• 2020.02.08 Saturday
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有力武将の系譜を持ちながら、何となく残念な城・・・雄姿を再び?!

大和郡山市を奈良県の中核都市に位置付けるのは、一にも二にも郡山城の存在感、歴史的背景抜きには語れないだろう。しかし一般の方は「日本一の金魚の町」という認識かもしれないが。戦国末期から織豊時代〜江戸時代初期には堂々たる城郭規模と重要拠点として着目されたところだ。

 

もう4度目くらいになる大和郡山城への訪問。これほどの城が案外と認知度が低く、再現性も乏しく訪れるたびに残念だと思う。ただ市や県による石垣復元事業は常に行われていて、決しておろそかになっているのではないのだが。以下、駆け足で画像点数も少ないが、少し歴史を紐解いてみたい。

 

❶筒井順慶・・・京都を目指す勢力にとって大和郡山は重要な交通の要衝、軍事的な利点を持ち、あまたの武将がここを通り抜けていた。戦国末期に松永久秀と覇権争いを起こすが、敗れたものの織田信長よりこの地を預かる。そののち明智光秀軍の与力となったが、山崎の合戦では秀吉軍との趨勢を傍観したことで「洞ヶ峠=日和見主義」という例え言葉を生んだ。その後、病没。ただ元が興福寺の僧侶から還俗した武将だけ、風流に富む文化人でもあった。

 

❷豊臣秀長・・・秀吉の弟。秀吉一族では出色の能吏&武将で、彼がもっと長生きしていれば秀次の事件、朝鮮出兵など後に秀吉の価値を貶める暴挙は起きず、豊臣政権の継続ができたのではと思われる。

秀吉との二人三脚で天下取りを達成しながら病没。筒井順慶の後を引き継ぎ、補佐役として100万石を領有した。この時の城づくりが現在の基盤となっている。秀吉が“関白”で秀長は“大納言”。公家では関白に次ぐ官位が大納言で、いかに秀吉の信頼も厚く、多くの武家にも支持された希有な人だった。

 

❸柳沢吉里・・・甲府15万石から転封、実質の藩祖。秀長没後は、水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平と目まぐるしく領主が後退したが、どの武将も歴史上に良く知られた名前だ。徳川譜代の城主によって完成を見たと言える。吉里というとピンとこない人も多いが、第五代将軍:綱吉時代の老中:柳沢吉保の長男である。江戸時代、トップ官僚:老中職に就いた者は、将軍没後は権力の座から引きづり降ろされ悲哀を囲うが、柳沢家は無事に明治まで続く。

※優れた文化人であり、善政を敷いたことで評価が高い。特に吉保・吉里親子は、甲府藩主として善政を敷いたことで、大和郡山への転封時には年貢の完納と見送りの列が続いたと伝わる。

★金魚の生産・日本一のとっかかりも、吉保が奨励したことに始まるとか。

 

 

■せっかくの城訪問でありながら全く縄張りや遺構に触れていないが・・・これだけの歴史的背景がありながら、城跡の整備が今一つ。苦言を呈して恐縮至極だが・・・今の大手門櫓や多門櫓のようにどんどん復元〜整備していただければ、残念とは思わないのだが。合掌

「日本三大山城:高取城」とは?・・冬場で納得!!、夏は頂けない?!

日本の廃城=特に山城に多い・・・中でも有数の規模を誇る山城が奈良県の高取城。現地はすでに3度目だが、昨年冬場に駆け足で訪ねたことで思いを改めた。

現地では町役場が「日本一の山城、高取城」の幟がはためいている。過去二回行ったときにはこういう派手さはなかった。過去、初夏や春先だったため、草生して繁茂さもきつく、また看板も乏しく、当時は豪雨後で各所に崩壊が見られ、本丸あたり以外は見るべくもないのというのが本音だった。これで三大山城はどうなの??という感じだった。

 

 

●昨今の城ブームやトレッキングブームで来場者は多い!

久しぶり、しかも冬場の来場は初めてだったが、町が旗を振ってか?PRの幟に少々幻滅気味で登城口へ。案外と人が多い??いつも壺坂口ばかりの登城なので、てっきり壺阪寺参りのついでの方か?と錯覚も・・・いるわいるわ!カメラ片手のマニアも、またトレッキンググループも。

 

さてと登り始めると今回は各所が整備されているのに気が付いた。さらに冬枯れで途上ルートの雑木が枝だけになり見通しが良い。以前の崩壊箇所の整備ができていて、登りやすさを感じた。

高取城は本丸あたりまでは石垣があまりなく、単なる山城感は否めない。しかし整備が整うと程よく各郭の縄張り感がうかがえて、興味がそそられながら本丸へ向かうという仕掛けだ。

 

 

 

 

●落ち葉ですっかり見通しが良く、雑草も枯れ、本丸の石垣群が見ごたえ十分に!

あらためて石垣の構造、そのスケール感も見通しが良くなることで増大し、雑草も枯れていて歩きやすく縄張りがよくわかる。なんとしたことか?初夏や春先に汗をかきかき登城した時より、はるかに素晴らしいじゃないかと同行の先輩と笑いあった。

まだ樹木が大きく、本来の高取城が整備された時とは見通しは違うが、これらの林立した木々がまだなかったころの高取城なら、大和平野が遠望できる立地にあったことは容易に推察できる。

 

 

 

 

 

高取城が本格的に整備されたのは、豊臣時代、大和郡山120万石を預かった豊臣秀長の支城として、重要さもっていたからである。筒井順慶⇒脇坂安治⇒本多利久で整備を行い、江戸時代から明治までは⇒植村家が治めた。

★高取城の往時は、奈良学園大学やユーザックシステムの労作で現実のイメージが再現されている。現地ではQRコードで再現を見ることができるから、是非、試されるとよい。このまま残っていれば確かに日本一の山城と宣言しても異議はないが。とても25000石レベルの城ではない。

★幕末に維新の旗揚げをした天誅組は、高取城を説得開城させ天皇の行幸を得て、暫時の皇居にしようと考えたのは、やはりかなり見通しが甘かったかと痛感させられる。

 

 

 

●城下町の風情も残る・・・そこは全国的にも珍しい城下町の形成であった!

城下の中心地は町並み保存され、薬業で栄えた商家や製造元屋敷、また侍屋敷が点在し風情を醸しているが、町名は各地の名前が冠されている。代表的なのは“土佐”で土佐出身者が多くいることで、城下のメイン通りで顕著である。

★大和朝廷の都づくりに全国から人工が集められて建築作業に従事。しかし帰りの旅費が出なかったためそのままこの地に根ずいたという気の毒な話。地図を見ると明日香村など一駅感覚、こんなに高取は都づくりに近い距離だったことを知り、妙に納得した次第。

★漢方薬草の最大産地で、現大手製薬メーカーの発祥地だったりもする。今も町内に大手メーカーのOEM工場や家業として製薬業を営む事業所の工場が多い。道理で街並みから醸す雰囲気が豊かなはずだ。

 

遺構が少なく残念な山城ではあるが、風情や歴史的背景を見直すと、必ず訪ねてほしい城下町であることは言を持たない。合掌

新春第2弾:鳥取城

■戦国期から徳川期まで、戦史に満ちた鳥取城。江戸期は有力親藩として!

鳥取城は因幡地方の有力拠点として様々な戦いの歴史を刻んでいる。築城の一はほとんど変わらない分、いかに多くの戦が繰り広げてきたか、そのエピソードは鳥取
城の存在感を高める。

 





❶戦国期・・・目まぐるしく陣取り合戦の様子を停止、様々な勢力が橋頭保を築くべく奪い合いの歴史が続く。

・山名豊国vs羽柴秀吉=秀吉の中国地方制覇の流れで、山名豊国が守る鳥取城は攻撃を受けるがあえなく敗退。

 再度、毛利方:吉川経家が占拠し、二度めの羽柴軍侵攻となる。これが「餓え殺し」といわれる兵糧攻めでの落城である。

・織豊時代は、豊臣側の宮部継潤が入城。関ヶ原の戦い前後の立ち位置で、東軍から攻め込まれる。

 





❷藩の始まり・・・徳川幕府親藩の位置づけで、池田長吉が入封。まだ6万石の大名であったが、現在のような近世城郭に変化していく。元和3年、池田光政が因
幡・伯耆32.5万石で入封。以後、鳥取藩としてふさわしい規模に拡張整備されて今の状況に至る。天守閣は現存しておらず、歴史上、築かれていなかったとか?代
用の三重櫓があったとか、現在もいろいろ議論が残るようだ。ただ明治期の写真には天守代わりの三重櫓が記録され、他は二重櫓や菱櫓が映っていたが、今日では縄
張り規模の割に遺構は少ない。




❸江戸時代から近代・・・今も大半にふさわしい縄張りとその石垣の威容。しかし歴史においては崩落が多く都度強化された故の遺構でもあったようだ。面白いのは鳥
取城の石垣は、その多くが縄張りに取り込まれた久松山からの採石でできていることである。現在でも二の丸(=御三階櫓の後方)にその跡がうかがえる。また菱
櫓と呼ばれる東側の守りに至る石垣は、内側に湾曲する組み方で全国的にも珍しい。

更に天球丸と呼ばれる一角には球形の石垣=巻石垣と呼ばれる・・・が、基盤強化のために取り込まれ 、これは全国で唯一である。鳥取城は石垣研究の宝庫とか
で、登り石垣や石組工法の変遷も検証できる点でも特長だとか。
 




➍近代から現在・・・仁風閣、県立博物館をはじめ、ゆったりとした三の丸界隈は歴史の風情が漂う。貴重な施設群は失われているが、鳥取城は県庁所在地として、ま
た大藩:池田家の色合いを残したまちづくりが今に残る。今回は、年末に父の死去によって、不肖の息子はその片付けごとばかりで、こうした城巡りも三代そろって
の旅にもならず、しかも一日で米子城もと欲張ったため駆け足となり残念であった。
 





★ユニークなのは鳥取市は珈琲消費量が全国2位であり市内あちこちでカフェが目立つとか。2016年、鳥取城で「世界コーヒーサミット」が開催されたように、国
内でも冠たるコーヒ―文化都市なんだそうだ。

神戸が長い私には意外な感じだし、つい2年前???スターバックスが出店し、「鳥取にはスナバ(砂場:砂丘)はあるがスタバがない」との迷セリフが有名になった
が、今回は「コメダ珈琲」も出店していて驚いた。でも黒船来る!では鳥取らしい珈琲文化が失われないよう思った次第。
 

新春の城巡り:第一弾:山陰の名城を行く「米子城」

■「米子城」・・・2つの天守を持った珍しい名城の跡を辿る!

山陰でも大きな都市:米子はご存知の方も多い。しかし米子城を訪ねる人は少ないかもしれない。昨今の城ブームで若干増えてはいるだろうが、そのブームとは無
縁で来た私には、どうしても見ておきたかった。東に戦エピソードに事欠かない「鳥取城」、西には国宝の名城「松江城」、また近郊に戦国期の一大名城「月山富田
城」が存在し、派手な戦エピソードが知られていない米子城は存外に損をしている。

 


 

 

❶「結論、石垣の魅力にあふれた、続・百名城では惜しい名城だ!!」

米子城の本丸(=天守址)から周囲を見回すと山なみと海が臨め、平地の広がりから古来より豊かな土地柄で、戦略的にも重要な交通路であったことがわかる。応
仁の乱以降は全国いたるところで、群雄割拠、下克上が始まる。当然、米子も山名氏系と細川氏系の争乱の地の1つであっただろう。戦国期は月山富田城を本拠とした尼
子一族の勢力下だったろうが、毛利氏の台頭で有力親族の吉川広家によって本格的な拠点化が図られた。

⇒ この時に4重天守が築かれたとされ、後々も4重櫓として残されることで、米子城の特異性がうまれる。まだ安土桃山時代は即戦の色濃く大きな規模でなかった。

 




❷領主代わりに遭遇しつつ、城としての完成度を高める。さすが山陰一の名城。

慶長6年に伯耆18万石の大名として、中村一忠が入封となり現在の縄張りに近い規模へ。以後、加藤家が伊予大洲へ転封となるまでは6万石城下に。こうした城
主の入れ替わりごとに城の完成度が高まる。中村氏の改易後は加藤貞泰が入封し18万石から6万石の規模に。改易後は減石がとなるが、当時大名候補は多く領地の石高
云々よりも領地任官が夢だったかもしれない。

⇒ この中村氏の時に5階建天守が築かれた。しかも既存の天守を残し小天守代わりとして。見事な高石垣の上に二つの新旧天守がそろう姿は、山陰一の名城にふさわしい威容だっただろう。

 

 


❸これからが惜しまれる定めに。鳥取藩の支城へと格落ちも城としての評価は残り続ける。

秀吉全盛期は豊臣側だった池田家(=恒興)も、長男・輝政は徳川幕府側(=家康の娘:督姫を正室に)になり、大出世となる。子輝政は姫路32万石、その子らは忠
継:備前28万石、光政:因幡伯耆32万石となっていく。その流れで、伯耆は独立藩としてではなく鳥取藩統治下として、城代が置かれて支城となる。寛永9年から
は家老の荒尾氏が代々明治時代まで管轄した。徳川幕府時代、一国一城令の元、大半の藩が領地に支城をもてなかったが、鳥取藩は池田家だったため認められていた。

⇒ 二つの天守を持つ美しく規模もある米子城は、何度か鳥取藩の本城として検討されたといわれる。


 


➍最後で恐縮だが、とにかく石垣が素晴らしい。各所に工夫とスケール感が漂い満足満足!

特に本丸に近づくにつれ、近世城郭としての戦略性や、シンボルとしての美しさなど、まさに名城と呼ぶにふさわしいレベルである。経路もわかりやすく、折々の解説
板もあり=ただ説明板の損傷や日焼けはなんとかしてほしい・・・見ごたえ、歩きごたえ十分である。

⇒ 城跡には割と数多く行っている方だが、天守址からの見晴らしの良さは全国上位に位置すると思う。海、山、平野が手に取るようにうかがえ、朝日や夕日の名勝か
もしれない。ぜひ一般的な知名度ではなく、訪問に値する城として米子城は一押し!・・・である。

 


 

「死して皮(=飛び切り極上の著作という皮)を残す」・・・葉室麟という傑出した作家

福岡に生まれ、福岡で育ち、福岡で死す・・・。時代小説ファンでは傑出した作家であることは周知の事。しかし一般的知名度は、藤沢周平氏ほどではないかもしれない。時代小説の魁偉:飯嶋和一とも世界観が違うが、私は大好きで感銘を覚える作家である。
多くの傑作を残し、その業績や人柄を惜しまれ2017年に没した。“西の藤沢周平”とも評されるほど、北部九州=豊後、豊前、築後、筑前の江戸時代を舞台にした時代小説の作品群は、まさに正鵠を得た敬称かとも思う。
 
●葉室流の傑作・・・「蜩ノ記」「秋月記」は私的には彼の作品の真骨頂だと思っている。理不尽、不条理を描いて右に出る作家はいないという、重くも暗い作品も多い。しかし読後は清涼であり背筋を伸ばしたくなる。凛とするといってもよいか・・・地方にあっても知性や品性は磨かれる。「霖雨」「千鳥舞う」などは国文学者、画業者の生き方、存在感とともにその深さに強さも感じる。また案外と女性が主人公の作品や女性の視点での作品に、秀作が多いのも特色である。
 
●果てる者、朽ちゆく者、破れし者のあわれと、それも孤高、高潔な意思の人物・・・を見事に描く。この点で年の最後を飾るにふさわしい、12月=たった1回の社内ブログの言い訳である。これには11月末に死去した父へのレクイエム(鎮魂、悔恨)でもあると思う次第。
 
●人はどういう時に、どういう本を読むのだろうか?・・・今回「葉室麟」の作品で挙げたのは、「弧篷のひと=小堀遠州」、「黒龍賦=海北友松」、「津軽の双花=辰姫と満天姫」の3作である。


★「弧篷のひと」・・・茶人として作庭家で歴史に名を成す。が、戦国武将であり殿様でもある。武家茶道の聖祖:千利休の十大弟子の一人でありながら、作庭(=ランドスケープ)家としても一流、何より武家である。彼の生涯を描くには、あまりに当時の歴史上の有名人が登場しすぎ、目まぐるしい。彼の生涯がかすみそうになるが、多くの武将や権力者:天下人を通じて、また多くの茶人が辿る数奇な運命も含めて、まさにすさまじい人間模様を描いて緩みない。


★「黒龍賦」・・・織田信長に、羽柴秀吉に滅ぼされた近江:浅井氏の3本柱といわれた海北一族。敗軍側の習いとして一族の多くが処罰されたが、若くして仏門にいた友松はなんとか生き永らえた。武将としての天秤を持ちながら仏門で悶々と修行。武を怠らずいつでも還俗して武士として戦場に立つことも夢見ていた。ただ運よく画才も相当なもので、時の画壇:狩野派に警戒をされるほどの画力も併せ持った。友松を取り巻く武人や絵師の盛衰が面白い。


★「津軽の双花」・・・石田三成の娘:辰姫(=幼くして北政所“寧々”の養女として育てられ一命を残す)は津軽藩二代目:津軽信枚に嫁す。しかし徳川幕府により満天姫(=家康の養女として育つ。安芸の福島家へ嫁ぐも離縁させられ)との婚姻で正室の座を追われ、飛び地の領地:上州大舘で。大舘御寮と称される。長男を生むことで、早世したが満天姫の配慮でその長男を3代藩主へ押しやる。


●この3作品で特筆されることは、戦国期から徳川幕府の黎明期にかけて、権力者や武将の生きざまと、絵師や茶人の世界観が見事に描かれ、そこには凄まじい人間関係が綾なしていることである。特に主人公ではないのだが、3作品とも「明智光秀」、「石田三成」という、いわばこれまでの歴史上ではネガティブなイメージだった二人が、様々に関係してくるから面白い。すべて当時は敗軍〜負け戦の武将ながら時の人。400年以上たってもネガティブな評価、悪人としてこれまで語られてきた。
 
ところが来年からのNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は、明智光秀である。当然「石田三成」も少しは出てこようか?信長を本能寺に討った中心人物は明智家家老の斎藤利三。すぐさまの弔い合戦で秀吉軍に敗れた。しかし処刑場で斬首され晒された首を哀れと感じ、奪取したのが海北友松。その斎藤利三の娘が後に三代将軍家光の乳母となる春日局。
石田三成も家康に斬首されたが、息子は炎上する大阪城から脱出し津軽へ逃げ延び、やがて家老職へ。娘もその縁で先の正室へ。
 
●絵師の世界も狩野派が、権力者の信長や秀吉はじめ、家康そしてそれにおもねる各寺院や武将によって、独占的に絵の注文を得、台頭し圧倒的に画壇を独占した。しかし尾形光琳率いる琳派や、長谷川等伯の一族、個人として孤高の境地を開く海北友松、伊藤若冲、俵屋宗達など狩野派に目の仇ともされた。長谷川一派は中でも最も辛酸であった。
 
 
長くなったが、どうだろう・・・表面的ではつながらない、当時の武将や芸術家の人間模様と関係図から少し私の言いたいことを読み取っていただけただろうか?私には今まさに葉室麟氏の描いた作品の世界観と重なるのである。
経営者としての今やこれからの悩み、デザイナーではなく絵描きを選ぶべきだったかの反省、あれこれと打ち込んでこの現状の忌々しさ・・・“敗れし者”と重ねて、葉室氏の作品の3作がとてつもなく深く痛切さを伴っての読後だったのだ。死去した父の戒めを思い起こされるこの頃でもある。合掌

 

 

「天誅組の有力志士・・伴林光平(ともばやし みつひら)」を巡る。

天誅組の軌跡をたどる企画も終盤を迎えた。啓発してくれる藤田先輩との行脚も、珍しく先輩がまだ辿っていないところを巡るという珍しい流れとなった。

私が頚椎に不調を生じて、先輩から治療と併せて先輩が懇意にされている整形外科の仲谷医師のクリニックの治療も受けている関係で、拾っていただく場所とその近くでということで。

 

❶伴林光平は現在の藤井寺市内にあった浄土真宗・尊光寺が実家で、そのため幼くして宗教、国学、和歌などに長じて、成人しては八尾の教恩時の住職となっている。長く寺で国学を講義し、南河内では多くの弟子を育成、名声を得ていた。まさに純粋なる郷士でもあった。

天誅組の起挙にも心を寄せて、変が始まってから後続することとなる。彼の参加により天誅組のイメージも上がり少なからずの弟子たちも賛同し行軍にも参加していることで、彼の人望がうかがえる。

伴林が志士を連ねて参戦してのは、五条代官所の襲撃後からは天誅組内の行軍での記録方を務めている。敗走後に捕らわれの身となり京都の獄舎入牢後、斬首刑に処される。

★彼が従軍してからの経緯が、獄中録「南山踏雲録(なんざんとううんろく)」として記録され、現在に紐解かれている。

 

 

 

 

 

❷巡回のコース・・・天誅組の決起は通信手段がなかった頃。しかも幕末、尊王攘夷論が右往左往するときにだけに、義挙でありながら、後説、毀誉褒貶な伝えられ方も多い。しかし彼の人となりは評価が変わらず、いたるところに石碑が残されている。

・八尾市内の顕彰碑(=教恩寺址)・・・かなり大きいがこれこそが彼の八尾における存在感であり評価を示している。住宅街に囲まれている小公園内にそびえたつ。

・八尾市内の墓碑(=玉祖神社の隣接地)・・・一見、目立たないがこの地では有名は玉祖神社鳥居前の敷地内に。天然記念物の長鳴鶏が飼われている珍しくも雰囲気のある神社。

・伴林氏神社(=藤井寺市)・・・由緒ある神社で、西の靖国神社ともそ称される。彼が伴林を名乗る縁のある神社。この近くにも石碑がある。

・西願時址石碑(=羽曳野市)・・・彼が住職をしていた西願寺の跡地の遺跡碑。住宅と工場が密集したところに忽然と残っている。

 

 



●天誅組を巡るミニトリップは、いろんな意味で啓発を受け、主治医的にもお世話になっている藤田先輩に誘われて、関心だけでミーハーレベルで同行していたこともある。そろそろ終盤となり、天誅組の著書としては近著である「実録 天誅組の変」=船久保 藍 女史の著作(=淡交社)をお借りして読んだことで、これまで以上に天誅組の価値が再認識された。

確かにお互い限られて時間の上、先輩は幾度となく回っているので、私のような初心者で場当たり的なレベルでは、俗にいう一般論での認識がそう大きくは変わらなかった。しかし終盤を迎え、天誅組を構成している人となりを丹念に見返すと、純粋に維新を目指したこともでうかがえる。歴史評価は常に残酷で、今日まで暴挙とか軽挙とか記録され口伝されてきたことの危うさ=史実としての検証が一方的に・・・は、よくよく指摘される。

★地道な歴史研究家よりは、派手な歴史小説家の作品が目立つことで一般論が醸成されて、歴史がゆがめられてはいけないのだが・・・NHK大河ドラマはじめ歴史ドラマはあまりに偏りすぎだ。宮本武蔵、坂本龍馬などは個人的には、相当無理があるなぁと、大作家には申し訳ないが・・・と。


まさにそういう意味で天誅組も評価が低い事変なのだが、彼らの舞台を近くする大学で学んだものとして、せめてきちんと振り返ることは大切だ思う。それこそ今に続く日本を残してくれた彼らへの供養でもある。次はもっとも身近に位置する「水郡膳之佑(にごり ぜんのすけ)」を辿ることになりそうだ。

(C)住みよい街全国ランクトップ:富山は文化都市。

それだけに「残念な城:富山城」だが市街地景観にはかなりマッチしている。

冒頭、失礼な書き出しで県民〜市民にはお詫びから入る。富山はこれで二度目、20数年前、商工会議所の新潟全国大会の帰り道で、同級生がある企業の支店長として勤務していたので少しだけ立ち寄った。その時も富山城は訪問し残念だなぁと思いつつも、今回は展示内容が素晴らしく整備されていて、富山城の歴史は無論、富山の沿革がつぶさに知れて、この点では大推薦である。

 

❶城好きとしては、佐々成正の戦国期から、加賀藩が何とか徳川幕府から嫌疑をもたれずに継続していく中で、利常が次男に立藩させて明治に至るまでが関心。つまり城の遺構のありようで判断しているマニアックな視点のなせるところ。逆に県庁所在地の市民公園として、また郷土の歴史を丹念に解説した資料館としては十分な施設であることは言を持たない。

 

 

❷徳川幕藩体制下で御三家よりも石高が大きい加賀藩は、昼行燈を装いながらも俊英だった3代藩主:利常が、表高120万石を超え、また実質もそれ以上という裕福な藩をつぶされないよう、富山藩10万石=利次(次男)、大聖寺藩7万石=利治(三男)に分地したことで生まれた藩である。領地として加賀藩を富山藩が分断している様子は確かにいろいろな弊害もあったかもしれない。本藩もそうだが表高以上に実質は恵まれていたし、歴代藩主も暗愚な藩主はいなかったようだ。ただ天災にはよく見舞われ復旧には難渋した様子や、加賀本藩から多くの藩士を移管したことで人件費が足を引っ張り財政面では苦労が絶えなかったと示されている。これは福岡黒田藩と秋月藩など支藩との関係はどこも似たり寄ったりだと言えなくはない。

 

❸歴史と文化にあふれ、何ともさわやかな街である。訪問したのは真夏日を少し過ぎ、20年前は秋口でともに良き時候。冬場ならこうは言えないのかもしれないが、程よく様々な魅力を持つ富山市は、流石に定住率全国有数であると感じる。令和の命名者と騒がれる中西進先生のかかわりもある「高志の国文学館」もあるが、先生の「ふくろうの会四国副支部長(=役立たずな副支部長失格者)」としては寄る間もなく申し訳なかった。

 

●最後に・・・息子の百名城&続・百名城のスタンプ押しの付き合いもあるが、ここらはどうしても行きたかった。

金沢城以外はマニアックだと思う。しかし日頃、読み親しんでかつ尊敬する時代小説家の上田秀人氏という方がおいでる。時代小説の大ヒットメーカーで有名だが、この方の13巻続くシリーズ「百万石の留守居役」は大のお気に入りだ。発刊前に加賀藩?では関心としてどうだろう??と私自身よりも世間一般を心配したが、さにあらずその評価は毎号高まっていると思う。このシリーズの愛読者なら,今回も強行軍だったが、その目的がご理解いただけるかと。小説の巻ごとのストーリーを思い起こしながらの城巡りは、息子とは別のひそかなオヤジ趣向であった。

(B)一代限りの幻の城「高岡城は、城を残さず伝統・文化を残す」

 

戦国時代の英傑としてその名をはせた前田利家。まつ夫人との夫唱婦随が有名で何度もドラマ化されているが、この息子:利長も俊英だ。さらに金沢藩3代目の利常も有能で、江戸末期まで見事に百万石を削られもせず、領地替えもなく生き延びさせたのは創藩より3代において藩主が有能だったからであろう。

 

❶一国一城令の前に、領地守護をかねて高岡の地に前田利長が隠居城との名目で設置したのが高岡城。

現在は、本丸と二の丸、三の丸の堀を残してほとんど公園化しているので、あまり優れた城としての価値はわかりにくい。遺構も一部の石垣以外、単なる市民公園のレベルで城好きには残念である。しかし動物園、体育館、神社、彫刻のある公園とまさに高岡市民の憩い場である。

利長が加賀藩の永続や侵略に備えて自らが城主として構えたが一国一城令で廃城に。その限られた城下町時代にとてつもなく高岡は、現在の隆盛につながる基礎を得ている。

 

 

 

 

 

❷菩提寺:瑞龍寺にも2代藩主:利長の加賀藩永続を願う思いが残る。どの城下町も城廓以外には寺が防波堤(=防戦拠点)として配備される。

瑞龍寺はそこまで徹底していないが、利長公を尊崇する中で今日まで営々と続く曹洞宗の大名刹である。特に全国でも珍しいすべての伽藍構造が左右対称というのがなんとも美しい。禅宗だけに質実剛健な構造美はよく知られるが、この左右対称形は異彩を放つ。一国一城令で高岡城が廃されても、いざとなれば瑞龍寺が要塞になるという江戸初期の武将の気概まで感じさせる。

 

 

 

❸歴史郷土資料館に、高岡の真髄が示されている。富山県は定住化比率が全国有数の恵まれた県であるし、高岡市は県内2位の規模を誇り約17万人。資料館は残念ながら古めかしい=他の人口規模の自治体と比べるとちょっと残念レベルであるが、内実は豊かで魅力ある高岡が様々に紹介されている。特に地場産業の発展は特徴のある業態が、幅広く紹介され、改めて個性も感じ、まさに地場産業の模範例である。

 

 

 

 

 

★鋳造業(=それこそ前日の兼六園にあった日本武尊像も。岡山駅の桃太郎群像、小豆島のオリーブ公園の記念の鐘、高知駅の維新群像など四国もご縁が深い)、また高岡大仏も昭和の作だがイケメンで有名・・仏壇製造・・漆器・・アルミ産業・・インテリア製造・・文具・・運輸業など多彩かつ準大手〜大手規模まで産業構成に恵まれている。

★何よりドラえもんはじめあまたヒット漫画で知られる「藤子F不二夫」氏の故郷。市内を走るトラムのボディや彫刻の置物などいたるところで出会う。これらを背景にした高岡祭りは、出車も優美で趣がある、是非ともその頃に訪ねてみたいものである。

 

 

 

(A)北陸の雄「加賀藩の本拠地:名城・・・金沢城」

金沢城と兼六園は、日本人のほとんどが名前を知り、また訪問もしている有名観光地である。当日も北陸新幹線効果が冷めやらず、外国人客も含めて、もう渋滞か!というほどの人出だった。今更ながら金沢城?!なのでブログにするのも気恥かしい。名古屋から車ででも、名古屋環状〜東海北陸道で3時間少々、あっという間の気がする。

 

❶駐車場の関係で先に兼六園へ。日本三大大名庭園ともうたわれ、その規模は随一かとも。いやはや大変な人出でしたが、隅々まで丹念に回っているのは案外と外国人(=ヨーロッパ系)。ここでは写真も解説もしないが、昭和に建立された日本武尊の像が気になった。翌日の高岡城巡りで関連を知った。また城巡りに時間がかかりすぎ、21世紀美術館もあまりの順番待ちでキャンセル、県立歴史博物館はガラガラでじっくり見れて、施設的にも赤レンガ倉庫づくり(=元陸軍の倉庫を転用)でとてもよかった。しかし隣の県立美術館はもう時間切れ。

 

❷金沢城は全国的に有名であるばかりか、その縄張りの広さ、それぞれの多門櫓、隅櫓の豪華絢爛さは秀逸な城で、こればかりは姫路城をも凌駕している。江戸時代に大火災で天守閣は消失してと伝えられ、元御三階櫓跡が天守閣代わりと伝わる。明治以降は陸軍本部が置かれた関係もあり、太平洋戦争での空襲で多くの遺構を消失して現在に至る。特に見どころではないが、本来の手つかずで埋もれた感のある本丸は、ほとんどの観光客は行きたがらない。うっそうとした森のようで遺構が少なく魅力はないが、下城し21世紀美術館方面から振り返ると3段くらいの高石垣が見える。つまり往時の天守閣の立つところである。ほとんどの人はそのすごさには思い及ばない。

 

❸見どころ解説は観光資源としてあまりに有名なので端折るが、他の大城郭、大名城にない金沢城ならではの特色のみ記しておきたい。

★往時も現在の再建遺構でも「なまこ壁仕様」である・・・火災防止や火矢の攻撃に堪え得るよう、白壁に燻し瓦を埋め込み、周りを漆喰で固めていること。その手間の分だけ秀麗で統一感とともにリズミカルな上、何とも気品が漂う。新潟の新発田城、熊本の人吉城の塀に一部、そうした施しは残るが、あの規模の城で全での隅櫓、多門櫓にというのはあり得えないレベル。

 

★屋根がすべて鉛板葺き仕様であること・・・凍害に弱い燻し瓦は寒冷地の城には不向きで、銅板葺きや萱葺きが多い。特殊な例では越前丸岡城のような地場石材を削った屋根瓦も例もある。軽くて強い、またいざという時はその瓦を溶かして、鉄砲玉に仕立て直せるとかともいわれる。年数が経つことで鉛が白い粉を吹き、藩士の健康に悪影響もしたそうだが・・・白々と輝く様は美しい。

 

 

★いたるところに唐破風(=出窓の装飾)が採用され、その意匠性では金沢城が突出している。もともと唐破風は権威の象徴、しかも格がかなり高い場合に限られ許されていた仕様である。江戸時代に唐門・唐破風が許される藩屋敷や仏閣は限られていた。軍事拠点の城にここまで華美を施すのは、戦仕様を想定するよりも政庁としての機能をアピールすることで、百万石を守ろうとしたり金沢文化を奨励するためのシンボルにと考えたのだろう。

 

★出窓や窓の格子内側には銅板が巻き付いている。ガラス窓のない時代、また窓に雨戸がない場合は、吹き込んだ雨滴を逃すために水抜き用に竹管が埋め込まれ、排水処理されている。しかし金沢城はすべて内側に銅板を巻いて格子木の腐食を防いでいるのである。何とも手の込んだつくりである。

 

★菱櫓という見通しの良い櫓構造・・・すべてではないが、籠城後にやむなく攻め込まれた折、“〇〇の丸”と呼ばれる兵士の待機場所、もしくは敵兵を集めるところ。これに対して菱形の櫓なら見通しが良いこともあり、わざわざ平行四辺形的な形で櫓を構えている点も大変貴重な見どころ。大工の力量に大きく左右されるが、再建した櫓でつぶさに事例展示し、その技術力を解説している。

 

城好きにはたまらない魅力にあふれ、わざわざ訪問する価値は十分あるのだ。しかし前田利家、利長親子は一体、予算をどう工面したのだろうか?現在の予算にして450億円くらいといわれる安土城の建設費よりも多くかかってるはずである。大坂城を築いた秀吉は、当時500万石程の収益を誇っていたのでわからなくはないが。借金嫌いの前田家、まつ夫人が賢夫として名高いがまさに真骨頂を見る思いだ。

天川村の弁財天

●芸事の神様、、、、天川村の弁財天

吉野村の隣、天川村には昔から芸事の神様と信仰深い神社がある。
正式には天河大弁財天社というようだが、鄙びた住宅街にまっという感じで佇んでいる。広い公道から少し入り組んでいるが、そこはもう別世界観もしっかり伝わる良い神社である。

時間が遅く、また小雨模様で画像は良くない。しかし芸事の神様としてつとに有名で、ひっそりとあまたの芸能人が参拝に訪れるという。
古来は義経が身を潜めた時期もあったと言われる修験道場でもある。

 

 

この写真が参道で広さはないが、厳粛でまた程よい規模でもある。赤い鳥居の向こうに小さな石鳥居があるが、そこからは急な石段が迫る。段数は少ないが、登ったところで本殿に迎えられる。
この本殿がなんとも心地よい。芸能関係の方はここでコンサートや結婚式を挙げた事例もある。長渕剛と志保美悦子両人の挙式でも有名にもなり、堂本剛もここの参拝でいつも音楽的インスピレーションを得ていると公言している。
そう知らされると境内の巫女さんの所作が妙に美しく感じるのもご利益か。

 

 

閑話休題、、、、参拝後に急に天気が回復。まだまだ暑すぎる。そこでさりげなく目に入ったのが、かき氷屋さん。オーガニックカフェなどという流行りのコンセプトだが、甘党の私は先輩に誘われて、追随。
これがまた立派な邸宅で、いくらするんだろうと、懐具合=かき氷ながら、、、、全く商売っ気がなく、返事も返ってこないので勝手にカフェというか奥の座敷へ。

この豪邸は向かいに神社の神主さんの自宅だったとか。今は末裔の方がこうしてカフェを運営。しかし電話もメールも効かない。つまり弁財天社へ来た時、運良く開店していたらラッキーというカフェなのだ。
日々悪戦苦闘の私には羨ましい限りであるが、むしろ清々しい、、、八十八所巡りの茶屋ではなかなかこうはいくまい。お接待と言えば良い方で、逆に商売っ気丸出しもなくはない。まずは座敷からの庭園美を堪能した次第。

 

 

合掌
 

 

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