郊外に位置しながら、石高3万石の小藩。しかも日向の国で島津家?という不思議さ。

  さても城跡にしっかりとした歴史資料館が整備されており、見学するとそれはそれで味わい深い歴史を物語っている。戦国末期までは伊東氏の勢力が広く及び48もの砦を有し、佐土原はその中心地として栄えた。しかし島津家との戦いに敗れ離散、九州征伐における秀吉軍への軍功で、伊東氏は飫肥へ。関ヶ原の戦い以後、島津家一族として佐土原藩を立てる。つまり飫肥城と佐土原城は世が世なら、逆転していたということである。

 城域は資料館背後に隆起した河岸段丘的な山麓が該当する。わずかに痕跡を残すようだが、一般には資料館止まり。ただ伊達に続・百名城指定ではないことは思い知った。

 

❷佐伯城・・・現存するのは平地の城館:本丸御殿などがあったとされる大手門口を守る櫓門のみ。背後の山に山城を控えているが、万が一という備えにしかない。佐伯藩は歴史的には深い地域だが、江戸時代は2万石という小藩で、隣接する岡藩6万6千石に比べると見劣りがしそうではある。しかし現地に佇むと、ひなびた城下町には思えぬ城館周辺や歴史の名残に品格が感じられる。

往時を思うと山麓の多門塀や櫓が遠望でき、また手前の御殿や馬場が幾本もあり、さらに神社仏閣を防御の構えとしたレイアウトは、さぞかし秀麗だったように感じる。佇まいの美しさを醸している不思議さがある。

資料館も市規模以上に立派なもので、わが観音寺市にはない素晴らしい品性と内容の展示がある。日田から入封されてきた毛利家が明治まで領有した城下町、また明治後の西南の役では佐伯でも西郷軍と政府軍との激闘の歴史が残る。

 

❸延岡城・・・戦国期までは大友氏や島津氏などが割拠して、陣取り合戦の地とされるほど歴史の古い町。本格的には秀吉の九州征伐の流れで、功績により高橋氏が5万3千石で入封。以後、城下を整備しながら、有馬氏、三浦氏、牧野氏と目まぐるしく藩主や石高も変わり、内藤氏が150数年統治し明治を迎えている。縄張りも広く一山を丸ごと城域にしている感もあるが、むしろ戦いの城ではなく政治の中心地としての城づくりを各藩主はめざし、あまり戦略的な城には感じられない。目立つ特徴は、二の丸から本丸へ至る高さ19メートルに及ぶ石垣である。特に礎石部分の膨らみが目立ち、この礎石を外すと一気に石垣が崩れて1000人の攻め手を殺すという仕掛けになっていると伝わる。確かに高石垣の城は多いが、こうして礎石部分が異様に膨れた構造は珍しい。

 西南の役でも西郷軍の攻撃を受けているが、広大な縄張りも威容を示すのではなく親しみを感じさせる雰囲気がある。幕末、子弟・女子教育に力を入れた“知の藩政”を示す穏やかな城跡である。

 

 

➍鹿児島城・・・いうまでもなく歴史的にも有名な島津家の拠点。太平記の時代から明治まで無事に一族が係累を残せた数少ない大名家が島津氏だ。“島津に暗君なし”ともいわれるが、まさに鹿児島城は城とはどうあるのか?を示すユニークな事例かと思う。ちょうど武田信玄の躑躅ヶ館の考えと同じかとも。大手門を構えて、後は城館のみ。決戦は背後の山にある砦のみ。城は人・・・の名言通り、鹿児島城もそうした人が支えている城である。

  ちょうど2020年完成を目指して、御楼門(=大手門)と、御隅櫓と多門櫓など、江戸末期の姿へと復元が進んでいる。また明治百年を記念して御殿跡に建築された県の歴史資料館=黎明館も見ごたえがある。日本のようであり南洋的な島嶼部を広く領有した薩摩藩ならではの展示や雰囲気である。島嶼部や沖縄は、経済困窮する薩摩藩の圧政のもと、搾取や厳しい年貢で苦汁を飲まされて所ではある。島津家の華々しい政治や戦の舞台にのみ目を奪われてはなるまい。

  秀吉に屈し滅亡した北条家は、二公八民、三公七民という農民を考えた善政で支持されていた。早雲の家訓を滅亡まで5代にわたり厳守した政治もまた歴史に埋もれないようにしないと。織田氏によって滅んだ浅井氏も二公八民的な税制を敷き、領民から差し入れが来るほどの慕われ方だったとも伝わる。

し秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・唖然、峻険で広大。難攻不落とは岡城を言うか?

●城雑誌やWEBサイトの下見から現地へ行くと、紹介とのギャップの大きさに驚く。つまり平均的な紹介となり、偏りができないことは理解している。その点で岡城は出色、まずはこれでもか!という縄張りの広さや堅牢な立地条件である。

無論、広さなら熊本城、福岡城には到底及ぶべくはないが、石高にしてはなかなかにすごい。戦国期を伝える山城系ため町割りからは離れざるを得ないが、意外に山城ではなく隆起した河岸段丘的な台地に立っている平山城的な感覚だから余計にそう思える。中川氏が明治維新まで14代にわたり領有していた。

 

●駐車場から拝み見ても段差のすごさが伝わり、到底昔の兵装では陥落させることはできないと思う。山城の場合、本丸以外の出丸=有力家臣が独立的に守りつつ、谷を挟んで連携するが攻められ方次第では孤立しやすい・・・岡城はそうはならない。ほぼすべての出丸がフラットにつながり臨戦態勢がとれる。何より山の形状に沿った縄張りは、大手門口、七曲り口、下原門口などの登城口を突破しない限り、垂直の崖によって攻略は不可能だ。

 南九州の城は砦クラスでもこうした河岸段丘台地に構えるところが多い。野戦に強いイメージなのは、籠城され攻め手の犠牲が大きくなるのを避けてきたのかとも。

●高石垣で各出丸が構えられているが、特に紹介写真で有名な二の丸石垣は、屏風折れのように横矢掛けと堅牢さを誇っている。観光ガイドが大変上手な方で、お聞きするとこの石垣用の石はすぐそばを流れる白滝川から切り出したものだとか。持ち上げる労力から、切込ハギ組みなど、精緻な設計力を伴っていたことがわかる。

 櫓一つ残存していない城だが、九州を代表する名城、さすがに百名城登録である。登城に苦労はないが、現地にたたずむと城マニアを堪能させる空間であることを再認識。

※余禄だが、岡城の観光用パンフは、巻物式で手軽なうえ、説明も行き届き観光客に人気。

 さらにこの岡城のある竹田市は、2年間で移住者を110数組迎い入れている移住率トップクラスの自治体でもある。

7秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・まさに名城、縄張りの魅力にほとほと感服、人吉城。

●戦国期が終わるまで激戦史が多い九州には、徳川幕府開闢前後に名城が多く生まれている。しかしほとんど復興天守(=コンクリート製で歴史考証とは違う)。縄張りも破壊され市街地化が激しい中、人吉は田舎ということもあるが、まれにみる縄張りが残る名城。

 球磨川を前線の守りにし背後は、そり立つ河岸段丘を取り込んでの守りに、城マニアはそそられる。  

●広大な縄張りが、観光公園化してもほぼ残るのも稀有な存在。見どころは、観光写真で多く使われる、球磨川に沿った石垣と多門櫓、長塀。たったこれだけでここまで魅入られる城は少ないのではないだろうか?侍屋敷を広く取り組んでの縄張りに対して、球磨川の対岸は、商業地や農民の家々が連なっている、わかりやすい区分である。

しかも相良氏が地頭として現地へ派遣されてから、約800年統治され拠点が変わっていないことにも感嘆!それだけに恵まれた立地だということである。

●資料館も立派で、相良氏の治世や城の変遷、人吉の歴史まで、丁寧かつハイレベルに説明されている。優れた城下町にはこうした立派な歴史資料館が多い。今回は城数を巡る旅だったが、藩の規模にかかわらず立派な歴史資料館が多かったと思う。また人吉は歴史的なポイントも市内に点在し、じっくり回れる城下町である。

 

●明治維新後、鹿児島藩の学徒と不平浪人の騒動に端を発した西南の役でも、人吉藩は西郷隆盛軍の拠点として政府軍と激しく戦をしている。球磨川を挟んで城側が西郷軍、商業地側が政府軍となり、藩士兄弟でも二手に離別しての戦いでもあったようだ。

西南の役では熊本城での攻防、田原坂の激戦、城山での最終戦が良く知られるが、人吉も大きく歴史をとどめている。

激戦区:九州の城巡り・・・城下町観光を戦略化できている飫肥城は大したもの。

●九州以外の方で城巡りファン以外で、宮崎県日南市:飫肥城といってもピンとくる方は少ないだろう。歴史は鎌倉時代までさかのぼり、このあたりの地頭として派遣された伊東氏が代々続く。さらに戦国期にも勢力を拡大し、宮崎(=日向の国)南部から大隅半島(=薩摩の国東部)にかけての有力者だった。

しかし安土桃山時代前に島津氏との構想に敗北し、一気に衰退するが、秀吉の九州征伐で島津から旧地を安堵され、明治まで伊東氏14代の城下町となった。

 

●城域は広いが縄張りと呼ぶ、二の丸、三の丸、本丸などはすでに本丸程度しか残らず、小学校や中学校の敷地化となり、櫓もなくなり大手門の構えだけである。しかし観光客は九州の城あまたの中でも上位になるほどの観光数であろうか?それは風情というか、醸し出す城下町の雰囲気=九州の小京都と呼ぶのだが、京都は城下町ではないので違和感はある。

 今回は本丸とその周辺で、本町商人通りとして整備された観光エリアは走り抜けただけだが、自負してよいと思う雰囲気。昔町づくり協議会の座長として、彦根のキャッスルロードなどいろいろ視察したが、飫肥もまぎれなく成功した整備である。

 

●小村寿太郎という明治新政府の外務大臣として、多大な功績を発揮した資料館がある。私は地域再生=“教育”がキーワードと、しつこく言っている方だと思うが、まさに飫肥にきて彼の生家や藩の規模を鑑みればいかに有能だったかが知れる。

日露戦争の終結には彼の胆力や外交力が不可欠だったかと。藩主一族よりもこうした出身者が高く評価される風土が大切だと思う。

※資料館や屋敷巡りに時間がとられ、商業ゾーンはじっくり見られていない。が、まさに町中が観光拠点として成立している飫肥は、アクセスにはハンディがあるが、地域の方の努力を痛感する思いだった。

〃秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・臼杵城は大友宗麟以来の治世の知恵が息づく。

●九州戦国期に不可欠の英雄が、大友宗麟。その彼が府内から、鉄壁の城塞として構えたのが現在の臼杵城である。当時は城域が独立した島(=丹生島)で三方が海に向き、しかも周囲は断崖絶壁で守るにふさわしい全国的にも珍しい城跡。

 無論、事前の様々な情報を知っての訪問だが、現実はやはり残念至極である。城域の周囲が埋めたてられ、住居や公共施設、商業業地に変貌しているが、それを割り引いてももう少し原状回復へ尽力できなかたったのかと。ただ侍屋敷、寺などは時代雰囲気が多く残り、こうした保存には臼杵市の取り組みには敬意を表するだけに。

●丹生島を丸ごと要塞化した大友宗麟、さらに福原氏、太田氏で整備が整い(=現存櫓はこの頃と推定される)、稲葉氏が15代続いて明治を迎える。特に江戸時代は稲葉氏治世が城よりも城下町整備という方針もあり、宝暦13(1763)年の大火で、町も城も炎上し復興が大変だったこともあろう。※面白いエピソードとしては、復興時に石垣も表面的なタイル張り方式で巨石を用いずとも雰囲気を醸せるよう知恵を使ったとのこと。

 

●当然、天守も復興されず、現在のようなフラットな縄張りに仕上がっている。明治維新内乱時の大砲の活用を見るとこれはこれで正しい縄張りと感心する。くしくも公園には戦国大名でいち早く大砲を導入した大友宗麟時代のレプリカが展示されて説得力を持つ。

地元の方には日々の散策やゲートボールなど市民公園としての親しみと、周辺の時代を伝える城下町の姿が観光にも寄与している点では、愛される城なのだろう。

 

※市内の有力企業としてフンドーキン醤油という企業がある。優れたビジュアル戦略で気を吐いておい出るが、すぐ近くの河口の中州を活用しているが、ぜひ気に留めておいてくれればと。

ENTRY(latest 5)
ARCHIVES
CATEGORY
COMMENT
TRACKBACK
CALENDAR
SMTWTFS
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
MOBILE
qrcode
PROFILE
LINK
SPONSORED LINKS
無料ブログ作成サービス JUGEM

(C) 2020 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.