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天誅組の軌跡をたどる企画も終盤を迎えた。啓発してくれる藤田先輩との行脚も、珍しく先輩がまだ辿っていないところを巡るという珍しい流れとなった。

私が頚椎に不調を生じて、先輩から治療と併せて先輩が懇意にされている整形外科の仲谷医師のクリニックの治療も受けている関係で、拾っていただく場所とその近くでということで。

 

❶伴林光平は現在の藤井寺市内にあった浄土真宗・尊光寺が実家で、そのため幼くして宗教、国学、和歌などに長じて、成人しては八尾の教恩時の住職となっている。長く寺で国学を講義し、南河内では多くの弟子を育成、名声を得ていた。まさに純粋なる郷士でもあった。

天誅組の起挙にも心を寄せて、変が始まってから後続することとなる。彼の参加により天誅組のイメージも上がり少なからずの弟子たちも賛同し行軍にも参加していることで、彼の人望がうかがえる。

伴林が志士を連ねて参戦してのは、五条代官所の襲撃後からは天誅組内の行軍での記録方を務めている。敗走後に捕らわれの身となり京都の獄舎入牢後、斬首刑に処される。

★彼が従軍してからの経緯が、獄中録「南山踏雲録(なんざんとううんろく)」として記録され、現在に紐解かれている。

 

 

 

 

 

❷巡回のコース・・・天誅組の決起は通信手段がなかった頃。しかも幕末、尊王攘夷論が右往左往するときにだけに、義挙でありながら、後説、毀誉褒貶な伝えられ方も多い。しかし彼の人となりは評価が変わらず、いたるところに石碑が残されている。

・八尾市内の顕彰碑(=教恩寺址)・・・かなり大きいがこれこそが彼の八尾における存在感であり評価を示している。住宅街に囲まれている小公園内にそびえたつ。

・八尾市内の墓碑(=玉祖神社の隣接地)・・・一見、目立たないがこの地では有名は玉祖神社鳥居前の敷地内に。天然記念物の長鳴鶏が飼われている珍しくも雰囲気のある神社。

・伴林氏神社(=藤井寺市)・・・由緒ある神社で、西の靖国神社ともそ称される。彼が伴林を名乗る縁のある神社。この近くにも石碑がある。

・西願時址石碑(=羽曳野市)・・・彼が住職をしていた西願寺の跡地の遺跡碑。住宅と工場が密集したところに忽然と残っている。

 

 



●天誅組を巡るミニトリップは、いろんな意味で啓発を受け、主治医的にもお世話になっている藤田先輩に誘われて、関心だけでミーハーレベルで同行していたこともある。そろそろ終盤となり、天誅組の著書としては近著である「実録 天誅組の変」=船久保 藍 女史の著作(=淡交社)をお借りして読んだことで、これまで以上に天誅組の価値が再認識された。

確かにお互い限られて時間の上、先輩は幾度となく回っているので、私のような初心者で場当たり的なレベルでは、俗にいう一般論での認識がそう大きくは変わらなかった。しかし終盤を迎え、天誅組を構成している人となりを丹念に見返すと、純粋に維新を目指したこともでうかがえる。歴史評価は常に残酷で、今日まで暴挙とか軽挙とか記録され口伝されてきたことの危うさ=史実としての検証が一方的に・・・は、よくよく指摘される。

★地道な歴史研究家よりは、派手な歴史小説家の作品が目立つことで一般論が醸成されて、歴史がゆがめられてはいけないのだが・・・NHK大河ドラマはじめ歴史ドラマはあまりに偏りすぎだ。宮本武蔵、坂本龍馬などは個人的には、相当無理があるなぁと、大作家には申し訳ないが・・・と。


まさにそういう意味で天誅組も評価が低い事変なのだが、彼らの舞台を近くする大学で学んだものとして、せめてきちんと振り返ることは大切だ思う。それこそ今に続く日本を残してくれた彼らへの供養でもある。次はもっとも身近に位置する「水郡膳之佑(にごり ぜんのすけ)」を辿ることになりそうだ。

(C)住みよい街全国ランクトップ:富山は文化都市。

それだけに「残念な城:富山城」だが市街地景観にはかなりマッチしている。

冒頭、失礼な書き出しで県民〜市民にはお詫びから入る。富山はこれで二度目、20数年前、商工会議所の新潟全国大会の帰り道で、同級生がある企業の支店長として勤務していたので少しだけ立ち寄った。その時も富山城は訪問し残念だなぁと思いつつも、今回は展示内容が素晴らしく整備されていて、富山城の歴史は無論、富山の沿革がつぶさに知れて、この点では大推薦である。

 

❶城好きとしては、佐々成正の戦国期から、加賀藩が何とか徳川幕府から嫌疑をもたれずに継続していく中で、利常が次男に立藩させて明治に至るまでが関心。つまり城の遺構のありようで判断しているマニアックな視点のなせるところ。逆に県庁所在地の市民公園として、また郷土の歴史を丹念に解説した資料館としては十分な施設であることは言を持たない。

 

 

❷徳川幕藩体制下で御三家よりも石高が大きい加賀藩は、昼行燈を装いながらも俊英だった3代藩主:利常が、表高120万石を超え、また実質もそれ以上という裕福な藩をつぶされないよう、富山藩10万石=利次(次男)、大聖寺藩7万石=利治(三男)に分地したことで生まれた藩である。領地として加賀藩を富山藩が分断している様子は確かにいろいろな弊害もあったかもしれない。本藩もそうだが表高以上に実質は恵まれていたし、歴代藩主も暗愚な藩主はいなかったようだ。ただ天災にはよく見舞われ復旧には難渋した様子や、加賀本藩から多くの藩士を移管したことで人件費が足を引っ張り財政面では苦労が絶えなかったと示されている。これは福岡黒田藩と秋月藩など支藩との関係はどこも似たり寄ったりだと言えなくはない。

 

❸歴史と文化にあふれ、何ともさわやかな街である。訪問したのは真夏日を少し過ぎ、20年前は秋口でともに良き時候。冬場ならこうは言えないのかもしれないが、程よく様々な魅力を持つ富山市は、流石に定住率全国有数であると感じる。令和の命名者と騒がれる中西進先生のかかわりもある「高志の国文学館」もあるが、先生の「ふくろうの会四国副支部長(=役立たずな副支部長失格者)」としては寄る間もなく申し訳なかった。

 

●最後に・・・息子の百名城&続・百名城のスタンプ押しの付き合いもあるが、ここらはどうしても行きたかった。

金沢城以外はマニアックだと思う。しかし日頃、読み親しんでかつ尊敬する時代小説家の上田秀人氏という方がおいでる。時代小説の大ヒットメーカーで有名だが、この方の13巻続くシリーズ「百万石の留守居役」は大のお気に入りだ。発刊前に加賀藩?では関心としてどうだろう??と私自身よりも世間一般を心配したが、さにあらずその評価は毎号高まっていると思う。このシリーズの愛読者なら,今回も強行軍だったが、その目的がご理解いただけるかと。小説の巻ごとのストーリーを思い起こしながらの城巡りは、息子とは別のひそかなオヤジ趣向であった。

(B)一代限りの幻の城「高岡城は、城を残さず伝統・文化を残す」

 

戦国時代の英傑としてその名をはせた前田利家。まつ夫人との夫唱婦随が有名で何度もドラマ化されているが、この息子:利長も俊英だ。さらに金沢藩3代目の利常も有能で、江戸末期まで見事に百万石を削られもせず、領地替えもなく生き延びさせたのは創藩より3代において藩主が有能だったからであろう。

 

❶一国一城令の前に、領地守護をかねて高岡の地に前田利長が隠居城との名目で設置したのが高岡城。

現在は、本丸と二の丸、三の丸の堀を残してほとんど公園化しているので、あまり優れた城としての価値はわかりにくい。遺構も一部の石垣以外、単なる市民公園のレベルで城好きには残念である。しかし動物園、体育館、神社、彫刻のある公園とまさに高岡市民の憩い場である。

利長が加賀藩の永続や侵略に備えて自らが城主として構えたが一国一城令で廃城に。その限られた城下町時代にとてつもなく高岡は、現在の隆盛につながる基礎を得ている。

 

 

 

 

 

❷菩提寺:瑞龍寺にも2代藩主:利長の加賀藩永続を願う思いが残る。どの城下町も城廓以外には寺が防波堤(=防戦拠点)として配備される。

瑞龍寺はそこまで徹底していないが、利長公を尊崇する中で今日まで営々と続く曹洞宗の大名刹である。特に全国でも珍しいすべての伽藍構造が左右対称というのがなんとも美しい。禅宗だけに質実剛健な構造美はよく知られるが、この左右対称形は異彩を放つ。一国一城令で高岡城が廃されても、いざとなれば瑞龍寺が要塞になるという江戸初期の武将の気概まで感じさせる。

 

 

 

❸歴史郷土資料館に、高岡の真髄が示されている。富山県は定住化比率が全国有数の恵まれた県であるし、高岡市は県内2位の規模を誇り約17万人。資料館は残念ながら古めかしい=他の人口規模の自治体と比べるとちょっと残念レベルであるが、内実は豊かで魅力ある高岡が様々に紹介されている。特に地場産業の発展は特徴のある業態が、幅広く紹介され、改めて個性も感じ、まさに地場産業の模範例である。

 

 

 

 

 

★鋳造業(=それこそ前日の兼六園にあった日本武尊像も。岡山駅の桃太郎群像、小豆島のオリーブ公園の記念の鐘、高知駅の維新群像など四国もご縁が深い)、また高岡大仏も昭和の作だがイケメンで有名・・仏壇製造・・漆器・・アルミ産業・・インテリア製造・・文具・・運輸業など多彩かつ準大手〜大手規模まで産業構成に恵まれている。

★何よりドラえもんはじめあまたヒット漫画で知られる「藤子F不二夫」氏の故郷。市内を走るトラムのボディや彫刻の置物などいたるところで出会う。これらを背景にした高岡祭りは、出車も優美で趣がある、是非ともその頃に訪ねてみたいものである。

 

 

 

(A)北陸の雄「加賀藩の本拠地:名城・・・金沢城」

金沢城と兼六園は、日本人のほとんどが名前を知り、また訪問もしている有名観光地である。当日も北陸新幹線効果が冷めやらず、外国人客も含めて、もう渋滞か!というほどの人出だった。今更ながら金沢城?!なのでブログにするのも気恥かしい。名古屋から車ででも、名古屋環状〜東海北陸道で3時間少々、あっという間の気がする。

 

❶駐車場の関係で先に兼六園へ。日本三大大名庭園ともうたわれ、その規模は随一かとも。いやはや大変な人出でしたが、隅々まで丹念に回っているのは案外と外国人(=ヨーロッパ系)。ここでは写真も解説もしないが、昭和に建立された日本武尊の像が気になった。翌日の高岡城巡りで関連を知った。また城巡りに時間がかかりすぎ、21世紀美術館もあまりの順番待ちでキャンセル、県立歴史博物館はガラガラでじっくり見れて、施設的にも赤レンガ倉庫づくり(=元陸軍の倉庫を転用)でとてもよかった。しかし隣の県立美術館はもう時間切れ。

 

❷金沢城は全国的に有名であるばかりか、その縄張りの広さ、それぞれの多門櫓、隅櫓の豪華絢爛さは秀逸な城で、こればかりは姫路城をも凌駕している。江戸時代に大火災で天守閣は消失してと伝えられ、元御三階櫓跡が天守閣代わりと伝わる。明治以降は陸軍本部が置かれた関係もあり、太平洋戦争での空襲で多くの遺構を消失して現在に至る。特に見どころではないが、本来の手つかずで埋もれた感のある本丸は、ほとんどの観光客は行きたがらない。うっそうとした森のようで遺構が少なく魅力はないが、下城し21世紀美術館方面から振り返ると3段くらいの高石垣が見える。つまり往時の天守閣の立つところである。ほとんどの人はそのすごさには思い及ばない。

 

❸見どころ解説は観光資源としてあまりに有名なので端折るが、他の大城郭、大名城にない金沢城ならではの特色のみ記しておきたい。

★往時も現在の再建遺構でも「なまこ壁仕様」である・・・火災防止や火矢の攻撃に堪え得るよう、白壁に燻し瓦を埋め込み、周りを漆喰で固めていること。その手間の分だけ秀麗で統一感とともにリズミカルな上、何とも気品が漂う。新潟の新発田城、熊本の人吉城の塀に一部、そうした施しは残るが、あの規模の城で全での隅櫓、多門櫓にというのはあり得えないレベル。

 

★屋根がすべて鉛板葺き仕様であること・・・凍害に弱い燻し瓦は寒冷地の城には不向きで、銅板葺きや萱葺きが多い。特殊な例では越前丸岡城のような地場石材を削った屋根瓦も例もある。軽くて強い、またいざという時はその瓦を溶かして、鉄砲玉に仕立て直せるとかともいわれる。年数が経つことで鉛が白い粉を吹き、藩士の健康に悪影響もしたそうだが・・・白々と輝く様は美しい。

 

 

★いたるところに唐破風(=出窓の装飾)が採用され、その意匠性では金沢城が突出している。もともと唐破風は権威の象徴、しかも格がかなり高い場合に限られ許されていた仕様である。江戸時代に唐門・唐破風が許される藩屋敷や仏閣は限られていた。軍事拠点の城にここまで華美を施すのは、戦仕様を想定するよりも政庁としての機能をアピールすることで、百万石を守ろうとしたり金沢文化を奨励するためのシンボルにと考えたのだろう。

 

★出窓や窓の格子内側には銅板が巻き付いている。ガラス窓のない時代、また窓に雨戸がない場合は、吹き込んだ雨滴を逃すために水抜き用に竹管が埋め込まれ、排水処理されている。しかし金沢城はすべて内側に銅板を巻いて格子木の腐食を防いでいるのである。何とも手の込んだつくりである。

 

★菱櫓という見通しの良い櫓構造・・・すべてではないが、籠城後にやむなく攻め込まれた折、“〇〇の丸”と呼ばれる兵士の待機場所、もしくは敵兵を集めるところ。これに対して菱形の櫓なら見通しが良いこともあり、わざわざ平行四辺形的な形で櫓を構えている点も大変貴重な見どころ。大工の力量に大きく左右されるが、再建した櫓でつぶさに事例展示し、その技術力を解説している。

 

城好きにはたまらない魅力にあふれ、わざわざ訪問する価値は十分あるのだ。しかし前田利家、利長親子は一体、予算をどう工面したのだろうか?現在の予算にして450億円くらいといわれる安土城の建設費よりも多くかかってるはずである。大坂城を築いた秀吉は、当時500万石程の収益を誇っていたのでわからなくはないが。借金嫌いの前田家、まつ夫人が賢夫として名高いがまさに真骨頂を見る思いだ。

天川村の弁財天

●芸事の神様、、、、天川村の弁財天

吉野村の隣、天川村には昔から芸事の神様と信仰深い神社がある。
正式には天河大弁財天社というようだが、鄙びた住宅街にまっという感じで佇んでいる。広い公道から少し入り組んでいるが、そこはもう別世界観もしっかり伝わる良い神社である。

時間が遅く、また小雨模様で画像は良くない。しかし芸事の神様としてつとに有名で、ひっそりとあまたの芸能人が参拝に訪れるという。
古来は義経が身を潜めた時期もあったと言われる修験道場でもある。

 

 

この写真が参道で広さはないが、厳粛でまた程よい規模でもある。赤い鳥居の向こうに小さな石鳥居があるが、そこからは急な石段が迫る。段数は少ないが、登ったところで本殿に迎えられる。
この本殿がなんとも心地よい。芸能関係の方はここでコンサートや結婚式を挙げた事例もある。長渕剛と志保美悦子両人の挙式でも有名にもなり、堂本剛もここの参拝でいつも音楽的インスピレーションを得ていると公言している。
そう知らされると境内の巫女さんの所作が妙に美しく感じるのもご利益か。

 

 

閑話休題、、、、参拝後に急に天気が回復。まだまだ暑すぎる。そこでさりげなく目に入ったのが、かき氷屋さん。オーガニックカフェなどという流行りのコンセプトだが、甘党の私は先輩に誘われて、追随。
これがまた立派な邸宅で、いくらするんだろうと、懐具合=かき氷ながら、、、、全く商売っ気がなく、返事も返ってこないので勝手にカフェというか奥の座敷へ。

この豪邸は向かいに神社の神主さんの自宅だったとか。今は末裔の方がこうしてカフェを運営。しかし電話もメールも効かない。つまり弁財天社へ来た時、運良く開店していたらラッキーというカフェなのだ。
日々悪戦苦闘の私には羨ましい限りであるが、むしろ清々しい、、、八十八所巡りの茶屋ではなかなかこうはいくまい。お接待と言えば良い方で、逆に商売っ気丸出しもなくはない。まずは座敷からの庭園美を堪能した次第。

 

 

合掌
 

 

丹生川上(にうかわかみ)神社を参拝

❶水の神様の始まりとされる「丹生川上(にうかわかみ)神社:下社」を参拝。

吉野の里に、第40代:天武天皇が「深山吉野の丹生川に我が名で宮柱を立てれば、甘雨を降らせ、霖雨を止めれよう」と宣託されたことを始まりとしてしている。まだ当時は稲作において収穫を大きく左右する、雨の具合は天運任せでもあった。それでも人々は、雨の恵みと不運を祈ることでしかしのげなかった時代である。

朝廷の尊崇を集めた「水の神様の神社:水神宗社」として広く知られることとなる。しかし都が京に移ることでいつしか忘れられる存在になったが、明治維新以後、再調査も始まり現在のような3社を総称されることとなる。特に下社である吉野町の丹生川上神社は、神馬が保護されていることで、特に参拝者が絶えない。

★黒馬は日照りを止め慈雨をもたらす化身として。白馬は長雨を止め晴れを呼びこむ化身として。人々は二頭の馬を大切に今も保護している。

 


❷それが参拝理由?この神社の幕末期の宮司が「橋本若狭」、彼の供養塔や墓があることで。

天誅組は私の先輩:藤田院長(=東洋医学者)のライフワークで、治療のたびに史跡周りを同行している関係。今回は天誅組の参謀として、様々に活躍した地元吉野の傑物=橋本若狭をめぐる日帰りの旅。

橋本若狭(=旧姓 益田綱幸)は若くして有能ぶりが認められ、この吉野の丹生川上神社代々の宮司であった橋本家へ養子に出る。時は明治維新前、吉野という京の情報が得やすく、また自身が「二葉天明流」という柔術の師範であったことも重なり、天誅組の理念に共鳴して行動を共にしたのである。運拙く天誅組は敗走し、やがて潜伏先が割れ、彼もまた京都六角獄舎で処刑された。

しかし神社の本殿横手にはひっそりではあるが彼の顕彰碑があり、また車で10分ほど下った街道沿いの橋本家本家の建屋も現存し、そこからすぐの橋本家の墓には彼の墓が立派に建立されている。
 



❸また彼の出生地である五条市内には、益田家が今も立派な農園家として係累が続き、話によると彼を偲んでの句碑が自宅内にあるとかとも。

維新後の政府にとって、橋本若狭&天誅組は軽率の徒と卑下したが、歴史は勝者が都合よく書き残すことも多い。しかし末裔にとって彼の存在や意図するところは何ら恥じることなく、神社脇の顕彰碑はじめ、実子が後々に神社鳥井横へ大きな石碑を立てている・・・ことなど、この地において彼は傑出した人であったこともうか
がえるのである。

水の神社として、今、神河町や観音寺市の町づくりで「水」は大きなテーマ。またその関連で和歌山県橋本市が水研究の拠点として真摯に取り組んでいることも知り、なにやら縁を感じた次第。

また現在の下社に保護されている馬の囲い場は、昔、橋本若狭の柔術道場の跡らしい。藤田院長ともども少林寺拳法を基に様々武道にかかわった昔・・・私も自前道
場の運営に心血を注いだが、仕事関係や周辺道院との軋轢で少林寺拳法改革の夢は破れ、道場閉鎖という苦い経験がなぜか橋本若狭の生きざまにオーバーラップした。

 

 

合掌
 

全国屈指の山城、竹田城。単なる“マチュピチュブーム”ではない確かな足跡

❶要衝を抑えるための必然の城。

群雄割拠が国内いずこでもありながら、この播磨〜但馬間の要衝であった竹田は、1431年ごろにはすでに砦として認められている。
応仁の乱の巨頭:山名氏の旗下:太田垣氏が入城し7代を数えて戦国時代を迎える。

この但馬〜播磨は豊穣の地であり生野銀山も開発されて、豪族には必然と両国にしたい土地。織田軍の有力方面隊の羽柴秀吉軍もすぐさま攻略に動く。しかしまだこの時点では砦を強固にした程度。



❷太田垣氏から赤松氏へ、だが短命に終わる竹田城。

怒涛の行軍で但馬〜播磨を制覇した秀吉軍は、弟:秀長に竹田城を任せ、さらに但馬、播磨平定へと。一時期、桑山氏が駐留後、元々の地場豪族の末裔:赤松広秀が最後の城主となる。赤松家はこの地の大豪族ながら戦国期前に衰退し、ようやく秀吉によって日建てられ、総石垣のこれまでの砦構造から一変した強固な城へと変貌している。

 

 

総石垣で縄張りされた、三の丸、二の丸、南二の丸、花屋敷、本丸は規模こそ中程度だが、戦略的には巧みな縄張りで、かつ穴太衆のよる堅固な石組から、完成時には素晴らしい山城であったと推定される。秀吉軍の但馬経営の拠点としての価値が裏付けられる。しかし関ケ原の戦い以降、西軍に属していたことなどで悲運にも、赤松広秀は自刃、竹田城は惜しくも廃城となる。



❸映画の舞台に。石垣の現存の素晴らしさが、ドラマを生み出した。

・1989(平成元)年・・・「天と地と」で上杉謙信の居城:春日山城に見当てた、壮大な実寸スケールで城が完成。城郭部分は、岡山高梁市にある備中松山城である。YOUTUBEにも紹介されているが、大したスケール感である。よくこれだけのオープンセットを組みながら石垣が強固に保たれていることに驚くばかりである。主演は榎木孝明、渡瀬恒彦、他に浅野温子、薬師丸ひろ子など。

・2011(平成23)年・・・「あなたへ」で高倉健と田中裕子が出会うきっかけとなる場所。城跡での「天空音楽祭」で歌う歌手としての田中裕子。それに見惚れてのストーリーが始まるんだが。エキストラに地元の「和田山虎伏陣太鼓」のメンバーが出演して盛り上げているが、のちに「天空の城」と呼ばれるきっかけになったのが「天空音楽祭」の“天空”かも???しれない。

 




●長くなったが、これ以外にも1シーンではいくつもの映画やテレビのドラマで活用されている。

あまりこうした背景にはミーハーではない私だが、秀吉軍の引き立てにより領主として任され、ずいぶんと善政を敷いたといわれる赤松広秀。またこの城は桃山文化の象徴として築かれているが、落城したわけではなく残念ながらも、奇跡的なくらい石垣の遺構が完全に近い形で残ったのだ嬉しい。彼についての歴史小説「天空の城」=奈波はるか氏を読んでだが。



また山上の縄張りを歩く訪問者の足にとてもやさしい、歩道を布材で加工敷設した整備な随所で水分補給できる小屋の配置など、様々な配慮は、全国でもここだけではないかと思われる。城を保存するにも快適で安全にとの朝来市民の努力は敬服に値する。

 


さらに城下町のあちこちに、意欲的な訪問者への持てなし空間=カフェ、レストラン、資料館などが巧みに構成されている。改めて「天空の城:竹田城と朝来市民の融和」が見受けられた。
 

橿原神宮で気持ちを引き締める・・・案外と知られていなくて勿体ない!

いつもは「天誅組」の歴史探訪で同行させていただいている藤田先輩と、時間がないなかで気分転換もあり割と近いということで、懐かしい(=学生時代に大会会場として一度きり:しかも体育館のみ)橿原神宮へ参拝に。

 

 

●橿原市は奈良県の真ん中あたりに位置し、一時県庁移転の話も出たほど神宮を核とした市街の概要はは何とも雰囲気がある。まさに神域の薫りがする雰囲気である。

 

●橿原神宮は、明治23(1890)年に建立されているが、なんと神武天皇(初代)を祭神として畝山のふもとに鎮座している。神武天皇を奉っているとは、日本会議会員としては失格なレベルだ。ゆえに神域としての佇まいは何とも言えない風格と歴史の重みが伝わる。

 

画像にはないが、橿原神宮へ向かう街道は片道3車線の両サイドの並木が整備されて厳かな景観で本宮へ向かう。

駐車場からは左右に配置されたたくさんの数の灯篭の参道を見ながら玉砂利をじっくり踏みしめて本殿への参拝に向かった。

 

●五月晴れのこの日は、画像で見ると参拝者が少ないように見えるが、たまたま人の動きを避けて撮影したためで、ずいぶんとにぎわっていたが外国人が少ないせいか、厳粛で静寂の空間であった。

 

●実は2組ほど神前結婚式が挙行されていて、晴天でまぶしいく、列席者も暑くて大変だったかと思いながら記念写真の様子を眺めていた次第。よき門出に良き人生を過ごせますようにと祈念するばかりである。

 

●奈良県では春日大社と並んで、初詣客の多い神社だとか・・・さもありなん。ロケーションの良さに和風建築様式がマッチした、厳粛な神社として風雅さを醸し出している。

 

素人丸出しな感想で恐縮だが、40年ぶりの橿原神宮は日本人の心に染み入る神社ですね。合掌

 

 

シ秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・佐土原城、佐伯城、延岡城、鹿児島城のそれぞれ。

❶佐土原城・・・宮崎県宮崎市佐土原町にあった明治まで続いた、佐土原島津家の城。

 県庁所在地:宮崎市郊外に位置しながら、石高3万石の小藩。しかも日向の国で島津家?という不思議さ。

  さても城跡にしっかりとした歴史資料館が整備されており、見学するとそれはそれで味わい深い歴史を物語っている。戦国末期までは伊東氏の勢力が広く及び48もの砦を有し、佐土原はその中心地として栄えた。しかし島津家との戦いに敗れ離散、九州征伐における秀吉軍への軍功で、伊東氏は飫肥へ。関ヶ原の戦い以後、島津家一族として佐土原藩を立てる。つまり飫肥城と佐土原城は世が世なら、逆転していたということである。

 城域は資料館背後に隆起した河岸段丘的な山麓が該当する。わずかに痕跡を残すようだが、一般には資料館止まり。ただ伊達に続・百名城指定ではないことは思い知った。

 

❷佐伯城・・・現存するのは平地の城館:本丸御殿などがあったとされる大手門口を守る櫓門のみ。背後の山に山城を控えているが、万が一という備えにしかない。佐伯藩は歴史的には深い地域だが、江戸時代は2万石という小藩で、隣接する岡藩6万6千石に比べると見劣りがしそうではある。しかし現地に佇むと、ひなびた城下町には思えぬ城館周辺や歴史の名残に品格が感じられる。

往時を思うと山麓の多門塀や櫓が遠望でき、また手前の御殿や馬場が幾本もあり、さらに神社仏閣を防御の構えとしたレイアウトは、さぞかし秀麗だったように感じる。佇まいの美しさを醸している不思議さがある。

資料館も市規模以上に立派なもので、わが観音寺市にはない素晴らしい品性と内容の展示がある。日田から入封されてきた毛利家が明治まで領有した城下町、また明治後の西南の役では佐伯でも西郷軍と政府軍との激闘の歴史が残る。

 

❸延岡城・・・戦国期までは大友氏や島津氏などが割拠して、陣取り合戦の地とされるほど歴史の古い町。本格的には秀吉の九州征伐の流れで、功績により高橋氏が5万3千石で入封。以後、城下を整備しながら、有馬氏、三浦氏、牧野氏と目まぐるしく藩主や石高も変わり、内藤氏が150数年統治し明治を迎えている。縄張りも広く一山を丸ごと城域にしている感もあるが、むしろ戦いの城ではなく政治の中心地としての城づくりを各藩主はめざし、あまり戦略的な城には感じられない。目立つ特徴は、二の丸から本丸へ至る高さ19メートルに及ぶ石垣である。特に礎石部分の膨らみが目立ち、この礎石を外すと一気に石垣が崩れて1000人の攻め手を殺すという仕掛けになっていると伝わる。確かに高石垣の城は多いが、こうして礎石部分が異様に膨れた構造は珍しい。

 西南の役でも西郷軍の攻撃を受けているが、広大な縄張りも威容を示すのではなく親しみを感じさせる雰囲気がある。幕末、子弟・女子教育に力を入れた“知の藩政”を示す穏やかな城跡である。

 

 

➍鹿児島城・・・いうまでもなく歴史的にも有名な島津家の拠点。太平記の時代から明治まで無事に一族が係累を残せた数少ない大名家が島津氏だ。“島津に暗君なし”ともいわれるが、まさに鹿児島城は城とはどうあるのか?を示すユニークな事例かと思う。ちょうど武田信玄の躑躅ヶ館の考えと同じかとも。大手門を構えて、後は城館のみ。決戦は背後の山にある砦のみ。城は人・・・の名言通り、鹿児島城もそうした人が支えている城である。

  ちょうど2020年完成を目指して、御楼門(=大手門)と、御隅櫓と多門櫓など、江戸末期の姿へと復元が進んでいる。また明治百年を記念して御殿跡に建築された県の歴史資料館=黎明館も見ごたえがある。日本のようであり南洋的な島嶼部を広く領有した薩摩藩ならではの展示や雰囲気である。島嶼部や沖縄は、経済困窮する薩摩藩の圧政のもと、搾取や厳しい年貢で苦汁を飲まされて所ではある。島津家の華々しい政治や戦の舞台にのみ目を奪われてはなるまい。

  秀吉に屈し滅亡した北条家は、二公八民、三公七民という農民を考えた善政で支持されていた。早雲の家訓を滅亡まで5代にわたり厳守した政治もまた歴史に埋もれないようにしないと。織田氏によって滅んだ浅井氏も二公八民的な税制を敷き、領民から差し入れが来るほどの慕われ方だったとも伝わる。

し秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・唖然、峻険で広大。難攻不落とは岡城を言うか?

●城雑誌やWEBサイトの下見から現地へ行くと、紹介とのギャップの大きさに驚く。つまり平均的な紹介となり、偏りができないことは理解している。その点で岡城は出色、まずはこれでもか!という縄張りの広さや堅牢な立地条件である。

無論、広さなら熊本城、福岡城には到底及ぶべくはないが、石高にしてはなかなかにすごい。戦国期を伝える山城系ため町割りからは離れざるを得ないが、意外に山城ではなく隆起した河岸段丘的な台地に立っている平山城的な感覚だから余計にそう思える。中川氏が明治維新まで14代にわたり領有していた。

 

●駐車場から拝み見ても段差のすごさが伝わり、到底昔の兵装では陥落させることはできないと思う。山城の場合、本丸以外の出丸=有力家臣が独立的に守りつつ、谷を挟んで連携するが攻められ方次第では孤立しやすい・・・岡城はそうはならない。ほぼすべての出丸がフラットにつながり臨戦態勢がとれる。何より山の形状に沿った縄張りは、大手門口、七曲り口、下原門口などの登城口を突破しない限り、垂直の崖によって攻略は不可能だ。

 南九州の城は砦クラスでもこうした河岸段丘台地に構えるところが多い。野戦に強いイメージなのは、籠城され攻め手の犠牲が大きくなるのを避けてきたのかとも。

●高石垣で各出丸が構えられているが、特に紹介写真で有名な二の丸石垣は、屏風折れのように横矢掛けと堅牢さを誇っている。観光ガイドが大変上手な方で、お聞きするとこの石垣用の石はすぐそばを流れる白滝川から切り出したものだとか。持ち上げる労力から、切込ハギ組みなど、精緻な設計力を伴っていたことがわかる。

 櫓一つ残存していない城だが、九州を代表する名城、さすがに百名城登録である。登城に苦労はないが、現地にたたずむと城マニアを堪能させる空間であることを再認識。

※余禄だが、岡城の観光用パンフは、巻物式で手軽なうえ、説明も行き届き観光客に人気。

 さらにこの岡城のある竹田市は、2年間で移住者を110数組迎い入れている移住率トップクラスの自治体でもある。

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