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ブル中野という生き方(後編)
毎日やりたくない仕事をやり、しかも実績も出ない、ギャラも上がらない、となれば誰だって心が折れてしまうものだ。しかしブル中野は女子プロレス復興を信じて孤軍奮闘を続ける。観客が減り、閑古鳥が鳴く会場であっても全力で悪役ファイトを繰り広げ、例えわずかな客であろうとも楽しんでもらい、満足させて次へつなげたい。彼女にはそれしかできなかったのだ。
そしてもう一つ、ブルには大きな役目があった。全日本女子プロレスのヒール軍団のトップとして、後輩達を引っ張り、育て上げなければならない。ブルにとってそれは単なる指導・育成では無かった。ベビー、ヒール、関係なくプロレスラーとしての技量が評価される時代を創る、その目標が例え自分の代では達成できなくとも、後輩達にその夢を受け継いでもらいたい。そのためにもブルはかつての師、ダンプ松本のように、旧来のヒールの型にはまった指導をする訳にはいかなかった。そうでなくとも女子プロレスの低迷期、後輩達は目標を見失い、疑心暗鬼になっている。ブルは後輩達一人ひとりの個性を把握した上で、それぞれの持ち味を活かせる指導を行った。「自分のことをよく知ること、自分自身は自分自身でプロデュースしていかなければいけないよ」それを毎日のように言われた、と当時の後輩選手の一人が語っている。 後に女子プロレスの枠を超えて人気者になるアジャコングもその中にいた。アジャコング(以下、アジャ)こと宍戸江利花は体格、キャラクターともに素晴らしいものを持っていた。しかし、リングの上では他人の目を気にして自分をアピールすることができない。それはアジャの生い立ちに原因があった。アジャは日本人の母と、軍人として日本に駐留していたアフリカ系アメリカ人の父との間に生まれた。彼女が生まれてすぐに父は本国へ召還される。浅黒い肌と縮れた頭髪という一目でハーフと分る外見、しかも母子家庭ということで彼女は幼少より激しいイジメを受けてきた。それが心のキズとなり、つい他人の目を気にしてしまう性格になってしまっていたのだ。ブルはアジャの過去を知った上で、体格を活かしたシンプルな技を中心に使うようアドバイスする。そして動きがシンプルな分、そこに感情を込めることの大切さを教え込んだ。単純な体当たりであっても、そこに感情が込められていれば客は反応する。それはアジャならではの恵まれた体格と、ハーフとして特徴のある外見だからこそできることでもある。自らのコンプレックスは逆に考えれば自分だけの武器になる。やがてアジャは自分だけの持つ個性を伸ばすことで、プロレスラーとしても人間としても、吹っ切れたように力を付けていった。 そして、そんなアジャコングとコンビを組んで後にスター選手となるバイソン木村(以下、バイソン)こと、木村伸子。バイソンは女子プロレスラーとして非常に恵まれていた。体型、ルックス、運動神経、どれをとっても優れた素質を持っていた。しかし、そのため何かひとつ強烈な個性に欠ける。性格もおっとりしており、我を押し通すタイプでもない。ブルはバイソンのルックスとスタイルの良さに着目し、女性としての美しさを前面に押し出すよう指導する。ヘアスタイルをロングのソバージュに変えさせ、メイクも派手できつめのものに変えさせた。そして美しさの中に凛とした激しさを持たせるため、空手技をアレンジしたファイトスタイルを教え込む。空手の型の持つ立ち振る舞いの美しさを意識することで、バイソンは美しさと激しさを兼ね備えた新しいスタイルの女子プロレスラーとして個性を確立していった。 元々全日本女子プロレスのスター選手はリングの上で男性を演じてきた。そこに少女ファンが熱狂することでブームを作り出してきた。ちょうど宝塚の男役スターを想像してもらえれば分りやすい。しかし、少女ファンは確かに熱狂的だが、その分心変わりも早い。また感情的になり過ぎるあまり、本来のプロレスの技量を冷静に観てもらえない場合が多い。やはり女性ファンのみに頼る宝塚スタイルでは限界がある。女子プロレスの人気を安定させ、しかもきちんとしたプロレスとして認知してもらうためには、プロレスを観に来てくれる男性ファンの確保が必要、とブルは考えていた。 男性ファンは普段、男子のプロレスを観て目が肥えている。そこにアピールするためには、男子プロレスには無い、女子プロレスとしての魅力を打ち出すしかない。かといってルックスだけのアイドルまがいの選手や、男性に媚びるだけの品のないお色気路線では意味がない。よく「いざとなれば女の方が怖い」と言われるように、本来闘争心は女性の方が激しいものを持っている。また、女性ならではの身体の軟らかさ、シルエットの美しさを活かせば、男子プロレスラーには出せない技、動きをアピールすることができる。そう考えるブルにとって、バイソンは絶好の素材だったのだ。 また、ブルは後輩達を頻繁に食事に誘い、彼女達とのコミュニケーションを図った。女子プロレス人気の低迷で若手選手はろくなギャラをもらえていない。満足な食事をとることもままならない。ブルも全盛期のようなギャラは得られないものの、それでも後輩たちよりは高額なギャラを手にすることができる。ブルはなけなしのお金で後輩達に食事を奢り、本音でいろいろなことを話し合った。ブルはよく笑顔で彼女らにこう話しかけたという。「あんな時代もあったねって、皆で笑い合える日がきっと来るよ」 ブルにとってそれは後輩たちへ、そして自分自身への励ましでもあった。 1990年、日本でユニバーサルプロレスリングという団体が旗揚げされた。メキシコのプロレス、ルチャリブレを売り物にして、元々他の男子プロレス団体のスタッフとして働いていたメンバーが仕掛人となってのスタートだった。しかし設備、選手ともに不十分ということで、男子プロレス団体との利害関係が薄い全日本女子プロレスがリングの提供も含めて全面協力することになった。そしてその興行の中で全日本女子プロレスの試合も組まれることになったのである。 当時、男性プロレスファンは女子プロレスについてはワンランク下に見ることが多かった。所詮ベビーフェイスとヒールのお約束ごと、一部熱狂的な少女ファンがミーハー的に騒ぐだけで、迫力も無いし、といった感じで見下げていたのである。もちろん、実際に見たこともない「食わず嫌い」の部分も大きかった。しかし、いざ目の前で全日本女子プロレスの試合が始まると、男性ファンの固定概念は一転した。中でもアジャコングとバイソン木村のインパクトは群を抜いていた。未開地の原住民を思わせる顔面ペインティングのアジャ、ロングのソバージュに原色メイクのバイソン、二人とも外見は典型的ヒール。しかし体格を活かしたアジャのダイナミックなファイト、そしてバイソンの華やかさの中に切れ味のある空手スタイルはプロレスに対して目の肥えた男性ファンをも唸らせた。 「女子プロレス、すごいじゃないか」男性プロレスファン同士、評価が広まるのは早い。やがて彼らは全日本女子プロレスの会場に詰めかけるようになった。 時代の変化はいろいろな要素が集まることで加速していく。当時、男子プロレスの世界でも他団体時代が到来していた。後に政治家、タレントとして世間を騒がせる大仁田厚が設立したFMWを筆頭に、テレビ局のバックアップを持たない独立系団体が数多く旗揚げされたのだ。その中には女子プロレス部門を持った団体もあった。選手の数が足りないので、どうしても男女混合になってしまうのだ。また、1986年に旗揚げされた日本で2つめの女子プロレス団体であるジャパン女子プロレスも何とか軌道に乗り、業績も上向きになってきた。そんな中から多くの個性溢れる女子プロレスラーが生まれた。可愛らしいルックスながら男子プロレスラー顔負けのデスマッチをこなす工藤めぐみ、またシュートボクシングから転向した風間ルミや全日本柔道選手権3連覇の輝かしい実績で女子プロレス入りした神取忍らも、格闘技色を押し出したストロングスタイルで独自の存在感を放ち、従来の女子プロレスの枠組みを超えて人気者になっていった。 そして全日本女子プロレスの中でも新たな変化が起こっていた。男子プロレスラー佐々木健介夫人として、家族または単独で、今やテレビのバラエティー番組の常連となった北斗晶。彼女は現役時代ベビーフェイスのスター選手だったが、今のままではプロレスラーとしての可能性が伸びないと悩み、ヒールであるブル中野にチームを組ませて欲しいと願い出たのだ。ベビーフェイスとヒールがタッグチームを作るなど、従来の全日本女子プロレスでは考えられなかったことだったが、ヒールでありながらプロレスを極めようとするブル中野の姿勢が、北斗晶の「プロレスラーとしてもっと強くなりたい」という気持ちを動かしたのだ。北斗はブルと組むことでプロレスラーとしての幅を広げ、後に前述の神取忍と壮絶な死闘を行い、プロレスファンの度肝を抜いた。試合後に北斗が叫んだ「私にはプロレスの心がある。柔道かぶれのお前なんかに負ける訳にはいかないんだ」は、彼女のプロレスへの思いがあふれる名台詞である。そして北斗は自分を慕う後輩達を集めてベビーでもない、ヒールでもない、独自の派閥を作る。こうして全日本女子プロレス内においても、旧態然としたベビー、ヒールの構造が崩れていったのである。 団体が増え、全日本女子プロレスのような既成団体からも多くの派閥が誕生し、多種多様な人気選手が登場することによって女子プロレスは一大ブームを巻き起こし、1994年には女子プロレス団体が一同に集まり、東京ドームでの興行を行うまでになった。そこでは各団体の主力選手がワンナイトトーナメントで最強を争った。最後に決勝を闘ったのは全日本女子プロレスの北斗晶とアジャコング。女子プロレス新時代を華々しく飾る東京ドームのメインイベントに立ったのは、奇しくもブルの遺伝子を最も強く受け継ぐ二人だった。そして誰もベビーフェイス、ヒールなどの区分けで女子プロレスを見ることもない。気が付けばそんな時代になっていた。 「私ができなかったことをアジャコング、バイソン木村の二人がやってのけた。それは自分にとって悲しくもあり、またうれしいことでもあった。」ブル中野は二人の1990年のユニバーサルプロレスリング登場を契機として始まった女子プロレス新時代についてこう語っている。そして女子プロレス人気が加速していく中、ブル自身にも時代の波が迫って来る。1992年11月、ブル中野はWWWAの王座を賭けてアジャコングと対戦することになった。WWWA王座とは、全日本女子プロレスが制定したチャンピオンベルトであり、その保持者は全日本女子プロレスで最も強い者ということになる。ブルは1990年に王座を獲得して以来2年間、王座を防衛してきた。その王座へ、自分が育てて来たアジャコングが挑戦してきたのだ。もちろん、今までアジャは一度もWWWAの王座についたことはない。 アジャコング、バイソン木村をきっかけに女子プロレスを見始めたファンたちは、ブル中野の存在をほとんど知らなかった。たまにかつてダンプ松本と共に活躍した時代のブルを知っているファンがいても「まだやっていたのか、とっくに引退したのかと思っていた」という評価でしか無かった。その日、会場を埋め尽くしたファンの声援はほとんどがアジャへのもの。誰もがその声援に女子プロレス界の新王者誕生の期待を込めていた。そして激しい攻防の末、ブルは敗れた。会場中のファンが総立ちでアジャに祝福のコールを浴びせる。アジャにとっても初めてのWWWA王座の獲得だった。しかし、リング上のアジャに笑顔は無かった。 「私がここまで来れたのはすべて中野さんのおかげです。ありがとうございました」アジャはマイクでそう語ると深々と頭を下げ、号泣した。アジャの脳裏にはブルの苦闘時代の姿が去来していたに違いなかった。女子プロレスの暗黒時代、例えガラガラの会場でも心折れることなく本意ではない悪役ファイトを続けながら、それでも希望を捨てず後輩達を叱咤激励してきたブルの姿。そうして新しい時代が訪れたにも関わらず、ブルを待っていたのは、新規ファン層からの冷ややかな目と非情なる世代交代という現実だった。しかしプロレスラーというのはリング上で相手選手を倒せば強いという訳ではない。常に世間の偏見と冷笑にさらされ、まともな新聞やニュースで伝えられることもない。待遇も評価も、プロスポーツと名がつく中でも恐らく最低ランクになる「プロレス」というジャンルで、いかに信念を貫き通すことができるか、人に感動を与えられるか、それがプロレスラーとしての強さなのだ。この日の勝者は確かにアジャコングだが、そのアジャを育てたブルこそが真の勝利者であることを誰よりも分っていたのはアジャ本人だったに違いない。 この試合、Youtubeとかでもアップされているから機会があったら観てもらいたのだが、最後、レフリーが3カウントを入れる瞬間、倒れたブルの身体を押さえ込んだアジャの背中にブルが左手を伸ばしている。それはまるでアジャを抱き締めるかのような手の動きだった。よくここまで頑張ったね、と言っているかのようにも見える。もちろん、それはただの偶然かも知れない。しかし、その手に込められたであろうブルの気持ちを想像すると何故か胸が熱くなる。 「悔しいというより、これで終わった、という気持ちでした。やっと肩の荷が降りたというか」ブルはこの試合を後年、こう語っている。それは長く苦しいブルの闘いが終わった瞬間でもあったのだ。闘った相手はアジャコングではない。自らの目標であり大きな試練、それと闘い、見事に勝利したのだ。 その試合以降、ブルはかねてからの念願であった単身でのアメリカ遠征を行うなど、全日本女子プロレスの闘いの最前線からは次第に遠ざかっていった。闘いの中心はアジャコングを始めとする新世代のスター達になり、やがてブル中野の名前は女子プロレス界から消えていった。プロゴルファーを目指している、アメリカに移住した、などと近況らしい知らせはあったものの、彼女が再びリングに上がることは無かった。 僕が今回、ブル中野という女子プロレスラーのことを延々語ってきたのには理由がある。ブル中野の名前を久しぶりにニュースで聞いたからである。実はブルは来年の1月、引退セレモニーを行うという。彼女が最後に試合を行ったのは14年も前のことだから今さら引退セレモニーなんて、とも思うのだが、今まで正式な引退セレモニーを行っていないこともあり、応援してくれたファンにきちんと挨拶しておきたいということらしい。彼女自身が昨年、結婚、入籍し私生活での区切りが付いたことも理由だろう。しかし、ブル本人は当日試合をする訳ではない。彼女にゆかりのある選手が中心になって試合を行うらしい。祝福にかけつける人も多いだろう。アジャコング、ダンプ松本、北斗晶ら、まだまだテレビで活躍している人たちはもちろん、完全引退して一般人となった人たちの来場も気になるところだ。 そしてブル中野はこの日のために、今体重を増量しているらしい。何でも全盛期の体重、体格に戻すというのだ。彼女の全盛期の体重は100kg。普通の生活を送っている現在のブルは60kg少々、それを100kgにするべく増量中というのだ。もちろんセレモニーが過ぎれば再びダイエットして元の体重へ戻すという。たかが1日のために、何でそこまで、という声も多い。急激な体重の増減は健康にもよくはないだろう。それはただ1日とはいえリングに立つ以上、ブル中野でありたいという意地だろうし、今までの彼女の生き方を考えればそれも理解できる気がする。 ブルが新人時代に憧れていた長与千種がプロレスラーの真価についてこんな言葉を残している。 「誰が一番強いか、じゃないんだよね。誰が一番似合っているか、なんだ」 似合う、とはつまり「らしい」ということだ。ブル中野はその言葉通り、最後の瞬間までブル中野らしくあろうとしている。長与千種が言う通り、それもまたプロレスラーとしての宿命であり闘いなのだ。一時期、リングを離れたにも関わらず何をするにも「ブル中野」という名前が付いてまわり、人前に出ることもイヤになったという彼女。セレモニーを機に前向きな人生を取り戻したい、という気持ちもあるらしい。プロレスラーであろうと無かろうと、人は生きる限り常に何かと闘っている。それに打ち勝つ強さとは何か、ブル中野の生き方にそれを教えられる気がする。これからの彼女の人生により多くの幸福があることを心から祈りたい。 |
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ブル中野という生き方(前編)
今回もまたまたマニアックなお題目、しかも長くなるため、2回に分けて書き込みたい。というわけで今回はその前編ということで了承いただきたい。
さて、ブル中野といっても分る人がどれだけいるんだろうか。ブル中野、本名は中野恵子。1980年代に活躍した女子プロレスラーである。僕がブル中野に特に興味を持ったのは、プロレス雑誌でのとあるインタビュー記事がきっかけだった。そのインタビューでの彼女の発言に、僕は非常に感銘を受けた。その内容に入る前に、ブル中野の経歴と女子プロレス界の当時の流れを合わせて説明したい。 ブル中野(以下ブル)は1968年生まれ。アントニオ猪木をテレビで観たのがきっかけでプロレス好きになる。そして中学卒業と同時に全日本女子プロレスに入団する。当時、日本では女子プロレスの団体は唯一、全日本女子プロレスだけだったから、女子プロレスラーになるためには、全日本女子プロレスに入団するしか無かった。その頃の全日本女子プロレスは、勧善懲悪スタイルが基本。いわゆる善玉レスラー(ベビーフェースと呼ぶ、以下ベビー)と悪役レスラー(ヒールと呼ぶ)とが登場し、ヒールは凶器攻撃や場外乱闘といった反則攻撃でベビーを痛めつける。ベビーはじっと耐えながら、隙を見つけて反撃に転じ、クリーンなプロレス技で勝利する。といったお決まりのストーリーだ。だから、全日本女子プロレスでは、入団した新人が一応の基礎練習を終えてデビューする頃に、新人の所属をベビーかヒールかに振分ける。ブルはアントニオ猪木に憧れ、全日本女子プロレスではベビーのトップスター、長与千種に憧れていた。長与はシャープでボーイッシュなルックス、空手やテコンドーを取り入れた華麗でダイナミックなファイトスタイルで、絶大な人気を誇っていた。新人選手が憧れるのも当然の存在だったのだ。 ところが、ブルが新人の中では比較的大柄な体格をしていたこともあって、全日本女子プロレス首脳陣はブルにヒールを命じる。ブルはショックを受けるが、会社の命令は絶対だし、日本で唯一の女子プロレスの団体に逆らうことは、女子プロレスラーへの道が閉ざされてしまうことでもある。ブルは泣く泣く、ヒールとして女子プロレスラーとしてのスタートを切ることになるのである。 当時、全日本女子プロレスのヒールレスラー軍団には「極悪同盟」というチーム名が付けられ、そのリーダーはダンプ松本(以下ダンプ)という選手だった。ブルはそのダンプの下、極悪同盟のナンバー2として売り出されることになった。当時、ダンプは極悪同盟としての合同練習でも、いわゆるプロレス技の練習はほとんどしなかったらしい。それはある意味当然のことだ。観客はヒールにプロレスのテクニックなど求めてはいない。いかに怖く、憎たらしい存在であるか、それが役目なのだ。ヒールが正統なプロレス技を使えば、逆にベビーの存在意義が無くなる。華麗で高度なプロレス技はベビーが使うべき役目なのだ。だからダンプが指揮を取っての練習はいかにインパクトのある凶器攻撃を見せるか、2人がかりの攻撃やルールでは認められていないセコンド陣の乱入などのタイミング、といった反則行為の練習が主な内容だった。 しかし、当時ブルの後輩として極悪同盟に入ってきた新人選手、アジャコングはこんな発言をしている。 「そんな中でも、一人黙々とプロレス技の練習をしていたのが中野さんでした。ヒールであってもプロレス技が正統に評価される時代が必ず来るから、といつも言っていました」 会社の命令でヒールにはなったが、旧態然としたヒール役に甘んじるつもりは無い。ベビーであろうと、ヒールであろうと、プロレスラーとしての技術が評価される時代を自分が創ってみせる、ブルは秘かにそう決意していたのだ。だから極悪同盟としての合同練習の後も、独自にプロレス技の練習を続けていたのだ。 その甲斐もあり、ブルは高度なブリッジを必要とするスープレックス系などの難易度の高い技をマスターし、試合でも披露した。だからブルの当時の評価は「ヒールながら技の切れるテクニシャン」。しかし当然ながらその分、ヒールとしての存在感は薄くなる。ブルがそんなファイトスタイルを続けられたのは、ダンプ松本の存在が大きかった。何しろダンプの存在感は圧倒的だ。ブルは極悪同盟のナンバー2としてダンプとタッグを組むことが多かったが、ヒールとしての役目はほとんどダンプが担っていたし、観客の注目もダンプに集まる。だからブルはその分、ヒールとしては本来御法度の正統なプロレス技を自由に繰り出すことが出来たのだ。 しかし、1988年、ブルが20歳を迎えようとする頃、女子プロレス界が大きく変化する。長与千種他、主力スターが次々と引退を発表、ついにはダンプ松本も引退を発表したのだ。実はダンプ引退の裏には彼女自身の芸能界移籍の事情があった。 ダンプはその独特のキャラクターを買われて、テレビのバラエティ番組によく出演していた。とりあえずは悪役レスラーだから、竹刀で若手芸人を追いかけ回したり、といった役どころが主だったのだが、その芸達者ぶりと、意外に愛嬌のある素顔に芸能プロダクションが目を付け、本格的な芸能界移籍を誘ってきたのだ。ブルもまた、ダンプの子分的な役割で一緒にテレビに出ることもあった。芸能プロとすれば、二人をセットで売り出せばよりインパクトがあると考えたのだろう、ダンプを通してブルにも芸能プロダクション移籍を打診してきた。ダンプはブルに女子プロレスを辞めて一緒に芸能界へ行こう、と誘いをかける。 芸能プロに所属すれば歌手デビューも出来るし、テレビにももっと多く出演できる。有名スターやアイドルとも仲良くなれるし、女優としてドラマや映画への進出も夢ではない。しかも芸能プロが提示して来たギャラは女子プロレスとしてのそれをはるかに上回る高額なものだった。一年中ハードな巡業とトレーニングに追われ、世間からはすぐ八百長と罵られ、ギャラも安い。常にケガとは隣り合わせ、いつまで続けられるかどうかも分らない。引退後の保証など何も無い。そんな過酷な女子プロレスに比べれば、芸能界入りは夢のようなチャンスに違い無かった。しかし、ブルはその誘いを丁重に断った。 自分はプロレスをやりたくて女子プロレスラーになった。自分の目標はベビー、ヒール、関係なく、プロレスラーとしての技量が評価される時代を創ることであり、華やかな芸能界でスポットライトを浴びることでは無い。ダンプさんにとって女子プロレスは、自分が有名になるための手段だったのかも知れないが、私は違う。私からプロレスを取ったら何も残らない。 「本当にいいんだね、後悔するよ」ダンプはこう言い残すと、女子プロレスから去っていった。 しかし、その後、女子プロレスに残ったブルにさらなる試練が襲いかかる。相次ぐ主力選手の引退で、女子プロレス人気が急激に下降していったのである。観客数が激減し、試合数、テレビ中継が減ってゆく。ギャラも少なくなり、日々の生活も苦しくなる。しかしブルにとってそれ以上に苦しかったのは、自分のプロレススタイルを変えざるを得なくなったことだった。 ダンプが抜けた後、ブルは自動的に極悪同盟のナンバー1という存在になった。ヒール軍団のトップレスラーとして、今までのように、ダンプの影に隠れるようにして、正統派のプロレス技を絡めた自分のやりたいスタイルを続けることは許されないのだ。ヒールは常に大きくて、怖くて、無法な反則行為を繰り返してベビーを痛めつける憎まれ役を演じ、試合会場を盛り上げなければならない。入場時に生卵をぶつけられ、ファンレターと称してカミソリの刃が送られて来たり、ダンプに至っては興奮したファンが実家へ押し掛け、窓ガラスを割られたりしたこともあったという。もちろん、そこまでになればヒールとしては逆に立派な勲章なのだが、ヒールであろうとプロレスラーとしての評価を得られる時代を模索するブルにとっては屈辱以外の何者でも無かった。しかし、女子プロレス人気の下降に歯止めが利かなくなった今、自分の理想とは違っていても、ヒールとしての役割を演じなければならないのだ。 最初に述べたブルのインタビューはちょうどその頃、プロレス雑誌に掲載されたものだった。その中でブルは、今のスタイルが決して自分の望んでいるものでは無いこと、しかし女子プロレスの灯を守るためには仕方がないことを語っていた。またいつの日か女子プロレス人気が再び盛り上がって来たら、自分のやりたいスタイルが出来るんですけどね、と最後はそう締めくくられていた。 プロレスラーであろうとも、組織に所属しているということでは、普通のサラリーマンと基本的には変わらない。20歳を過ぎたばかりの女の子が、女子プロレスの現状を背負わされ、それでも逃げることなく、腐ることなく、本意ではないプロレスを続けながらもいつか自分の目標が叶う日が来ることを信じている。自分の思い通りにいかなくなった時、人はすぐに組織や環境のせいにしてしまう。愚痴をこぼしたり、不貞腐れたり、文句ばかりを言ってしまうものだ。信念を貫くことは大切だ。しかし、そのためには、信念を一時、胸の中にしまい込まなければならないとこもある。それでも決してあきらめず、胸の中で炎を燃やし続けられてこそが本当に強い信念なのだ。インタビューの端々から伝わって来るブルの内面の強さに僕は深い感銘を受けた。 確かにその頃、女子プロレス人気はどん底だったと記憶している。ブルの信じる女子プロレス人気が再び盛り上がる時代が来るなど、にわかには信じることはできなかった。女子プロレスラーの寿命は決して長くはない。もしかしたらブルの願いが叶うことなく、彼女の女子プロレス人生は終わってしまうのかも知れない。そう思うと切なかった。僕はブル中野のファンでも女子プロレスのファンでも無かったが、もう一度女子プロレス人気が復興し、ブルの願いが叶う日が来ることを願わずにはいられなかった。 そして苦悩の中にありながら、ブルの女子プロレスに賭ける信念はやがて時代を大きく変えてゆくことになる。(以下、次回へ) |
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日本人の美徳は沈没したのか?
さて、今回のお題目、書き込みの順番を飛ばしてしまったこともあって少々時期外れの感もあるが、世界一に輝いた女子サッカー、なでしこジャパンの話題から。岡山湯郷ベルに所属する宮間あや選手のちょっといい話。決勝戦の相手はアメリカ代表チームだったのだが、ゴールキーパーのホープ・ソロ選手は、かつて宮間選手がアメリカに移籍した時代のチームメイトだったそうだ。ご存知の通り、アメリカとの決勝戦のラストはPKによる決着。普通に負けても当然悔しいだろうけれど、PKでの敗戦はゴールキーパーにとってはさらに悔しいものになるだろう。そして日本チームの優勝が決まった瞬間、宮間選手は自分たちのチームの歓喜の輪にすぐ入らず、ソロ選手の元に駆け寄り言葉をかけたそうだ。戦前、圧倒的有利と言われながらまさかの敗戦、ソロ選手の落胆の激しさは予想するまでもない。そして宮間選手は自分たちの勝利の喜びよりも前に、かつてのチームメイトへの心配りを優先した。そしてソロ選手は「勝ったのはあなたたちなのだから、遠慮なく喜びなさい」と宮間選手を日本チームの輪の方へ押し戻したのだという。このエピソードはソロ選手が帰国後、アメリカのテレビ番組に出演した際に明かされた。
自分たちの喜びよりも、まず負けた相手を思いやる。武士道精神といっていいかどうかは分からないけれど、何か心に残る。大会後、なでしこジャパンのメンバーのルックスを揶揄したコメントをツイッターに書き込んで批判を浴びた不届きな輩もいたらしい。確かにスポーツ選手とはいえ注目を集める存在だから、ビジュアルをどうこう言いたくなる気持ちも分かるけれど、あの大舞台で相手への思いやりを忘れない宮間選手は誰がどう言おうと美人すぎる。まあ、個人的には川澄奈穂美選手が好みだったりするが…いや、いや失礼。 ここ数ヶ月、著名人が亡くなるニュースがやたら耳に入る。もちろん著名人であろうが無かろうが、高齢で病気になったり、末期がんなんかを患えば誰だって命を落とす。なぜ気になるかと言えば、亡くなる著名人の中でも全盛期をよく知る人の割合が増えたからだ。ここ数ヶ月を振り返っても、例えば原田芳雄さん、宮尾すすむさんとかの死去のニュースは、若い世代の人からすれば「あ、そう」とスルーだろうけれど、やはり全盛期を知っている世代からみれば「う〜む」と唸ってしまうニュースになる。そして「また昭和が遠くなるな〜」などと感慨にふけってしまうのだ。そして、自分自身の年齢が確実に彼らに近づいていることに今更ながら気づいて軽くショックを受けるということになる。 そんな中でも僕が最も驚いたのはSF作家、小松左京さんの死去のニュースだ。小松左京さんと言えば、その代表作は「日本沈没」。1973年に発表された本作のタイトルは、たとえ小説を読んだことが無くても知らない人はいないに違いない。発表当時、僕は確か中学生だったが、とにかく凄まじい反響だった。小説自体は空前のベストセラーになるし、映画、テレビドラマ、ラジオドラマ、連載漫画と、ありとあらゆる媒体がこぞって取り上げた。もちろん、僕も友人たちと夢中になって読んだ記憶がある。 この小説、タイトル通り、地球の地殻変動により日本が海の底に沈没するまでのストーリーなのだが、小松左京さんの弁によると、当初は日本が沈没した後、国土を失った日本民族がどのように世界で彷徨うことになるのか、までを描く予定だったらしい。ところが、実際に筆を進めて行くと「日本を沈没させる」ことは思いのほか大変で、沈没のその後までを描くことができなくなってしまったそうな。それでも構想から完成まで実に9年、その間も地質学、地震学はどんどん進歩していくから、その都度書き直していかなければならない。荒唐無稽に思える「日本の沈没」を徹底してリアルに描いているという「日本沈没」の魅力はそこから生まれている。 そのせいか、話題の中心はどうしても日本が沈む、というスペクタクルな部分になってしまう。しかし、その側面だけでは「日本沈没」の世界観は十分には語れない。小説のクライマックス、地殻変動での日本沈没を最初に予見した田所博士と、日本民族の脱出計画を資金面でバックアップした渡老人が二人きりで会話するシーンがある。長野県山中の渡老人の別荘、地鳴りが響き、風が舞う中、二人は既に日本列島と運命を共にする決意を固めている。数ページにわたり二人が国土を失った日本民族の行く末を語り合うシーンは圧巻である。機会があればぜひ読んでいただきたい。 日本人は日本列島に守られて生きて来た単一国家である。母親に甘える子供のように、我々は日本の国土を愛し、頼ってきた。草花も、水の流れも、すべてを含めて日本列島だ。だからいつでもそこに帰ることができた。外で傷ついたり、ダマされたりしても、純粋であることが一番大切なことだと、信じることができた。旅人は帰る場所があるから強くなれる、希望を持つことができるという。その帰るべき日本列島が無くなってしまったらどうなるのか。日本人は日本人でいることができるのか。純粋で、汚れを知らない美しい心を持ち続けることができるだろうか。 田所博士と渡老人の会話の要旨はこんな感じだったと記憶している。小松左京さんが表したかったのは、日本人の拠り所である日本国土が無くなったときに、日本人はどうなるのか、だったのだと思う。そのために「日本を沈没」させる必要があったのだ。もちろん、核戦争や隕石の衝突とかで日本の国土を壊滅させることはできる。しかし、その場合、壊滅しても国土は残る。いつの日か帰ることはできる。そうではなく、日本国土を完全に消滅させなければならなかった。だからこそ「日本沈没」なのだ。衝撃的なタイトルであったが故に「日本沈没」という言葉のみが一人歩きした感があるけれど、それは決してメインテーマでは無い。 なでしこジャパンの宮間選手ととった行動は、外国人から見れば「人が良すぎる」行為に写るに違いない。誰もが自分の主張を最優先する国際社会の中では、恐らく損をすることになるんだろう。しかし外国の人たちはそれを「日本人の美徳」として評価する。東洋の小さな島国、美しい日本の風景と重ね合わせて、そこに思いを馳せてくれる。しかし、そこに日本列島が無くなってしまったとしたらどうだろうか。そして我々日本人はダマされ傷ついたときに何を頼ればいいのだろうか。「日本沈没」が意図するところ、そう考えると結構深いのだ。 幸いなことに日本国土はまだ我々の足元にある。しかしながらここ数年、日本人であることの意義を問われる事件があまりにも多い。沖縄の基地問題、中国や韓国との軋轢、ガタガタの政権運営、そして今年の大震災。そんな時期に小松左京さんが死去されるというのも何とも考えさせられる。ネット上では大震災と「日本沈没」を重ね合わせての意見も多いようだが、「日本沈没」を深読みすれば、決して大震災だけが例えられる話ではないことが分かる。それは日本人としてのアイデンティティの沈没の恐ろしさであり、日本文化が徐々に侵食されていく不安なのである。 先般、大相撲にエジプト出身の力士が誕生するかも知れない、というニュースを見た。彼は「相撲はスポーツではなく人生だ」と熱く語り、相撲部屋への入門を直訴しているようだ。外国人ながら相撲道をよく理解している、何の問題も無いのでは?という意見が多いようだが、エジプト人との付き合いの経験があるという人がこんなコメントを寄せていた。エジプト人はまず人に謝らない、復讐を何よりの美徳と考える、もちろんエジプト人全てがそうではないだろうが、彼らに大相撲の力士としての品格を求めるのは不可能だ、という。 以前、日本に住むフランス人のインタビューをテレビで見たことがある。フランス人の店員はまず客に謝らない、謝るとこちらの負けだと考えるかららしい。我々日本人には考えられないことだが、厳しい国際社会の中ではそれが当たり前なのかも知れない。 「日本民族はこれから苦労するよ」日本沈没のラストで渡老人が言うセリフである。また田所博士はこう告白する。「最初、日本が沈没するかも知れないと感じたとき、私は多くの日本人に、この国と運命を共にして欲しいと思いました。多くの日本人が逃げ遅れ、この国と共に最後を迎えて欲しいと。」 それを聞いた渡老人はそんな田所博士の心情をよく理解した上で、最後にこう呟く。 「わしは純粋な日本人ではないからな、わしの父親は清国の僧侶じゃった。」 このシーン、初めて「日本沈没」を読んだ中学生だった頃は正直、よく分からなかった。でも、今はよく理解できる気がする。年齢のせいなのか、時代のせいなのかは分らないのだが。 そんなこんなで近いうちに「日本沈没」を久しぶりに読み返してみたいと思ったりする今日この頃。あ、でもその前に水嶋ヒロ先生の「KAGEROU」を読まないと…。 |
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なでしこジャパン世界一に思うこと
どうも暗いニュースばかりが続く昨今、久々に日本全国が盛り上がったのが女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の世界一達成だ。特にアメリカとの決勝戦は見事だった。日本時間での深夜スタートながら休日とあってテレビ観戦したのだが、リードを許しながら2度に渡って追いつきラストはPK戦での決着。まさにスポ根アニメも真っ青の展開で、普段はサッカー音痴の僕も大いに楽しませてもらうことができた。
なでしこジャパンの世界一によって、今までマイナーな存在だった女子サッカーが俄然、注目を集めることになった訳だけれど、選手たちのあまりに過酷な待遇、条件に驚いた人も多いだろう。選手の平均年俸は240万円そこそこ、エース格の澤選手にしても350万円程度らしい。サッカーだけでは生活できず安い時給でのアルバイトに明け暮れる選手、会社の仕事が優先で昼間の練習ができない選手なども珍しくないという。世界一になって帰国する飛行機も、全員が安いエコノミークラスだったというからさらに驚く。 DFの岩清水選手が優勝の原動力になったものは?と聞かれて「ハングリー精神ですね。自分たちで結果を出していかなければどうしようもないですから」と答えていた。彼女たちを動かしたものは、ある意味「何も持っていないこと」のパワーともいえるのだ。 以前ブログにも書かせてもらった「情報誌ぴあ」での1年間のアルバイト生活。その後、僕はリクルートでこれまた1年間、契約社員として働いた。銀座にある全面ガラス張りの通称G8ビルで、主に大手顧客の求人媒体の仕事をしていた。1年間契約が終わる直前の頃、僕は「プリンセストラヤ」(以下トラヤ)という老舗バッグメーカーを担当した。リクルートが学生向けに送る企業ガイドの冊子にトラヤが6頁の特集記事を載せることになり、その誌面を制作することになったのだ。トラヤ側から取材して欲しい社員として数名がピックアップされたのだが、その中にT氏(残念ながら名前は忘れた)がいた。T氏は確か30歳を少しすぎたくらい、トラヤの商品開発チームの中堅リーダーといった役職だったと記憶している。 トラヤは浅草に本社を置き、当時で創業以来50年近くの歴史を持つ老舗バッグメーカー。取引先は有名百貨店が中心で、主に年齢層の高い女性がターゲットの割とお堅いイメージのメーカーだったと思う。だから商品開発とはいっても保守的な層が相手だけに、そう冒険することもなく手堅い商品を作っていればそう外れることも無い。老舗だけに卸ルートも確立されていて、決められた流れに沿っていれば何の問題も無かったようだった。 T氏はやがてそんな毎日に疑問を持ち始める。果たしてこれでいいのだろうか。いつまでもトラヤの看板に頼っていては、時代の変化に乗り遅れることはないのだろうか。思いあまったT氏は以前から考えていたアイディアを会社役員に提案することにした。実はその頃、会社側もT氏と同じ疑問を持ち始めていた。そしてT氏の提案は社長に直に認められる運びになったのだ。 それは、T氏を中心とした5〜6名のメンバーでトラヤとは全く別のブランドを立ち上げる、というアイディアだった。そして従来のトラヤのイメージにとらわれない商品を開発し、来るべき時代の変化に備えようというものだった。そしてそこには、トラヤの名前、また既存の仕入れルートは一切使わないという条件が加えられた。 T氏は賛同してくれる自分の部下数名を連れて、トラヤ本社のある浅草とは逆方向になる代々木の雑居ビルの1階に事務所を構えた。新ブランドの名前はBASARA TYO。TYOとは東京のこと。BASARA(バサラ)とは婆娑羅と表記して、自由奔放とかの意味があるらしい。今でこそゲームや何かでよく聞くようになったけれど、当時はまったく知られていない言葉だった。トラヤという老舗ブランドから飛び出して、自由に、奔放に新しいトレンドを提案する、そんな思いを込めてのネーミング、とT氏は説明してくれた。 そして小さいながらも熱い意気込みを持ってBASARA TYOがスタート。しかし、トラヤ本社にいた頃には考えられなかったトイレ掃除から自分たちでやらなければならない。さらに、T氏以下、メンバーは全員商品開発畑出身で、当然のことながら営業経験はゼロ。良くも悪くも老舗トラヤの手堅い仕入れルートに慣れ切っている。しかもトラヤも名前は使えない。試作品を造っても、新規営業でのアポを取ることさえままならない。もちろん門前払いは当たり前。トラヤブランドから離れた自分たちがいかに無力な存在か、とことん思い知らされることになる。 BASARA TYOの名刺は少し変わっていて、中央に大きな穴が開いている。何故そんな名刺にしたかというと、新規先に行ってもなかなか話題を切り出すのが苦手なメンバーばかり。名刺に大きな穴が開いていれば、そこに興味を持ってくれる相手もいるらしく、そこから話を切り出すこともできるのだという。営業経験の無いメンバーの苦肉のアイディアだったのだ。 取材として僕がカメラマン、コピーライターと一緒にT氏を訪ねたのはBASARA TYOが立ち上がった翌年のこと。トラヤ側がT氏を取材対象に選んだのは、老舗メーカーの新しいチャレンジとして学生たちに強くアピールしたいという意図からだったのだろう。会社から離れて新規ブランドを立ち上げた、というくらいだからエネルギッシュでバイタリティあふれる人物を予想していたのだけれど、実際のT氏はもの静かで控え目な感じの人だった。そして前述のような苦労をいろいろと話してくれた。大きな意気込みを持ってスタートしたものの、厳しい現実に少々戸惑いを隠せない、そんな印象を受けた。「結成したてのアマチュアバンドのような感じですね」スターになる日を夢見て、貧しいながらも奮闘する、T氏はそんなイメージを自分たちに重ね合わせていて話してくれた。なかなか先が見えない状況の中、皆で協力しながら一歩ずつでも前へ進むしかない。T氏の穏やかな話し振りの中には、そんな決意のようなものも見え隠れしていた。 その取材の直後、僕は契約期間終了でリクルートから離れた。さらにその3ヵ月後、東京を去って故郷に戻ったこともあってBASARA TYOのことは忘れてしまっていた。もちろん、インターネットも無い時代の話だし、まして地方にいてBASARA TYOのその後のことなど仮に興味があっても調べようもなかった。 それがほんの数ヶ月前、何かがきっかけで思い出し、試しにプリンセストラヤのサイトにアクセスしてみた。すると、BASARA TYOの名前がしっかり記載されているではないか。ロゴもあのとき見せてもらったものと確かに同じもの。ブランドのページを見ると1984年、代々木にて設立とある。僕たちが取材に訪ねたのはその翌年、1985年のことだ。そして1997年にはトラヤ本社ビルにショールームを開設している。代々木の雑居ビルでのスタートから13年後、堂々トラヤ本社への凱旋である。 様々な苦労を経ながらも、T氏のチームはBASARA TYOをトラヤのブランドの柱として見事に育て上げたことになる。もちろん僕は何の関係も無い立場だけれど、何故か心が熱くなるものを感じた。 最初から何も持っていなかったなでしこジャパン、持っていたものを捨てることから始めたBASARA TYO。いずれも「持たざる者」の勝利。プロ野球の斎藤祐樹投手ではないけれど「何か持っている」に越したことはない。しかし持たないからこそ持てるものもある。意地か、夢か、反骨精神か。心を躍らせる何かがそこにある。やってる人はそれどころじゃないんだろうけどね。 世界一効果も相まって、女子サッカーリーグもかなり盛り上がっているようだ。実は僕の住む岡山にも「湯郷ベル」なるチームがあって、日本代表チームのメンバーが二人所属している。(最もそれを知ったのは彼女らが世界一になった後だけど)湯郷といえば県内有数の温泉地であり、遠く県外からの観光客も多い。代表メンバーの一人、宮間あや選手もかつては旅館でお風呂掃除のアルバイトをしながら練習に励んでいたらしい。そんな彼女らの世界一はやはり素晴らしいし、僕たちの胸を打つ。 さて、その宮間選手だが、優勝が決まった瞬間での素晴らしすぎるエピソードがある。次回はそれをお題目にしていろいろと考えを巡らせてみることにする。 |
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あの「KAGEROU」を読む前に
つい数日前、小説「KAGEROU」を入手した。何、それ?っていう人も多いと思うけれど、昨年末に発刊されたタレントの水嶋ヒロの作家デビュー作だ。持病が原因で芸能界からの引退を決意したミュージシャンの絢香との結婚を発表したかと思えば、突然の所属事務所離脱、俳優業からの撤退、作家活動専念を宣言するなど、世間をお騒がせした後に発刊された作品。しかし世に出るきっかけとなった「ポプラ社」主催の小説大賞受賞が物議を呼んで、さらなる騒動に発展、せっかくの作品にもケチが付いてしまったようだ。受賞を巡るゴタゴタについては後述するが、僕がこの作品を購入したのは、別に水嶋ヒロに興味があったワケでは無いし、話題になったからとりあえず読んでおこうかな、といった理由からでもない。 この作品、いろいろな理由でケチが付いた分、酷評も多かったようだが「偏見を抜きに考えれば、素人が書いたにしてはそこそこの出来」という評価がネット上にいくつか上げられていた。僕はかつて小説家なるものを目指していた時期があって、世間でいう「素人が書いたにしてはそこそこの出来」というのが、どのようなレベルなのか、とても興味があった。普通、書店に並ぶ小説はプロが書いたものであって好みはあれど上出来なのは当たり前だし「素人が書いたにしてはそこそこの出来」という評価の作品を読む機会は意外と少ない。 というわけで一度読んでみたいとは思っていたけれど、お金を払って買うのもどうもな〜という気がしてそのままになっていた。それが数日前、近所の古本屋で見つけて、値段もかなり安くなっていたからつい購入となった次第。実は今回のブログを書き込むまでに本を読んでおくつもりだったのだが、いろいろあってまだ読めていない。だから感想を書く訳にはいかないのだ。まあ、感想はまたの機会に、ということで。 さて、前述の「ポプラ社」小説大賞の受賞のこと。簡単に言うと、水嶋ヒロは自身の名前を隠して作品を応募、1200近い作品の中から大賞に決まったのだが「ポプラ社」側は受賞作が水嶋ヒロの作品とは知らなかった、というのである。これに対して「どう考えても茶番」「出来レース」、はてはゴーストライター説まで飛び出して、水嶋ヒロと「ポプラ社」には猛烈なバッシングが浴びせられた。 真偽の程はともかくとして、大賞を決めるにあたって作者が水嶋ヒロと分からなかったというのは確かに不自然だ。実は大賞受賞作品には2000万円の賞金とともに作品の出版が約束されている。賞金はまだしも、出版となると作家の素性を知らなかったでは済まされない。本人はもちろん、親族や関係者に不審な人物はいないか、極端なことを言えば、おかしな宗教団体や反社会集団とのつながりはないかなど、出版にあたってゴシップやスキャンダルにつながるような問題がないよう、徹底的に調べる筈だ。出版後に変なトラブルとなると、売行きにも関わるし「ポプラ社」の名前にもキズがつく。 それと大切なことは作家の力量の見極めだ。何しろ出版にかかる費用は出版社が負担するのだ。宣伝費だってそれなりにかかるだろうし、2000万円の賞金もなるべく回収したい。となると一作だけで終わってしまわれては、どう考えてもワリに合いそうにない。できればベストセラー作家に成長してもらい、出版社にとってもドル箱の存在になって欲しいと考えるのは人情だ。 島田荘司さんという推理作家がいる。御年62歳の大ベテランながら精力的に作品を発表、しかも自分を慕う若手作家とも積極的に交流し、彼らが世に出る道を開くことにも熱心だ。綾辻行人、歌野昌午、我孫子武丸といった人気推理作家の名付け親になったり、台湾、中国、タイといったアジア諸国の出版社と連携して新人作家の掘り出しに取り組んだりと、新たな才能の発掘にも余念がない。その活躍ぶりが「推理小説界のゴッドファーザー」とも称される由縁である。 推理作家の登竜門といえば「江戸川乱歩賞」だ。60年近い歴史を持ち、多くの有名作家を輩出してきた。今や国民的ベストセラー作家となった東野圭吾氏もその一人。さらにその東野氏が推理作家を志すきっかけとなったのは、氏が高校生のときに読んだ小峰元氏の乱歩賞受賞作「アルキメデスは手を汚さない」というから、乱歩賞が推理小説界に与えた影響は限りなく大きい。 島田荘司さんもアマチュアだった1981年「占星術殺人事件」(以下、占星術)で江戸川乱歩賞に挑戦している。しかし、最終選考には残ったものの、受賞は逃してしまっている。では「占星術」の出来が悪かったのか、と言われれば決してそうではない。受賞は出来なかったが後日出版され、島田さんの記念すべきデビュー作となった「占星術」は世界の推理小説史上、類を見ない独創的なトリックと、そのトリックを裏付けるためのプロットがしっかりと計算されていて、近代推理小説の金字塔と呼ぶに相応しい名作中の名作だ。それほどの名作がなぜ受賞を逃したのか? 一説によると、島田さんの作家としての継続性に異義が唱えられたという。つまり「占星術」は確かに素晴らしい。しかし、その素晴らしい作品を今後、継続して発表していける力量があるかどうか、がネックになったらしいのだ。例えば超特大のホームランを1本打った選手と、ホームランは無いけれど確実にヒットを連発できる選手と、どちらをレギュラーに選ぶだろうか。出版社としては当然、確実にヒットを打てそうな作家にチャンスを与えたいと思うだろう。 もちろん、島田さんはその後も優れた作品を世に送り出しているのだから、結局は審査側の読み違いだったのかも知れない。しかしその中に「占星術」を超える作品があったかどうか、は疑わしい。少なくとも僕が読んできた(すごく少ないけれど)中には「占星術」以上の作品は無かったような気がする。そう考えると審査員の目は正しかったのかも知れない。 その島田荘司さん、つい先般、応募者の条件を何と60歳以上にするという新たな推理作家賞のプロジェクトを立ち上げた。なぜ60歳以上なのか。それは、今まで推理作家を夢見ていた一般のサラリーマン諸氏に、定年をきっかけにしてもう一度、夢に挑戦してもらいたいという願いなのだそうだ。日本の成長期を支えてきた年代の持つ気概をもう一度、夢に託してもらいたい、というわけだ。 そしてもうひとつは作品に、大いに今までの経験を活かして欲しいという願いだ。例えば日本ホラー小説大賞を受賞した貴志祐介さんの「黒い家」という作品がある。保険金詐欺をテーマにしたサイコサスペンスだが、実は貴志さんは作家デビュー前は朝日生命保険に勤めるサラリーマンだった。作品中にも生命保険業界の裏話が多く書かれている。説明的過ぎてウザイ、なんていう人もいるけれどそれが作品に与えるリアリティや説得力は大きい。最もあまりにダークすぎて、業界にとってはイメージダウンだろうけど。もし就職活動前の学生がこれを読んだら、生命保険業界は避けてしまうかも知れない。 また、「人間の証明」など多くのベストセラーを持つ森村誠一さんは、江戸川乱歩賞受賞で作家デビューする前はホテルマンだった。初期の森村さんの作品にはホテルを舞台にしたものが多いし、ホテルマンとして多くの客と接してきた人間観察力は作家活動の大きな武器になった筈だ。 もちろん作家の人も、特殊な業界を舞台にするときはそれなりに取材をするのだろう。しかし、実際に長年勤めてきた経験はまた別物だ。表面的な取材では決して分からない独特の裏話もあるだろう。それが活かされれば、プロの作家には出せない魅力的な作品が生まれる可能性がある。島田さんの「60歳以上」という条件にはそんな思いが託されている。 しかし考えてみれば、作品はその分、自分の経験を活かせる一発勝負になってしまう。しかも60歳以上という条件であれば受賞者が決まっても、その後ベストセラー作家になって欲しいということでも無いようだ。例えそれが最初で最後になっても、作品に全身全霊をかけて取り組んで欲しい。かつての夢にもう一度賭けて、燃え尽きてしまっても構わない。審査する側も、その後にドル箱作家になってもらって甘い汁を吸わせてもらおうなどと考えた審査はしませんよ、ということだろう。 既成のプロの作家には決して出せない、素人ならではの斬新さや意外性が業界の活性化のために必要という思惑もあるだろうけれど、かつて素晴らしい作品を応募しながら「継続性」ということを疑問視されて受賞を外されてしまった島田さんの、怨念というか反骨精神がそこに見えるような気がするのは僕だけだろうか。そんな島田さんの眼から、どんな作品が選ばれるか。受賞が決まるのはまだ先の話のようだけれども今から楽しみでもある。 あ、もちろん水嶋ヒロ先生の新作も楽しみにしてますよ〜って、読んでもないのにいうなって。 |
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1984年「ぴあ」で過ごしたときのこと〜後編
前回のブログで僕が東京に住んでいた24歳の頃に、首都圏での情報誌「ぴあ」で働いていた頃のお話しをさせてもらった。ということで今回はその続き。
さて、僕が所属していたコンサート班で扱う情報の中には当然、プロのミュージシャンが行うものもある。それらはアマチュアコンサートのように主催者側から掲載希望の封書が届くのではなく、コンサートを扱うプロモーターから情報提供を受ける。プロモーターというのはコンサートを取り仕切るイベント会社で、中四国で言えば夢番地やデュークといったところが有名だ。当然のことながら首都圏のその数は地方に比べてはるかに多い。それをコンサート班の各メンバーに割り振り、それぞれの担当プロモーターを決めていた。メンバーは担当するプロモーターと連絡を取り合いながら情報の受け取り、確認を行う。 大御所のミュージシャンを多く扱う、流行のミュージシャンがメイン、あるいは演歌系が多い、とか、プロモーターにはそれぞれ得意分野のようなものがあった。コンサート班のメンバーに人気があったのは当然、流行のロック、ポップス系を扱うプロモーター。メンバーは多かれ少なかれ、音楽、コンサートに興味があって応募してきているし、特に最新のコンサート情報を扱うというところに「ぴあ」でのアルバイトのステイタスを感じている連中だ。前回も書いたように、編集作業そのものは地味なものだったけれど、ネットの無い時代、人気のコンサートの、しかも重要な前売情報に関われるというのが「ぴあ」コンサート班の仕事の魅力であり、喜びでもあった。 しかしながら、人気の高いコンサートを扱うプロモーターの情報は一筋縄ではいかない。プロモーターがギリギリまで情報を出したがらないケースや、詳細がコロコロと変わることも多かった。となると常に変更に振り回されることになるし、また発売日に売り切れなんていうコンサートはその見極めが難しい。 というのも最終版下を印刷会社に渡して、本が店頭に並ぶまでは土日を入れて5日間のインターバルがある。当然、印刷、製本という工程があるからだ。例えばその5日間の内に前売券が発売されるコンサートがあるとする。しかし、即日にソールドアウト(売り切れ)となると、本が出るときには既にその情報は「死んだ」情報になる。前売情報が掲載できるページ数は限られているから、「死んだ」情報は事前になるべく予測して削除したい。もちろん最終的な掲載の判断については僕たちアルバイトメンバーを管轄する「ぴあ」社員の人が決定するわけだけれど、そのミュージシャンの旬の人気度や勢いについては、僕たちアルバイトメンバーの方が詳しかったりすることもある。 こんなことがあった。デビューしたばかりのアイドル歌手のデビューコンサートの情報が入った。発売日は運悪く、例のインターバルの期間中。そのアイドル歌手は岡田有希子さん。場所は渋谷公会堂、キャパは約2000人。デビューしたばかりのアイドルに即日ソールドアウトは無いんじゃないか、メンバーは皆そう思ったが、アイドル歌手に詳しい小池さん(彼の本名は堀越準という芸能人ばりのカッコいい名前だったが、風貌がオバケのQ太郎に登場するラーメンが大好きな小池さんというキャラクターにそっくりだったから、僕たちはそう呼んでいた)が反論した。岡田有希子はポスト松田聖子(当時は文句なくNo1アイドル)の最右翼で、アイドル好きの最大注目株、2000人のキャパなどソールドアウト間違いなしだという。最終的は多数決みたいになって情報は掲載されたのだが、小池さんの予測通り、即日ソールドアウト。さすが恐るべしアイドル評論家、と一同小池さんの眼力に敬服してしまった。 余談ながら、岡田有希子さん、そのわずか2年後の1986年4月、人気絶頂の中、自殺にてこの世を去ってしまった。それも所属事務所のビルの屋上から飛び降りるというショッキングな自殺。理由として恋愛話のもつれ説が浮上、多くの大物男性俳優の名前が取沙汰されたが、今もって真相は闇の中だ。 というわけで、流行のロック、ポップス系のプロモーターの担当は仕事としては大変なのだが、逆に刺激が多く、それも含めて仕事の面白さでもあるから、メンバーには人気があった。僕はメンバーの中でも年長者だったし、そこまでこだわりも無かったから、残り物でいいか、と思っていたら、結局クラシックコンサートの担当をすることになった。新日本フィルハーモニー交響楽団や、NHK交響楽団とかのいわゆるオーケストラ(楽団)が行うコンサートだ。クラシックコンサートの場合、プロモーターというのは介在していなくて、それぞれの楽団の広報部から情報が発信される。 クラシックのコンサートは、ロック、ポップス系に比べると前売情報が「荒れる」ことはほとんど無い。即日にソールドアウトなんていうこともまず無かったし、日程もかなり前から確定していることが多い。送られて来る情報さえきちんと確認して掲載していれば作業的には随分とラクだったのだ。加えて「ぴあ」の読者は10代から20代が中心、熱心なクラシック好きの比率は低い。だから楽団側も告知媒体として、さほど重要視していなかったように思う。他のメンバーは情報確認、取材と称してよくプロモーターに出向くことも多かったが(もちろん、好きでやってる部分が大きいが)クラシックの場合、封書で送られて来るチラシの確認だけでことが十分足りていた。今思えばその分、確かに気のゆるみもあった。 あるときA楽団(名前は忘れてしまった、確かメジャーな楽団だったと思う)からコンサートのチラシが届いた。内容を電話で確認し、前売告知用の掲載原稿を作成した。すると第2週、またA楽団より封書が届いた。中を開けると同じチラシが入っている。日時、場所も同じだ。そのとき僕は他の作業で忙しかったこともあり、楽団側がつい間違えて同じものを送ってきたんだろうと判断してしまった。というのも同じチラシが送られてきたことは過去にもあったし、どうせ楽団も「ぴあ」の読者層には関心が薄い。軽く見られているからこその単なる事務的な間違いなんだろう、という思い込みがあったのだ。僕はそのままチラシをレターケースに放り込み、他の作業を続けた。 翌週、完成した本が出来上がってくる日、僕は直接の上司になる「ぴあ」社員のMさんに呼ばれた。実はA楽団からクレームが入っているという。指揮者の名前が違って掲載されているというのだ。プロモーター関連には発売日より前に完成した本が届けられる。そこで間違いが見つかったらしいのだ。 「そんなことは無い」僕は耳を疑った。前回も書いたように「ぴあ」の原稿チェックは徹底している。目視に加えて読み合わせまで行うのだ。指揮者の名前の間違いなど、普通に考えてあり得る訳は無い。となると考えられるのはひとつ、元情報が既に間違っていたということだ。掲載原稿に添付された元情報そのものが違っていれば、もちろん何度校正しようと意味が無い。2度目に送られて来たあのチラシだ。デザインもレイアウトも見た目はほとんど同じ、コンサートの名称も、日付も場所も同じ。しかし、指揮者の顔写真(そう大きくは無かったと記憶している)と名前が違っていた。最初のチラシの後、何らかの事情で指揮者が変更になったのだ。それで2回目にそのチラシが送られて来た。ところが見た目がほとんど同じだったこと、日付や場所などの重要項目に変更が無かったことで以前のものとの照合をしていなかった。その封書の中に、指揮者の変更を伝える文書があったかどうか、今となっては記憶は無い。それよりも何よりも「ぴあ」の基本方針である「送られて来た情報については必ず内容を電話確認すること」を完全に怠っていた。A楽団にしてみれば、正しい情報を送ったことは事実だし、こちらとしては言い逃れはできそうにない。 演奏される楽曲、指揮者が誰か、はクラシックコンサートの選択基準を大きく左右する。それによって前売券の売行きも変わってくる。主催者からすればコンサートが成功するかどうかの鍵を握る重要な問題なのだ。A楽団が厳しくクレームを入れてくるのは当然のことだ。でも「ぴあ」は隔週発行、つまり2週間は間違えたままの情報が世に出ている状態になる。ことの重大さに僕はただ呆然とするしか無かった。 しかし立場がアルバイトということあっただろう、僕が直接お叱りを受けることは無かった。社員のMさんは恐らく会社の方からきつく叱責されたとは思う。A楽団の方も「ぴあ」の読者層がメインで無いこともあって、過度の責任追及はしてこなかったようだった。 だからといって気がラクになった訳ではなかった。正確であることが売り物の情報誌に間違いがあること、それも自分の責任であることは動かしようが無い。Mさんに大きな迷惑をかけてしまったことも心苦しいことだった。僕はコンサート班の年長者だったこともあり、自然とメンバーのとりまとめ役のような立場になっていた。メンバーは皆若い。学生もいる。その若さがパワーになることもあるけれど、どうしてもなあなあになってしまうこともある。そんなときはメンバーとは一線引いてしまわなければならないこともあった。そのために一部メンバーと冷戦状態になってしまったこともある。僕は上京前に若干の社会人経験があり、アルバイトだから、マスコミ業界だからといった甘えた気分になるのはイヤだった。もちろん、僕自身のコミュニケーションの計り方のマズさもあった。 Mさんはそんな僕を随分と信頼してくれた。「困ったことは無いか?」「作業は順調?」とことあるごとに声をかけてくれ、全体が緩みがちなときも僕にまず相談してくれたりしていた。僕のミスは、Mさんの顔に泥を塗るような結果になってしまったのだ。それを考えると正直かなり落ち込んだ。 ミスの原因はもちろん僕の思い込みによる基本の確認不足なのだが、ジャンルに対する認識の甘さもあった。クラシックのコンサートにおける指揮者の重要度だ。もちろん、情報として重要項目であること、間違いが許されないことは分かっていた。しかし、同じ楽団、同じ演奏者、同じ楽曲であっても、指揮者が変われば曲調もテンポも変わり、まったく違うイメージのコンサートになる。その違いは、ロックバンドに例えればボーカリストが変わるに等しいということについて僕は悲しいかな、知識も認識も無かった。クラシックのコンサートなんて昔からある曲を演奏するだけだから誰がやっても同じ、レコードを聴いていればいいんじゃないか、などとクラシック愛好家の人が聞けば殺されそうなことを平気で思っていたのだからどうしようも無い。 極端な話、サザンオールスターズのコンサートのチラシ、桑田佳祐が別人の写真になっていたら気づかない筈は無い。逆にサザンなどに何の興味も関心も無い人なら見過ごすことになるだろう。今で言えばAKB48のセンターに誰がいても同じに見える人もいれば、好きなメンバーがセンターになれるよう大金を注ぎ込む人にとっては大問題に違いない。つまり僕にクラシック音楽への意識の高さのひとかけらでもあったなら、この見逃しは無かったのではないかと思うのだ。 といくら後悔したところで既に本は書店に並ぶ訳だし、泣こうが笑おうが間違いを直すことは出来ない。結局次号においてお詫び文を載せることで話はついた。最終ページ、編集後記の横に入る「お詫びと訂正」だ。小さな文字で2〜3行、読者のほとんどが気づくことはないだろう。しかし、僕にとっては他のどのページよりも大きく重い「お詫びと訂正」になってしまった。今でもテレビとかでクラシックコンサートの告知CMとかを見ると、ついそのときのことを思い出す。 前回にも書いたように、この7月で印刷物としての「ぴあ」の歴史は終わる。スタートが1972年だからほぼ40年、どれだけの号数が世に出たのかは知らないけれど、1984年発行のどこかの号には間違いなく僕の責任による「お詫び文」が記されている。そしてそれは今まで四半世紀に及ぶことになる僕の印刷物関連の仕事の中で起した初めてのミスになった。 勝手な思い込みに流されてはいけない。どんなジャンルであっても、関わる以上は最低限の知識と関心を持たなければならない。そして印刷物のミスは起してしまった後では取り返しがつかない。初めてのミスから多くのことを学んだつもりではあったけれど、もちろんその後も多くのミスを繰り返してきた。反省だけならサルでもできるわけで、この四半世紀、何を学んでいたのやら、と思うと我ながら情けないけれどね。 さて、2回に渡って書いて来た「ぴあ」でのお話。前回は少々クサいかなと思って使わなかったけれど、一言でいうなら僕とっても「青春」時代だったのかな〜という印象だ。失敗も喜びもそれなりにあったし、いい思いもイヤな思いもした。僕を取り巻く連中とのエピソードもいろいろあった。そんな話の数々はいずれ何かのときに書き込んでみたい。 |
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1984年「ぴあ」で過ごしたときのこと
ここのところ、東日本大震災がらみのお題目が続いたこともあり、今回は少し趣向を変えてみたい。
この4月、情報誌「ぴあ」の休刊が決定した。昨年に関西版、中部版が相次いで休刊されたのに続き、今回休刊されたのは首都圏版、これにより出版物としての「ぴあ」はすべて消滅することになる。 「ぴあ」といっても地方に、しかも西日本に住む人にとってはあまり馴染みが無いかも知れない。要するに首都圏全域をカバーするタウン情報誌なのだが、地方都市によくあるそれとは目的も役割もかなり違う。コンサート、演劇、映画、といったイベントの情報が中心なのは同じだが、首都圏でのその数は地方の比ではない。インターネットの無い時代、利用する側がそのすべてを知るのも、また主催する側が告知するにも「ぴあ」が唯一にして最大のメディアだったのだ。その影響力たるや、首都圏でイベントを楽しむためにはまず「ぴあ」片手で無ければ一歩も始まらないと言っても過言では無かったくらいなのだ。 実は僕は23才の頃「ぴあ」で1年間、編集の仕事をしていた。アルバイトという立場ではあったが、今でも思い入れは深い。そこにはいろんな理由があるのだが、今回はそれをお題目にしたい。 「ぴあ」の編集の実務作業はほとんどが僕たちのようなアルバイトが担当していた。僕が所属していたのはコンサート班と呼ばれる、コンサート情報を扱うグループ。誌面にしておよそ20ページくらいを5〜6人で担当していた。 「ぴあ」は隔週の発行だから、作業は2週間サイクルで同じ流れを繰り返すことになる。1週目のスタートはまず編集部に郵送されてきた膨大な量の封書の整理から始まる。メールなんてものは無い時代、掲載依頼はすべて封書で届く。内容はアマチュア、インディーズバンドのコンサート。ロック、ポップス系だけでなく、クラシックや童謡・唱歌、琴の演奏会まで、コンサートの名の付くものは全て。送られてきた情報はすべて掲載するのが「ぴあ」の基本姿勢だったが、掲載にはひとつ条件があった。それは送り主と必ず電話連絡がついて、開催日、料金などの情報を口頭で確認できること。それはガセネタや、送り主の記載間違いを防ぐためだ。だから膨大な量の情報を片っ端からとにかく電話連絡していく。 今のように携帯電話など無いし、一人暮らしの学生などはなかなか連絡が付かない。しかしせっかく送ってくれたコンサート情報、町の公民館とかで開かれる小さなアマチュアコンサートでも主催する人にとっては一世一代の晴れ舞台。何とか時間の許す限り、電話連絡にトライする。 そうして連絡が付いた情報から原稿用紙に記入をしていくのだが、DTPはもちろん、ワープロ入力による電算写植などもありはしない。手にマメができそうな勢いでとにかく原稿用紙のマス目を埋めていく。そして書き込んだ原稿には赤鉛筆で校正記号を入れなければならない。・(中黒)は四角で囲む、句読点はチェックマークを入れる、太字になる部分はサイドラインを入れる、といった要領だ。それを元に写植オペレーターの人が作業する訳だから、汚い字や省略した字、紛らわしい句読点表示などは許されない。作業がひとりで完結する現代のデジタル工程と違い、アナログな工程には次の工程の人のことを考えた丁寧な仕事ぶりが求められる。 この段階で最も怖いのは原稿作成の時点での書き写し間違いだ。日付、料金など、送られて来た元情報から間違えて書き写してしまえばそれは致命的なミスになる。だから「ぴあ」では元情報と作成原稿に関しては人を変えて少なくとも3回はチェックをかける。原稿を目で追うだけではどうしても見落としが出るから、最後のチェックは2人1組になっての読み合わせをする。 そしてすべての原稿が揃うと、全体のページ数に収まるように、つまり行数の調整を行う。DTPなら行数の調整はモニター上でどうにでも出来るけれど、ひたすら原稿用紙の行数を合計しながらの調整はかなりツラい。原稿用紙のマス目は誌面の1行の文字数に合わせてあるから、その行数を原稿を削ったり増やしたり、頭の痛い作業を繰り返す。それでも何とか帳尻を合わせて写植屋さんに原稿一式を渡せば第1週のお仕事は目出たく完了となる。 第2週は写植屋さんから上がって来る版下の校正作業がメイン。文字の間違いはもちろん、急遽発生する情報の変更などにも対応しながら、カッターナイフとペーパーセメントを手に写植文字の切り貼りまでを自分たちで行った。悪戦苦闘を繰り返しながら何とか版下を校了させ、印刷所に入稿して第2週の作業が終了。後は本が出来上がるのを待つだけになる。 ほぼこの流れで毎号の作業が進む。今日のDTP環境であれば、恐らく作業の手間は半分以下で済むに違いない。しかし、アナログの時代ならではの苦労は今思えば懐かしい。編集部全体に漂うマスコミ業界っぽい賑やかさもあったと思うが、それだけでは無い。 アルバイトの面々は、ほぼ20代前半、東京の人もいたが大半は僕のような地方出身者だった。学生もいればアルバイトで食いつなぐフリーターもいる。(僕の場合は後者)学生はともかく、フリーターという連中は何かしらの夢を持っている。特に地方出身者はそうだ。ミュージシャンになりたい、役者になりたい、華やかなマスコミ業界で活躍したい、あるいは何でもいいから有名になりたい、誰もがそれぞれに夢を描いて東京にやってきていた。特に働く場として「ぴあ」を選んだ連中はその傾向が強い。そんな仲間とワイワイ騒ぎながらの編集作業は何か高校生の文化祭の準備のような無邪気な楽しさがあった。 第1週目の週末、ページの行数を合わせて版下屋さんへ渡す原稿を用意するまでの作業は結構ハードで、全てが揃う頃には深夜1〜2時を過ぎることも多かった。既に終電車は無くなっているし、そこから上がり切ったテンションのまま、街に繰り出す。そして夢を語りながら朝までグダグダと飲み明かす。ある男はいかに日本の映画界が腐っているかを熱心に批判し、ある女の子は名前も聞いたことのない劇団の芝居がいかに素晴らしいかを一生懸命に語る。そしていずれは自分たちの力でムーブメントを起す、と本気で考えている。他人から見れば、しがないフリーターの世迷い言なのだが、本人たちは大真面目なのだ。 「ぴあ」で過ごした1年間、僕の回りにはそんな夢見るフリーターであふれていた。冷静に考えれば、若さと勢いにまかせて現実からかけ離れた夢や憧れの世界へ逃げ込むこんでいただけなのかも知れない。もちろん時は容赦なく過ぎて行く。いずれは夢も酔いも覚める時が来る。いつまでも若くは無いし、永遠にフリーターでいられる訳でもない。しかし、ひととき夢を見させてくれる、語らせてくれるのが東京という街の面白いところであり、また怖いところでもある。 僕自身にとっても、世間の厳しさを知らず(というか目を背けて)東京という街の熱気に浮かされてつかの間の夢に酔う、それがギリギリ許された年齢でもあった気がする。だからこそ「ぴあ」での1年間は僕にとってもどこか懐かしく、恥ずかしくも甘酸っぱい思い出なのだ。 僕たちコンサート班のすぐ隣にはライブハウス班のテーブルがあった。女性ばかりの6〜7人の班。ライブハウスの情報を取り扱うだけあって、音楽好き、しかもマニアックな音楽好きが集まっていた。その中に、島根県出身のある女性がいた。僕とほぼ同じ年齢、同じ中国地方出身とあって気になる存在ではあった。音楽関係のフリーライターを目指して高校卒業後上京してきた彼女は、田舎の両親からは「早く帰ってこい」といつも文句を言われる、とこぼしていた。実際何度か実家に戻り、また諦めきれず上京、を繰り返してきたらしい。その頃彼女は、とある無名バンドの大ファンだった。少女漫画風に描いたメンバーの似顔絵をテーブルの回りにいっぱい貼っていた。そのバンドの名前はBOOWY。2つ目のOに斜め線が入った変わった名前のそのバンドはまだ無名ではあったが、そろそろ一部の目ざとい音楽好きを中心に注目が集まっていた。 「有名になってもらいたいとは思うけど、人気が出るのも少し寂しいのよね〜」彼女はよくそう言っていた。無名の頃から応援しているバンドが、やがて自分の手の届かないところへ行ってしまう、そんな複雑な胸中だったのだろう。夢を追いかける彼女にとって、まだ無名だったBOOWYもまた同じく夢を追い求める同志のような存在だったに違いない。 そんなBOOWYがその後、わずか3年間の間にトップに登り詰め、しかもその頂点で解散、20年以上過ぎた今でも伝説のバンドとして語り継がれることになるとは、誰が予想できただろう。 先般、バンドのボーカルだった氷室京介は東日本大震災のチャリティとして、全曲BOOWYの曲でライブを行うと宣言した。場所は東京ドーム。5万人のキャパシティに対してチケット応募は30万通を超え、急遽追加公演が決定した。またギタリストだった布袋寅泰はBOOWY解散後に吉川晃司と組んだユニット、COMPLEXの再始動ライブを東京ドームで行うと発表、収益金の全額を被災地に寄附するという。こちらも予想をはるかに超えるチケット応募が殺到し、追加公演が決まった。 そういえば吉川晃司がアイドルとして芸能界にデビューしたのは1984年春のこと。僕が「ぴあ」で働き始めたばかりの頃、回りの女性陣が夢中になっていたのを思い出す。まだ19歳だった吉川は夢への第一歩を踏み出したばかりの輝きに満ちていた。BOOWY、吉川、島根県出身の彼女、そして多くの仲間たち。立場は違えど、夢を求めて前しか見ていなかった時代の象徴として僕の心に今でも強く残っている。 サイドを刈り上げたショートカットに、後ろ髪だけを長く伸ばしたヘアスタイルの彼女の風貌をふと思い出すことがある。今頃は遠く島根の地で今回の氷室京介、布袋寅泰の話題を眩しく懐かしく見ているのだろうか。狭いライブハウス、汗が飛び散ってきそうな至近距離で彼らのライブに熱狂していた時代は今も彼女の心に鮮やかに残っているに違いない。 今回、東京ドームに集うファンの中には僕たちと同じ時代を過ごしたかつてのフリーター連中も多く参加するだろう。いい歳こいたオジサン、オバサンの時計を少し巻き戻させてもらえばいい。そして氷室、布袋、吉川には、まだまだ夢を追い求める姿を見せてもらいたい。 もちろん彼らのライブは東日本大震災へのチャリティが最大の目的。しかしその日、その夜だけは、夢や憧れが永遠にTo be continuedだと信じて疑わなかった時代に誰もが戻れる時間であってほしい。 実は僕にとって「ぴあ」での編集のアルバイトは、紙の印刷物に関わった最初の仕事。以来四半世紀近く、僕は印刷物に関わる仕事で生きてきたことになる。何となく感慨深いものもあるけれど、僕は「ぴあ」で働いた期間内に、この仕事に関わる以上避けては通れない「ミス」を初めて体験した。ご存知の通り、印刷物のミスというやつは、それが世に出るともう取り返しがつかない。その怖さを初めて知らされた体験でもあった。もちろん今に至るまで数えきれないミスは起してきた。しかし記念すべき(?)初めてのミスということで今も忘れられない。ということで次回はこの「初めてのミス」について少しお話しさせてもらいたい。 |
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福島原発事故について考える
東日本大震災で大きな被害を受けた福島の原発は未だに先行きが見えない状況が続いている。発信される情報も専門用語が多くて分かりにくい上に、どっちともとれるような曖昧な言い方もあったり、何とも釈然としない。正直言って、西日本に住んでいる者にとってはどこか他人事のように思えてしまうのだが、これは決して対岸の火事ではない。 とにかく今は、事態を収束させることが最優先だけれども、日本人として「果たして原発は必要か」の論議を避けて通るわけにはいかない。日本においての原発問題の特徴は複雑な政治問題が絡んでくることらしい。設置に当たって動かされる莫大なお金と利権。安全か安全でないか、必要か必要でないか、の論議はいつの間にか権力闘争にすり替えられ、基本的な論議は置き去りにされる。福島で立ち退きを余儀なくされている避難民の人たちはついこの前まで同情される被害者だったはずだ。しかし、一部の避難民が傲慢な態度を取ったがために世論はあっというまに彼らに批判の目を向ける。「今まで甘い汁を吸っていたくせに何だ」原発誘致を進めた地元政治家には「推進しておいて今さら何を言うか」といったバッシングが浴びせられる。これをとっても原発問題がいかに難しいかがよく分かる。 先般日経MJを読んでいると、これを機に日本人のライフスタイルを見直すべき、との意見が載せられていた。24時間いつでも買い物ができたり、エアコンをフル稼働させて常時適温で過ごせる環境などをもう一度見直せ、というのだ。確かに一昔前は24時間営業の店などほとんど無かった。それが今ではスーパーでも、深夜営業をしていなかったりすると「このご時世、本気で商売する気があるのか」などと思われてしまう。MJの記事は、当面不便を感じるかも知れないが、日本人はもともと適応能力が高いからすぐに慣れるに違いない、と結ばれている。 日本の電気の30%近くは原子力発電らしい。それが無くなると、単純に3日に1日はまったく電気を使わない生活をしなければならない訳だ。一個人なら何とかなりそうだけれど、社会全体としてはそれはほとんど不可能に近い。簡単に原発不要論を唱えることができないのも仕方の無いところだ。 故忌野清志郎さんが率いたロックバンド、RCサクセションが1998年にリリースしたアルバム「COVERS」。全曲、往年の洋楽ヒット曲に日本語歌詞を付けたナンバーで構成された、文字通りカバーアルバムである。しかし、その中に2曲、原発批判の歌詞があったことが問題となった。当時RCサクセションが在籍していたレコード会社は東芝EMI。その親会社である東芝は原子炉の製作も手がけており、そこからの猛烈な圧力で「COVERS」は発売中止になってしまう。しかしこれに屈しない忌野さんはかつて在籍したキティレコードからの発売を決め、アルバムはRCサクセションとしては初のオリコン1位を獲得した。 問題となった2曲の中の1曲「サマータイムブルース」にこんなセリフがある。 〜何でもかんでも縮めてしまうのは日本人の悪い癖です。原発(ゲンパツ)ではなく、きちんと「原子力発電所」と呼びましょう〜 1945年、広島と長崎において数十万人の命を奪い、66年後の今もその後遺症に多くの人が苦しめられている原子力爆弾。細かな構造の違いはさておき、いずれも同じ原子力によって稼働するものであることは間違いない。かつて日本全土を恐怖に陥れた原子力爆弾。二度と繰り返してはいけない悲劇のはずが、それと同じものが今現在、我々のすぐ身近にある。忌野さんが訴えたかったことはそれだ。 今回の地震による原発事故。壊滅的な被害を受けた農業、漁業関係者にとっては死の宣告にも等しい打撃だろうし、今後の展開次第では最悪の事態も十分考えられる。今回、政府から停止の要請が出された浜岡原発は識者の予想によると東海地震において壊滅事故を起こした場合、24万人以上の人が死亡、しかも数百年に渡って人が住むことができなくなるという。かつての広島・長崎の悲劇をはるかに凌駕する事態になってしまうらしい。 世界的に高名な物理学者ホーキング博士がとある学会でこんな質問に答えた。「この宇宙に地球人以外の知的生命体が存在するか?」博士の答えは「もちろん、存在する。」続けて質問「では彼らが地球へ侵略にやって来る可能性は?」博士「それは無い。」 何故か?その理由は実に示唆に富んでいる。惑星間を行き来できるような高度な技術を作り出せる知的生命体は、惑星間を行き来できるようになる前にその技術力で自らを滅ぼしてしまう、ということらしい。例えば我々人類だって数十年後、数百年後には他の知的生命体が住む星へ行けるようになるかも知れない。しかしその前にまず地球が、というより人類が滅ぶ方が先でしょ、ということだ。それは当然ながら、人類が生み出した技術のせいだ。核かも知れないし、環境破壊による災害かも知れない。人類が他の惑星に行けるようになることと、人類が滅ぶこと、どちらが先か?と聞かれれば、まずほとんどの人が人類が滅ぶ方が先、と答えるに違いない。高度な技術を開発すれば、まずそれが悪事に利用される、その技術を巡ってお互いが傷つけ合う、あるいは技術のもたらす快適さに溺れ、麻薬のように自らが滅ぶ道を選んでしまう。それが知的生命体の宿命と言われれば、ホーキング博士の言い分も何となく理解できる。 原子力専門委員の青山繁晴氏という方が昨日の13日の参院予算委員会で「今回の事故は全てとは言わないが多くのものが人災だ」と発言されたらしい。人を快適にするのも、人を苦しめるものやはり人なのだ。さらに今朝のニュース、事故の復旧作業に携わっていた作業員の方が1名亡くなられたという。被爆が原因かどうかはまだ不明のようだが、とうとう死者が出てしまった。例え過労が原因であったとしても死亡は死亡だ。 知的生命体であるはずの我々人類。知的って何だろうと改めて思わされる。かの哲学者ソクラテスが唱えた「知徳合一」の考え方。知は徳でコントロールされてこそ「真の知」となる。「徳」の無い「知」の暴走はいつだって諸刃の剣だ。 そういえばソクラテスの孫弟子になたるディオゲネスはこんな言葉を残している。 「何もしないことこそが真の平和だ。」 まあ、あまり極端なことを言われてもねえ。ま、知も徳も無い立場の自分としては、とりあえず今夏はせっせと節電に努めるぞっと。 |
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東日本大震災〜ある被災者の方のお話し2
今回のお題目も前回に引き続き、東日本大震災の被災者の方のお話し。年齢のせいなのかどうなのか分からないけれど、どうも最近、こういう話を読むと涙腺がやたらとユルくなる。
「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」こう話すのは福島県に住む熊川勝さん(78歳)。目前に迫る大波に奥さんの洋子さん(73歳)の手を引いて2階に駆け上がったが、水位はみるみる増していき洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとの状態。死を覚悟した熊川さんは「これまで、ありがとな」と呼び掛けた。洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」 その直後に強い衝撃があり、洋子さんが水中に沈んだ。必死に手でたぐったが、渦巻く波にあっという間に引き込まれていく。熊川さんは偶然着ていたジャンパーが浮き袋のようになり、天井とのわずかな隙間で何とか息ができた。その後、引き波で家ごと流されそうになったが、近くの橋桁にしがみつき何とか踏みとどまった。その間も洋子さんの名前を呼び続けたが、濁流にかき消され、もうどうすることもできなかった。(4.20毎日新聞より) 僕の父親は長男だったから、家では祖父、祖母が同居だった。祖母はどこにでもいる田舎のおばあちゃん、といった感じの人。僕がまだ小さかった頃、バナナを冷凍室で凍らせてアイスクリーム代わりに食べさせてくれたことがある。うっかり「おいしいね、おばあちゃん」などと口走ったばかりに、夏休みの間、毎日のように冷凍バナナを食べさせられたのには参った。たまにはイチゴ味のかき氷やチョコレートに包まれたフツーのアイスクリームが食べたい。でも倹約こそ美徳、と考える祖母の前では言いにくい。多少KYなところもあるけれど憎めない、そんな祖母だった。 しかし、祖父の方はわがままで自分勝手を絵に描いたような性格。機嫌の良い時はともかく、ひとたびヘソを曲げるとどうしようもない。憎まれ口を叩き、エラそうに説教をたれる。それでいて内弁慶で近所の人の前とかでは気弱になるらしい。家の中では一応、家長になるから誰もあまり文句を言えないのをいいことに好き勝手にふるまう。とにかく「イヤな奴」の一言なのだ。普通、年寄りにとって最も可愛いはずの孫である僕がそう思うのだから救いようがない性格の悪さなのだ。 こんなことがあった。僕が小学生の頃、友達の間で鳩を飼うのが流行ったことがある。友達が飼っていれば、自分も飼いたくなるのが子どもというもの。僕も両親に頼み込んで鳩を飼わせてもらうことにした。父親が日曜大工で鳩小屋を作ってくれると、僕は鳩を数羽友達から譲り受けた。祖父も理解はしてくれているようだった。最初の頃は。 ところが、数日が過ぎた頃から祖父は何かに付けて文句を言い始めた。鳴き声がうるさい、臭いがする、鳩小屋が邪魔だ、などなど。それは日に日にエスカレートして行き、ある日父親がついにキレてしまった。鳩のことだけじゃない、日頃の祖父の態度に対する不満がそれをきっかけにして一気に噴出したのだ。取っ組み合いになりそうな勢いで罵り合う祖父と父。祖母も母親も涙目でオロオロするばかり。ケンカの発端となった僕はそれこそ居場所がない。何せまだ小学生、大人のケンカなど放っとけばいいじゃん、などと割り切れるもんではない。僕はよく覚えていないのだが、騒ぎが収まった後に、どうも泣きながら鳩を全部逃がそうとして母親に止められたらしい。鳩さえいなくなれば誰もケンカしなくてすむんだ、と子供心にそう思い詰めたのかも知れない。 それ以外にも祖父には随分とイヤな思いをさせられた。中学、高校と進むとさすがに幼い頃のように精神的に傷付くようなことは無くなったが、それでも腹立たしさや嫌悪感は変わることが無かった。 祖母は祖父より先に亡くなった。確か僕が23歳頃のこと。その頃、僕は東京に住んでいたから、当然のことながら祖父と顔を突き合わせることなく暮らしていた。祖母の死去の知らせを聞いてとりあえず実家に戻った。葬儀の席、僕はなるべく祖父の顔を見ないようにしていた。正直に言うと心の中では「おばあちゃんよりも、お前が先に死ねば良かったんだ」と思っていた。わがままな祖父のせいで祖母がどんなに苦労したか、そう考えると無性に怒りがこみ上げてくる。 お坊さんの読経が終わり、いよいよ棺に最後のお別れ、というとき、祖父は棺の前に土下座して、額を畳みに擦り付けるようにしながら絞り出すようにこう言った。 「今日まで本当にありがとうございました」 その震える声とじっとして微動だにしない丸めた背中、僕は今でも鮮明に覚えている。 3月11日、ちょっとしたことで母親と口喧嘩になり、ふてくされて登校し、そのまま被災してガレキの下敷きになり命を落としてしまった子どももいたかも知れない。夫婦喧嘩したまま無言で旦那さんを送り出し、その後津波で家ごと波にのまれて亡くなった奥さんもいたかも知れない。一言でもありがとうと、ごめんなさいと言っておけば良かった。そう思いながら最期を迎えた人も少なく無かっただろう。 熊川さんの奥さん、洋子さんの遺体はまだ見つからないらしい。生前、洋子さんが秋には日光の紅葉を見たいと言っていたそうだ。せめて骨壺を持って、一緒に日光に行きたい。その思いを抱いて熊川さんは今も遺体安置所を回っているという。せめて最期に言葉を交わせたことが熊川さんの生きる糧になってくれればいいんだけれど。 祖母の葬儀の日、最期に感謝の言葉をかけた祖父も同じ気持ちだったのだろうか、とふと考えることがある。僕はそのとき「そんなことは相手が生きているうちに言えよ」と思ったが、せめて最期に声をかけられたことが祖父にとって意味のあることだったのならそれでもいいと思ったりする。 自己啓発本とかを読むと「今日が人生最期の日だと思って毎日を生きなさい」とかよく書いてある。そりゃ分かるけど実際そんな風に非現実的に日常を考えられないんじゃないかな〜と思っていたが、普通の生活がわずか数十分で壊滅してしまった今回の大震災を考えると、それは非現実でも何でもない。明日にでも、いや数分後にでも起こりうることなのだ。 熊川さんが奥さんと出会えること、一緒に日光に行けること、そして今なお行方不明の多くの遺体に、誰もが言えなかった言葉を最期にかけてあげられることを心からお祈りしたい。 |
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東日本大震災〜ある被災者の方のお話し
もうそろそろ発生から1ヵ月あまりが過ぎようとしている東日本大震災。なお続く巨大な余震、増え続ける犠牲者、予断を許さない原発事故など、まだまだ厳しい状況が続いている。しかし、直接的な打撃が一段落ついたこともあって、被災した方々の壮絶な体験談がネット上で紹介されることも増えてきた。九死に一生を地でいく凄まじい体験、心温まるふれあい、助け合いのエピソード、普通に生活していたのでは到底考えられないことばかり。 そんな中、以下は3月18日、産経新聞に掲載されたもの。 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん(28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい−。そんな思いを込めたという。 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながったが声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由里子さんの実家へ向かった。 毛布、食料、紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどんどなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由里子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物はなくなっていた。 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。 職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月には直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。 被災されたみなさん。 苦しいけど負けないで! 名取市職員 S』 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。 いったい何だろう、この人の強さは。恐らくは涙が涸れるほど泣いて、声が出なくなるまでに妻と子の名前を呼び続けたはずなのに、そこからこの力強いメッセージを出せるのか。神様は乗り越えられる試練しか人には与えない、という。理不尽な災害のニュースを見るたび、そんなのキレイごとだろ、と思うけれど、西城さんのこのエピソードを読むと、もう言葉もない。(…涙) 今回はこの話を元にいろいろと書き綴るつもりではあったのだけれど、改めてこの文章を読むと、とてもそういう気になれない。今はただ微力ながら西城さんの今後の人生に幸あれと願うしかできない。 |