• 2019.05.27 Monday
  • スポンサードリンク
  • -
  • -
  • -
  • pookmark
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

シ秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・佐土原城、佐伯城、延岡城、鹿児島城のそれぞれ。

❶佐土原城・・・宮崎県宮崎市佐土原町にあった明治まで続いた、佐土原島津家の城。

 県庁所在地:宮崎市郊外に位置しながら、石高3万石の小藩。しかも日向の国で島津家?という不思議さ。

  さても城跡にしっかりとした歴史資料館が整備されており、見学するとそれはそれで味わい深い歴史を物語っている。戦国末期までは伊東氏の勢力が広く及び48もの砦を有し、佐土原はその中心地として栄えた。しかし島津家との戦いに敗れ離散、九州征伐における秀吉軍への軍功で、伊東氏は飫肥へ。関ヶ原の戦い以後、島津家一族として佐土原藩を立てる。つまり飫肥城と佐土原城は世が世なら、逆転していたということである。

 城域は資料館背後に隆起した河岸段丘的な山麓が該当する。わずかに痕跡を残すようだが、一般には資料館止まり。ただ伊達に続・百名城指定ではないことは思い知った。

 

❷佐伯城・・・現存するのは平地の城館:本丸御殿などがあったとされる大手門口を守る櫓門のみ。背後の山に山城を控えているが、万が一という備えにしかない。佐伯藩は歴史的には深い地域だが、江戸時代は2万石という小藩で、隣接する岡藩6万6千石に比べると見劣りがしそうではある。しかし現地に佇むと、ひなびた城下町には思えぬ城館周辺や歴史の名残に品格が感じられる。

往時を思うと山麓の多門塀や櫓が遠望でき、また手前の御殿や馬場が幾本もあり、さらに神社仏閣を防御の構えとしたレイアウトは、さぞかし秀麗だったように感じる。佇まいの美しさを醸している不思議さがある。

資料館も市規模以上に立派なもので、わが観音寺市にはない素晴らしい品性と内容の展示がある。日田から入封されてきた毛利家が明治まで領有した城下町、また明治後の西南の役では佐伯でも西郷軍と政府軍との激闘の歴史が残る。

 

❸延岡城・・・戦国期までは大友氏や島津氏などが割拠して、陣取り合戦の地とされるほど歴史の古い町。本格的には秀吉の九州征伐の流れで、功績により高橋氏が5万3千石で入封。以後、城下を整備しながら、有馬氏、三浦氏、牧野氏と目まぐるしく藩主や石高も変わり、内藤氏が150数年統治し明治を迎えている。縄張りも広く一山を丸ごと城域にしている感もあるが、むしろ戦いの城ではなく政治の中心地としての城づくりを各藩主はめざし、あまり戦略的な城には感じられない。目立つ特徴は、二の丸から本丸へ至る高さ19メートルに及ぶ石垣である。特に礎石部分の膨らみが目立ち、この礎石を外すと一気に石垣が崩れて1000人の攻め手を殺すという仕掛けになっていると伝わる。確かに高石垣の城は多いが、こうして礎石部分が異様に膨れた構造は珍しい。

 西南の役でも西郷軍の攻撃を受けているが、広大な縄張りも威容を示すのではなく親しみを感じさせる雰囲気がある。幕末、子弟・女子教育に力を入れた“知の藩政”を示す穏やかな城跡である。

 

 

➍鹿児島城・・・いうまでもなく歴史的にも有名な島津家の拠点。太平記の時代から明治まで無事に一族が係累を残せた数少ない大名家が島津氏だ。“島津に暗君なし”ともいわれるが、まさに鹿児島城は城とはどうあるのか?を示すユニークな事例かと思う。ちょうど武田信玄の躑躅ヶ館の考えと同じかとも。大手門を構えて、後は城館のみ。決戦は背後の山にある砦のみ。城は人・・・の名言通り、鹿児島城もそうした人が支えている城である。

  ちょうど2020年完成を目指して、御楼門(=大手門)と、御隅櫓と多門櫓など、江戸末期の姿へと復元が進んでいる。また明治百年を記念して御殿跡に建築された県の歴史資料館=黎明館も見ごたえがある。日本のようであり南洋的な島嶼部を広く領有した薩摩藩ならではの展示や雰囲気である。島嶼部や沖縄は、経済困窮する薩摩藩の圧政のもと、搾取や厳しい年貢で苦汁を飲まされて所ではある。島津家の華々しい政治や戦の舞台にのみ目を奪われてはなるまい。

  秀吉に屈し滅亡した北条家は、二公八民、三公七民という農民を考えた善政で支持されていた。早雲の家訓を滅亡まで5代にわたり厳守した政治もまた歴史に埋もれないようにしないと。織田氏によって滅んだ浅井氏も二公八民的な税制を敷き、領民から差し入れが来るほどの慕われ方だったとも伝わる。

し秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・唖然、峻険で広大。難攻不落とは岡城を言うか?

●城雑誌やWEBサイトの下見から現地へ行くと、紹介とのギャップの大きさに驚く。つまり平均的な紹介となり、偏りができないことは理解している。その点で岡城は出色、まずはこれでもか!という縄張りの広さや堅牢な立地条件である。

無論、広さなら熊本城、福岡城には到底及ぶべくはないが、石高にしてはなかなかにすごい。戦国期を伝える山城系ため町割りからは離れざるを得ないが、意外に山城ではなく隆起した河岸段丘的な台地に立っている平山城的な感覚だから余計にそう思える。中川氏が明治維新まで14代にわたり領有していた。

 

●駐車場から拝み見ても段差のすごさが伝わり、到底昔の兵装では陥落させることはできないと思う。山城の場合、本丸以外の出丸=有力家臣が独立的に守りつつ、谷を挟んで連携するが攻められ方次第では孤立しやすい・・・岡城はそうはならない。ほぼすべての出丸がフラットにつながり臨戦態勢がとれる。何より山の形状に沿った縄張りは、大手門口、七曲り口、下原門口などの登城口を突破しない限り、垂直の崖によって攻略は不可能だ。

 南九州の城は砦クラスでもこうした河岸段丘台地に構えるところが多い。野戦に強いイメージなのは、籠城され攻め手の犠牲が大きくなるのを避けてきたのかとも。

●高石垣で各出丸が構えられているが、特に紹介写真で有名な二の丸石垣は、屏風折れのように横矢掛けと堅牢さを誇っている。観光ガイドが大変上手な方で、お聞きするとこの石垣用の石はすぐそばを流れる白滝川から切り出したものだとか。持ち上げる労力から、切込ハギ組みなど、精緻な設計力を伴っていたことがわかる。

 櫓一つ残存していない城だが、九州を代表する名城、さすがに百名城登録である。登城に苦労はないが、現地にたたずむと城マニアを堪能させる空間であることを再認識。

※余禄だが、岡城の観光用パンフは、巻物式で手軽なうえ、説明も行き届き観光客に人気。

 さらにこの岡城のある竹田市は、2年間で移住者を110数組迎い入れている移住率トップクラスの自治体でもある。

7秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・まさに名城、縄張りの魅力にほとほと感服、人吉城。

●戦国期が終わるまで激戦史が多い九州には、徳川幕府開闢前後に名城が多く生まれている。しかしほとんど復興天守(=コンクリート製で歴史考証とは違う)。縄張りも破壊され市街地化が激しい中、人吉は田舎ということもあるが、まれにみる縄張りが残る名城。

 球磨川を前線の守りにし背後は、そり立つ河岸段丘を取り込んでの守りに、城マニアはそそられる。  

●広大な縄張りが、観光公園化してもほぼ残るのも稀有な存在。見どころは、観光写真で多く使われる、球磨川に沿った石垣と多門櫓、長塀。たったこれだけでここまで魅入られる城は少ないのではないだろうか?侍屋敷を広く取り組んでの縄張りに対して、球磨川の対岸は、商業地や農民の家々が連なっている、わかりやすい区分である。

しかも相良氏が地頭として現地へ派遣されてから、約800年統治され拠点が変わっていないことにも感嘆!それだけに恵まれた立地だということである。

●資料館も立派で、相良氏の治世や城の変遷、人吉の歴史まで、丁寧かつハイレベルに説明されている。優れた城下町にはこうした立派な歴史資料館が多い。今回は城数を巡る旅だったが、藩の規模にかかわらず立派な歴史資料館が多かったと思う。また人吉は歴史的なポイントも市内に点在し、じっくり回れる城下町である。

 

●明治維新後、鹿児島藩の学徒と不平浪人の騒動に端を発した西南の役でも、人吉藩は西郷隆盛軍の拠点として政府軍と激しく戦をしている。球磨川を挟んで城側が西郷軍、商業地側が政府軍となり、藩士兄弟でも二手に離別しての戦いでもあったようだ。

西南の役では熊本城での攻防、田原坂の激戦、城山での最終戦が良く知られるが、人吉も大きく歴史をとどめている。

激戦区:九州の城巡り・・・城下町観光を戦略化できている飫肥城は大したもの。

●九州以外の方で城巡りファン以外で、宮崎県日南市:飫肥城といってもピンとくる方は少ないだろう。歴史は鎌倉時代までさかのぼり、このあたりの地頭として派遣された伊東氏が代々続く。さらに戦国期にも勢力を拡大し、宮崎(=日向の国)南部から大隅半島(=薩摩の国東部)にかけての有力者だった。

しかし安土桃山時代前に島津氏との構想に敗北し、一気に衰退するが、秀吉の九州征伐で島津から旧地を安堵され、明治まで伊東氏14代の城下町となった。

 

●城域は広いが縄張りと呼ぶ、二の丸、三の丸、本丸などはすでに本丸程度しか残らず、小学校や中学校の敷地化となり、櫓もなくなり大手門の構えだけである。しかし観光客は九州の城あまたの中でも上位になるほどの観光数であろうか?それは風情というか、醸し出す城下町の雰囲気=九州の小京都と呼ぶのだが、京都は城下町ではないので違和感はある。

 今回は本丸とその周辺で、本町商人通りとして整備された観光エリアは走り抜けただけだが、自負してよいと思う雰囲気。昔町づくり協議会の座長として、彦根のキャッスルロードなどいろいろ視察したが、飫肥もまぎれなく成功した整備である。

 

●小村寿太郎という明治新政府の外務大臣として、多大な功績を発揮した資料館がある。私は地域再生=“教育”がキーワードと、しつこく言っている方だと思うが、まさに飫肥にきて彼の生家や藩の規模を鑑みればいかに有能だったかが知れる。

日露戦争の終結には彼の胆力や外交力が不可欠だったかと。藩主一族よりもこうした出身者が高く評価される風土が大切だと思う。

※資料館や屋敷巡りに時間がとられ、商業ゾーンはじっくり見られていない。が、まさに町中が観光拠点として成立している飫肥は、アクセスにはハンディがあるが、地域の方の努力を痛感する思いだった。

〃秬鏘茵Ф綵の城巡り・・・臼杵城は大友宗麟以来の治世の知恵が息づく。

●九州戦国期に不可欠の英雄が、大友宗麟。その彼が府内から、鉄壁の城塞として構えたのが現在の臼杵城である。当時は城域が独立した島(=丹生島)で三方が海に向き、しかも周囲は断崖絶壁で守るにふさわしい全国的にも珍しい城跡。

 無論、事前の様々な情報を知っての訪問だが、現実はやはり残念至極である。城域の周囲が埋めたてられ、住居や公共施設、商業業地に変貌しているが、それを割り引いてももう少し原状回復へ尽力できなかたったのかと。ただ侍屋敷、寺などは時代雰囲気が多く残り、こうした保存には臼杵市の取り組みには敬意を表するだけに。

●丹生島を丸ごと要塞化した大友宗麟、さらに福原氏、太田氏で整備が整い(=現存櫓はこの頃と推定される)、稲葉氏が15代続いて明治を迎える。特に江戸時代は稲葉氏治世が城よりも城下町整備という方針もあり、宝暦13(1763)年の大火で、町も城も炎上し復興が大変だったこともあろう。※面白いエピソードとしては、復興時に石垣も表面的なタイル張り方式で巨石を用いずとも雰囲気を醸せるよう知恵を使ったとのこと。

 

●当然、天守も復興されず、現在のようなフラットな縄張りに仕上がっている。明治維新内乱時の大砲の活用を見るとこれはこれで正しい縄張りと感心する。くしくも公園には戦国大名でいち早く大砲を導入した大友宗麟時代のレプリカが展示されて説得力を持つ。

地元の方には日々の散策やゲートボールなど市民公園としての親しみと、周辺の時代を伝える城下町の姿が観光にも寄与している点では、愛される城なのだろう。

 

※市内の有力企業としてフンドーキン醤油という企業がある。優れたビジュアル戦略で気を吐いておい出るが、すぐ近くの河口の中州を活用しているが、ぜひ気に留めておいてくれればと。

熊野市のもう一つの魅力、紀和町の鉱山資料館!!

●赤木城に続く、ぜひ知って訪問してほしい「紀和町の鉱山資料館」立派ですよ!!

 

赤木城を経て、やはり熊野権現大社へ向かう途上にある、紀和町の「鉱山資料館」は過去の遺産ではあるが、最盛期を彷彿させるにふさわしい展示品と構成内容を有する資料館である。

 

 

 

1:古くから良質の鉄鉱石や銅石が採掘されていたのが驚き!!

奈良時代、大仏建立に必要だった大量の銅は、紀州全体に広く求められた中でも、ここは有力な高山だった。しかも昭和50数年ごろまで続いたという、採掘では最古・最長鉱山の歴史を持つことになおも驚き。最盛期は全国の6割近い量だったとか?

技術的にも常に最先端の工法や排水処理の工夫など、先人の工夫や知恵が集約されていた鉱山群をこの地は有している。

 

 

 

2:刀鍛冶も多く集まったのは、南北朝の長い動乱が背景が!!

刀剣鍛冶の分布は全国でもいろいろあるが、現代まで続いていないと、案外と忘れられてしまうのかもしれない。歴史好きの私でも、まさかこの熊野市の赤木城近郊にこういう歴史的価値がある鉱山遺産を知らなかったことは、重ねて恥じ入る次第。ここの刀鍛冶が打った東建が、南北朝=主に南朝方の豪族や、戦国時代まで名門かつ有力だった伊勢志摩の北畠家、また長く信長・秀吉に対抗してきた紀州の各豪族や僧兵などに思いが馳せる・・・。

 

 

 

3:この鉱山は崩落事故がない、超優良安全鉱山の表彰を受けている!!

鉱山事故が多発する中でも、運営していた同和鉱業社の経営姿勢なのか、この鉱山の長い歴史のかなでもほとんど崩落事故の記録がない。それは抹消しているのではなく、きちんと取り組んでいたからだろうと推察される。また大戦時にはイギリス人捕虜の収容所もあり鉱山で働かせてはいたが、人事管理は穏当で、地元民との交流のエピソードが多い。この鉱山群は当時、国内鉱山で無事故優良鉱山として表彰されている。

 

 

 

 

 

●ひなびた田舎の山間のたたずむ紀和町鉱山資料館。熊野川がすぐ傍に流れ、足湯サービスや、道の駅も隣接して、ひと時を十分楽しめる。まず展示が良くできている!!実物サイズのジオラマや、鉱山の作業の様子の資料も豊富。またエレベーターに一工夫があり、思わずニヤリ!!で来館者の皆に受ける仕掛けかと。ぜひ熊野権現大社詣でのついでといっては失礼だが、ある意味カルチャーショックで、日本でも知らねばならないところがいっぱいあることを感じれる訪問だった。

 

城巡りマニアにはたまらない=新宮城・・・なぜ話題にならなかったのか?

●紀州藩家老の城「新宮城」って、なぜ、もっと早く注目されなかったのか?

 

今、城巡りブームと言われる・・・最初に「百名城巡り」本が出て(=都道府県の均衡を思んばかって、認定は微妙だが)、さらに「続・百名城」本も出てきて、そこそこマニアの私も、現地で案外と人が多いのに驚く次第。

さてそういう中で、以前より知ってはいたが、従来の城読本では詳細が記載されいなくて、情報不足に反省ばかりである。耳年寄りになっていたので今回は大いに反省せさせられた。

 

 

 

 

1:築城は戦国末期、ここには築城する理由があった。

秀吉により紀州を拝領した浅野幸長が入領し両国運営のために新宮城を築城。ここに城地を定めた理由もあとで知ると納得。あの不老不死の薬を求めて日本へ渡り、各地に伝説を残した「徐福」が日本に初上陸したのが新宮市だという。また熊野三山(=権現)巡りの1つ=速玉大社も鎮座している。かなり古くから人が集まり、にぎわう営みがあったというわけだ。この2つの歴史的遺産が背景ならむべからぬと知る次第。さらに新宮城が「続・百名城の認定」によって、この町の注目度が上がる。

 

 

 

2:浅野氏が築城、しかしなぜ必要だったのか?

地理的にはかなり紀伊半島の南部、ほっておいてもよかったのでは?という立地。しかし歴史に詳しい人は、信長、秀吉が紀州全域を手中に収める苦労は大変だったことは存じよりかと。領知を好まない自主独立心が強い土地柄なのか抵抗はかなり強かった。故に浅野家は支城として配置する必要があったのだろうが、縄張りは大変優れたものであり、続・百名城にふさわしい。これに徳川時代の紀州藩立藩による付家老:水野重仲が初代城主として、さらに強固なものとして城下町形成とあわせて、明治まで続く。

 

 

 

 

3:熊野川を背景に独立した小山を縄張りにし、ひな壇状の総石垣づくりである。

小ぶりではあるが自然地形を生かして、ひな壇状にした総石垣づくりである。熊野川を背景に船着き櫓や監視所を置き、町割りが見渡せるよう小山全体を縄張りに。近世の城であるので、石垣は切込ハギ、算木積みが多くみられ堅牢さは一目瞭然である。結局、戦を経験してはいないが、攻めあぐねることは間違いない。熊野川にかかる大きな鉄橋を渡ろうとすると左手に見えるが、その姿は天守閣や櫓が残っていれば、さぞや秀麗であったかと。

 

 

 

 

 

4:復元に力を入れているので、貴重な写真があれば1500万円=懸賞金が出ている!

さすがに明治直ぐには写真館もそうそう全国にはできていないので、江戸末期の姿を残す写真はないだろうが。城に入る手前の駐車場に写真募集の懸賞金看板が。ジオラマによると秀麗な姿を示している。ぜひ、復元がかなうとよいお城だなぁと・・・今頃気が付いたのかい!とお叱りいただく城であった。ありがたい熊野3社巡りのついでといっては失礼極まりないが、名城です、ぜひ一度訪ねてみてほしい!!

熊野市には、赤木城と鉱山資料館がある!

●熊野市は三重県の最南、和歌山県との境。熊野大社で有名だが案外と知られていない。

 

熊野権現大社詣では相当に有名だが、はたして国史跡=赤木城や、紀和鉱山など知る由はないということもあるやもしれない。

今回は昨今いろいろあって、急に信心深い真似をしたようで気恥しいが、当然、不遜な思いは全くないのでご寛容のほどを。

 

1:続・百名城に選ばれた「赤木城」・・・天空の城ブームの一つになってきたが。

マニアックなところではあると冒頭から伝えておきたい。熊野市そのものも東海圏からも近畿圏からもそれなりに遠い。また市内を大きく外れて熊野大社では時間を使えても、余程がないとへ回れないところではある。

しかし山間の峠道を延々と走り、「丸山千枚田」という棚田百選にも選ばれた景観に感服しつつ、ようやく到着する。

駐車場からこじんまりと山城跡がうかがえる。なんと石垣がしっかり残っているではないか??急に、事前情報以上に現物の良さに興奮してしまう。

 

2:戦術的な目的ではなく、一揆対策の見張り城としてという理由に驚く。

まさに小ぶりながら、地形を生かした縄張りと、低いながらも石垣を巧みに築き、このあたりに一揆勢の勢いを挫くに十分な構えである。なんと秀吉時代に、築城の名手:藤堂高虎が構えた城というからなおさら驚きだ。見渡す限り狭い盆地の回りは山だらけ。年貢など取り立てようがあるのか???と・・・誰しも築城の意図が読めない。ところが当時は、良質な鉄や銅を採出する鉱山があったことで刀鍛冶も多く、また豊富な木材の切り出しが盛んだったことが伝わる。一揆を抑えるというのは、念食い代わりに鉱山利権や材木資源をかなり無理して取り立てていたのかもしれない。

 

 

3:小ぶりでも縄張りが秀でて、山城の特色である防備に堅固な城である。

本来なら土塁と木柵を張り巡らすのが戦国末期の山城であるが、石垣で築くあたりに藤堂高虎の面目躍如たる点で、しかも伊予今治へ転封されるまで11年間も拠点にしていたそうだ。無論、江戸時代に入ると破却されている。そのため歴史的背景がしっかりありながら、雑草に埋もれていたのである。30年前に整備事業が始まり16年もかけて取り組まれてきた成果が、今の評価になっている。行けばわかる!!・・・ここではあえて詳しくせず、ぜひともとお勧めする次第!!

 

東海の城巡り、、、、横須賀城

「掛川の隠れた名城、、、横須賀城。ちょっとマニアック」

 

●戦国期に横須賀氏が治めていたそう大きくはない領地にあった城である。武田軍と徳川軍の前哨戦拠点の色合いが強い。江戸時代は前半は目まぐるしく領主が変わったが、後半は7代に渡り、2〜3万石で西尾氏が明治まで領地した。

 

 

 

 

現在の城跡は住宅街に囲まれていたり雑種地と隣接して、一見、忘れ去られた城跡に見えなくはないが、掛川市の3名城として、丁寧な現状保護や史跡解説がなされている。

ただマニア的ではあるが、江戸時代、すでに戦にための城ではなく、経済や行政に中心としての役目とすると、大変理にかなった城である。

 

平城の範疇になるが縄張り横には天竜川の支流が流れ、城下と城外からの物流用路をなし、それを城が管理できるように機能的な構造となっているからだ。

 

城跡は石垣に特色を残しながら全体の縄張り模型が史跡の概要を示してくれて、わかりやすい。往時の姿はこじんまりとしながらも、中々味わい深い縄張りであることが読み取れる。2〜3万石の小藩だったが、存在感は名君も輩出したことで示されている。

 

●大きな特色は石垣にある。平城で成長の役目のため高低差は少ない。つまり石垣は高くないが、その石垣にしこそ全国でこの横須賀城のみとも言えるのだ。物流路の天竜川が近いことで、その川の石を築城に用いた点である。

写真をよく見ていただくとまんまるい石が丁寧に重ねてできた石垣だとわかるはず。逆にこんな丸い石垣でよく崩れなかったなぁと驚くのだ。

 

 

 

 

地位の市民の方には散策コースだが、城好きにはまたなんとも味わいがある城跡。関心があれば車ではすんなりいきやすく、1時間以内で一通り回れる。高低差緩いが、椅子は無理が残念だが。とにかく往時を偲ぶよすががいたるところにある。是非、一度立ち寄りいただきたい。合掌

城巡り、、、東海の城:掛川城

「三河名城、掛川城、、、、思う以上にグッド!」


●新幹線から掛川駅の通過とともに、街中のぽつねんとした小山の山頂に立つのが掛川城。随分、見ている方も多いかと。

 

 


現在の復元された天守閣や城跡は、関ヶ原の戦い前後に整備した、山内一豊に寄ると伝わる。
城好きの方には、そういえば江戸時代初め四国土佐一国を家康から賜った山内一豊の高知城天守との類似性を見出せれると思う。

さて、観光案内用の大きな駐車場を出て、城跡に向けて歩き出すと、いやはや百聞は一見に如かず、、、やはり城廓の写真だけの情報では城下町の雰囲気は体感しづらい。

 

 


そういう意味で、タイトルのように、想像よりは城跡は雰囲気がとても良い。城下町らしさが盛りだくさんだ。天守までのアプローチもまずまずだし、重要文化財の本丸御殿=立地が移動しているにで三の丸御殿でもあるがが、また雅趣に飛んでいる。こればかりは当時の建物の現存だからだ。

縄張りを堅牢にしている川は昔のままだそうだ。天守に上がり見下ろすと、縄張りの残存率は高く、多少の観光施設の今一つの感はあるが、それを上回る雰囲気が勝る。
史跡の説明板がきちんとしていて、往時の様子は一目瞭然でこれも中々に親切である。

 

 


そういうわけで新幹線から見過ぎ須要な城跡ではないことをお伝えしておきたいし、できれば一泊して堪能していただけると嬉しい限りだ。えぇ?私は貧乏経営者、そんじかんはありませんが。また訪問しても別の魅力を発見できそうだ。合掌
 

ENTRY(latest 5)
ARCHIVES
CATEGORY
COMMENT
TRACKBACK
CALENDAR
SMTWTFS
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>
MOBILE
qrcode
PROFILE
LINK
SPONSORED LINKS
無料ブログ作成サービス JUGEM

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.