人出いっぱいの正月広島旅行

2018年元旦、AM6:30に広島目指して観音寺を出発。

1日目は呉で軍港関連を観光します。

 

観光一発目の大和ミュージアムです。

元旦で朝早いのもあって意外とすんなり入場できました。

 

まず目に飛び込んできたのは、10分の1サイズの

戦艦大和!10分の1とは言えその迫力に圧倒される。

実物の設計図や資料も存分に展示され、

見応え十分でした。

 

 

そして、大型資料展示室には零式艦上戦闘機六二型や、

特殊潜航艇海龍、九三式・二式魚雷、

100名以上の若い兵士の尊い命が失われた特攻兵器回天などが

展示されていました。当時のリアルな情景が想像できる空間です。

 

 

大和ミュジアムに隣接した海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)は

残念ながら正月は閉館とのこと。潜水艦内部を体験したかったが・・・

 

 

大和ミュージアムを出ると、艦船めぐりの

アナウンスに導かれ30分程度の船による艦船めぐりへ。

 

 

そうりゅう型潜水艦は後ろからの見学になりましたが

かなり興奮しました!!!

 

 

元旦は呉を堪能した1日でした。

 

宮島観光編は後日アップします。

 

 

 

四国内で数少ない田舎町整備の成功!梼原町は噂以上だった。

●四国の町づくり整備と言えば「梼原(ゆすはら)町」!!

 

もうすでに20年以上になる町づくり整備で「高知県梼原町」は有名だが、行く機会はなかった。東京オリンピックのメインスタジアムの設計でさらに注目を浴びた隈研吾氏による公共建築で知られてきた。著名な建築家による公共建築物が、地域振興の役割を果たすことは、香川県が特に先駆けてきたことだ。丹下健三氏による公共建築物は、当時の地方自治体としては稀有な取り組みであったし、今は直島町がそういう実践でリードしてきている。

 

しかし私見なりに町づくりには”佇まい”が必要といつも思っている。昔ながらの歴史建築群を再整備した町でなくても、新たな整備をするにあたってこそ重要な感性であろう。梼原町はまさに後者として”佇まい”が感じられるのではないかと感心する次第。

四国内にも愛媛県:内子町の白壁の街並み、大洲市の大洲城と肱川川岸の風情、徳島県脇町のうだつの上がる街並み、香川県琴平町の金毘羅山の参道など誇らしい町並みは継承されているが、そうした保存型は言うまでもなく、むしろ再整備での新しい方向性にこそ、佇まいを忘れてはならないだろうと。

 

 

 

●隈研吾氏の建築物は目玉であり、誘発剤としても秀逸であろう!!

 

隈氏と梼原町のつながりは話題となり周知の事で省かせてもらうが、あらためて建築デザイン的なピンポイントとして知っていたことと現地の実際は大きく違っていたなぁと改めて痛感した。つまり旧の街並みの再整備=相当大掛かりにもかかわらず”佇まい”がよく浸透していることだ。完全統一とは言えないが、現実で出来得るレベルとしてはよくできているなぁと感服した次第。

 

何気に写真を撮り、1月2日でも空いているお店探しで交差点にいると、地元の方が犬を散歩がてら近づいてきてくれていろいろ説明を受けた。愛犬のブルドッグが散歩を催促するのをとどめての説明で恐縮至極だった。まちづくり整備では反対的な方が多い高齢層だが、この方は明確に事業年度や事業予算までそらんじれる具合で、小さな町といえいかに行政サイドが周知を丹念にした成果のだと伺えた。

 

隈氏の業績は言うまでもなく、しかしそれほど件数が多い訳ではない。あくまで看板であっても整備における演出効果は、行政手腕や地域住民の覚悟がなくては無理、そういう面でよく整っていることが素晴らしいかと。

 

 

 

●”佇まい”簡単なようで難しい。デザイン性とともに、地域の方の心映えも重要!!

 

メインストリートの拡幅工事も電線などもインフラは地中化しすっきりと。十分すぎる幅員は観光効果を計算し、活集約した町機能や行政機能を発揮している。小さな町の有利さで、町役場、町の駅(=物産所&宿泊所)、「維新の道:坂本龍馬脱藩の起点の町として、維新群像の町を標榜」の史跡ポイントが、至近距離に配置された魅力とともに建築&環境デザインが優れることで、観光入り数は相当多いと感じられた。店舗も少ないが、本格派を目指した店が多い感じだ。

 

 

 

1月2日ゆえにほとんどが閉店していたが、本格派の珈琲専門店が開店していて人気のようだったし、町の駅は地場産品がたくさん置かれて賑わいも伝わった。しかし地方の売らんかな!呼び込まんかな!という範疇ではなく、自分の時間で仕事ができる人、感性を澄ませて物づくりしたい人、東京ではなく世界を視野に入れれる人には、数年住んで事をなせるかという気がしてくる町でもあると感じた。

 

 

流行は追わない、しかし鈍感ではない。形式を超えた心映え・・・維新の群像をテーマにしたこの町は、京や江戸、果ては会津、逆転して薩摩と維新の激変が続く中で、これほど田舎の町からでも視点は確かに時代を見据えていたのだから・・・。

今関わっている町の事業でもこの佇まいを大切にする思いはますます強くなった。合掌

現存12天守と全国名城ポスター展

今頃?と言われそうですが、夏に松山城で行われていた

現存12天守と全国名城ポスター展を紹介します。

 

 

まずは、ご当地の松山城です。

城郭建築の最高傑作と歌い、

世界遺産の姫路城とのコラボポスターです。

情景が昼と夕方の対比が美しい構成です。

 

 

その他の四国の名城です。

丸亀城は、空を白く飛ばした表現は、

ある意味お城の魅力を増幅している

ようです。

 

高知城は、堅牢な石垣と美しい天守閣の

わかるベストショットで表現していました。

 

そして宇和島城、

うわじま牛鬼まつりの様子を

下段に掲載しています。

 

上記以外の現存12天守ポスターです。

 

現存12天守閣以外の、松山周辺にある

お城ポスターも展示していました。

 

以上、城郭ポスター展で展示していた作品です。

各々当地の情景を最大限に引き出した演出が

なされており、定期的に作り替えるはずですので

今後も調べてみたいと思います。

 

私的には、モノトーン的な丸亀城と

幻想的な犬山城がお気に入りです。

 

デザイナーとして何時かは手掛けてみたいと

思う素敵な仕事だと感じました。

 

 

 

 

 

 

国内有数の辺境の地と明治維新前後・・・あぁ”天誅組”哀れ!

 

●明治維新の5年前、南河内で鬨の声を上げた”天誅組”・・・終焉の地:十津川村へ。

 

新製品の企画と治療を兼ねて学生時代の先輩の治療院=富田林へ。以前から大変懇意にしていただき、私の大怪我の治療法から、社員のリハビリとずいぶんお世話になってきた。先輩が数年前から楠木正成ゆかりの地を巡ったり、今回の天誅組の足跡を訪ねることの付き合いとなったのだ。

”天誅組”は純粋に勤皇佐幕を念じて、明治維新よりはやる事5年前に挙兵。公家:中山忠光、土佐脱藩:吉村虎太郎、刈谷脱藩:松本奎堂、備前脱藩:藤本鉄石、天領・河内富田林:水郡善之祐らが蜂起した事件である。決起のメイン舞台となった奈良県五條市(=日本一の柿の産地)には、”明治維新発祥の地”と大きく看板があり、資料館も整備されている。

 

 

●”天誅組”は、性急、軽挙だった上、情報不足と政変で翻弄され壊滅した。

 

今のような連絡手段がない中、止むに已まれずという志士の想いが先走り、時局を読み誤ったことは理解したい!多くの血気盛んな若者が命を燃やした事変が明治維新。今でこそ笑えるかもしれないが、その時代を真摯に駆け抜けた面も理解できなければならないかと。天誅組のリーダーは各藩脱藩志士からなり、堺から進軍し天領・富田林で河内勢と合流し、孝明天皇の行幸を奈良で得るべく、五条の代官屋敷を急襲し勝鬨を挙げるまではよかった。しかし当時の京都はめまぐるしく政変が起き、明日をも読めない中で、とうとう彼らは翻弄され、ついに賊軍となるのである。

 

 

●五条代官所急襲は裏目に出て、奈良近在の諸藩の追討を受けることに。

 

勢いづいた天誅組は五条では1200名に及ぶ集団に。さらに勤皇の意識が高い(=御所警護を担当した強者集団)十津川村で隊士募集も図り、それなりの勢力も得ていく。その後は籠城を考え無謀にも高取城の奪取を試みる。ここで諸藩兵の待ち伏せに遭い塵尻となり、一気に劣勢を余儀なくさせられる。最後は首謀者の中山忠光らを逃すために十津川村を転戦し、時間稼ぎのために諸藩兵を引き付けるのである。挙兵からわずか2か月という短い運命だったが、この天誅組についての著作、歴史文献も多く、決してないがしろにされたわけではない。

 

 

●十津川村は辺境成れど、あちこちに天誅組の歴史が色濃く伝わる。

 

東吉野村は終焉の地で、壊滅した最後の志士たちの墓や句碑が残る。またそこに至るまでの十津川村での諸藩兵との戦闘で討ち死にした場所が、村人の手厚い想いで銘板として現地に記されている。正直、穏やかな十津川村での戦騒動は、村人には大変迷惑だっただろうが、戦死した天誅組の志士の名前を記録していることに感銘した次第。特に天ノ川辻あたりの集落内の志士の名前入りの銘板は、歴史の一駒が鮮明に感じられるところだ。

 

 

●平和ボケと言われて久しい我が国。先の大東亜戦争を言うまでもなく、若者の命が捧げられていることは瞑したい。

 

天誅組の転戦はむなしい点も多い。特に欲得以前の軽挙かもしれないが、豊かさに生きる現在のわれわれが、果たして1つ1つの歴史の時空に立ち、死を賭して生き抜こうとした=それが体制や権威に踊らされたとしても・・・彼らに謙虚に学ぶだけのものはあるはず。

十津川村は面積では日本最大の村である。路線バスも日本一長い路線を運行している。景観の良さやアウトドア好きには、知らないものがないが、しかし辺境である。

天誅組に関わらず、「谷瀬の吊り橋:日本有数の吊り橋」、「熊野古道」、「玉置神社」などたくさんの魅力にあふれている。是非リピート良し、初めてさらに良し!!どうぞ訪ねていただければと。

★蛇足だが、勤皇の意識が熱い十津川村は、一時期、皇宮警察官の半数がここの出身者だったそうだ。合掌

 

 

 

 

雛の町にも千金に値する人財が生み出される=杉原千畝氏の記念館へ。

●偶然というと申し訳ないが「杉原千畝記念館」へ・・・そこは山深い雛の村。

 

紅葉を久しぶりに見れた帰り道、何気なくマップに記載された「人道の丘公園」と「杉原千畝記念館」の文字にびっくり。第二次世界大戦の折、ナチス:ヒットラーのユダヤ人虐殺につながる暴虐の始まりに、外交官として国の命令を拒み多くのユダヤ人に渡航ビザを発行した決断が世界から称賛された、その人の記念館である。

まさかこのような鄙びたところの出身者とは??・・・ところは岐阜県加茂郡八百津(やおつ)町である。

 

 

 

●杉原千畝の功績を知らない人は少ないはず!・・・敗戦国:日本においても世界に誇る功績が光る!

 

彼の功績はもうすでに幾度もメディアに特集され、文献とされて十分すぎるくらい認知はあるはず。しかし出身地だったり、国の命令違反で発給したその行為は、戦後には外交官資格をはく奪されたり、リトアニアからロシアに転勤されたことでスパイとさえ疑われる始末。商社勤務としてひっそりと、また真摯に生きた杉原千畝氏は、決してその貢献を誇示することはなかった。30年近くの時が流れ、当時ビザ発給で生き延びたユダヤ人がようやく彼を探し出し、再会を果たすこととなる。

 

 

●加茂郡八百津町は本当に山深いが、多くの外国人がここを訪ねる・・・果たして日本人は?

 

地図で見かけ早速寄り道で現地へ。木をふんだんにあしらいつつデザイン面でも洗練された建物であり、一目でわかる。一帯は「人道の丘公園」として開放的な自然公園となっている。ブログでは携帯電話の電池切れが不安で撮影写真はない。しかし添付のパンフレット画像で想像していただければ嬉しい。

わざわざ行くこともないか???・・・などと言わずに、多くの外国人=ひょっとしたらユダヤ系の方が中心かも?が、ここまで足を伸ばしてくれることがすごいことだと。小さな建物ではあるが、大変丁寧に解説され、彼の功績や彼に感謝するユダヤ人の方のメッセージが生々しく伝わる、凛とした空間である。本当に彼が日本人でよかったと思う。

 

 

●地方からの人材が国を思う人財か???・・・衰退する地方が人財を生まねばどうするのか?

 

江戸時代には国学者で優れた人は、ほとんど地方の藩や天領で私塾を開いた。維新の立役者など、藩士の下に位置付けられた郷士の反乱的な革命とも言えなくはない。しかし維新後の明治の国づくりにおいては、理知や哲学を得た人材が地方から輩出され、また秀逸である。

今や偏差値教育により、都会の塾は私学における受験テクニックで成果を上げ、地方の学生を吸い上げ、また落伍させる。そうした学生時代がトラウマになり、東京集中という現象が地方衰退につながり目を覆うがごとくである。

いやはや明治維新が素晴らしい事ではないが、地方の自力とは教育にあるのだと思うと、今の都心の進学熱と大学の偏重具合は、こうした良き日本人づくりに果たしてよい事なのか???

改めて自然との共生による社会への視点、情報やコンテンツが不足した環境だからこそ本質を見抜ける知恵が醸成されるのではと。・・・田舎の若者よ!!人を知らずして、漫然と過ごしていないか??

 

杉原千畝記念館を後にしつつ、ノーベル賞受賞の大村智博士のような、後進国の風土病などの改善に貢献し、大きな業績を重ねつつ、さらに芸術を愛せる(=個人美術館を設立)のような人も、また地方ゆえに生まれた逸材である。思わず業績は違うが、杉原千畝氏と大村博士を重ねて思った次第。合掌

数年ぶりの紅葉散策「岐阜県美濃市の大矢田神社」にて。

●紅葉の散策などいつしか忘れて!運よく今年は堪能。

 

皆さんも岐阜県が紅葉の名所であろうことは想像がつくと思います。まさに県内いたるところ・・・その中で偶然知ったのが美濃市の大矢田神社。古刹にふさわしい雛びた神社ながら味わい深いところ。

元は第7代までさかのぼり、孝霊天皇のときに建立された郷社ではある。また700年ごろは泰澄大師により禅定寺も開基されている。明治まではこうした修験場的なところは神社もお寺も両立していた。大矢田神社はそういう不可思議な面白さと風雅がある。

 

 

 

●今も堂宇と神殿が両立する珍しいところ。

 

郷社と侮るなかれ、古い寺跡とみくびるな!!である。深山幽谷的な周りは広大な山に囲まれ、約3000本もの”ヤマモミジ”が群生している。紅葉は、黄色〜茶色のグラデーションが多い中、常緑の樹々とともに、紅葉の赤がアクセントとなってこそ美しさも倍増する。

まさに絵にかいたような境内は紅葉の点在した美しさと古刹としての堂宇や社殿が、盆栽画のような趣で我々を迎えてくれる。

また神社までの道のりは、美濃市が”もみじの町づくり”という事で、街路樹の多くが紅葉で、これも神社に至るまでの高揚感を演出。

 

いやはや日々何となく追われ、都会でしか仕事がないような生活に没している私には、プライベートのちょっとした野暮用のおかげで

何年振りかに紅葉を楽しめた。しかも岐阜県は名所だらけで何より。もう8年前くらい???

観音寺商工会議所の旅行で、同じ岐阜県の恵那峡=少し紅葉が早かったや、日本平の紅葉=スキー場のリフトからのアルプスの眺めに酔ったことを思い出した。無論、人出はすごい・・・地元の交通整理の小父さん達が、連日の出っ張りか?かなりお疲れ気味。

同情しつつも、地方は変な箱モノやイベントではなく、自然の力を計画的に練り挙げれば、数十年後には多くの人を呼び込めること再認識してほしいものだ。合掌

「あぁ、三州瓦の本拠地・聖地へきてしまった!」事前準備もせずに。

●全国の60数%を占める三州瓦、その聖地は高浜市だったのか?

 

駆け足もいいところで、半田市〜西尾市〜高浜市を通りすぎた感は、反省大だが。特に城跡・史跡後巡り〜美術館・博物館巡り、郷土祭り巡りに執着する私には、この地を駆け足で抜けるのは残念至極。と、言っていい格好をつけても実は、三州瓦の大生産拠点だったことを忘れて、あまりに立派な「かわら美術館」を道沿いに発見して慌てて立ち寄った次第・・・馬脚を現している。

 

 

●高浜市やきものの里「かわら美術館」地場産業の誇りであろう!

 

実は愛知県はやきものの産地で名だたる窯元や産地が列挙される。昨年は常滑市を走り、INAXさんの「世界のタイル博物館」や周辺公園にも感服した。今回は偶然では失礼だが、過去10数年も「淡路瓦」のメーカー様複数社と取引をして、常に三州瓦のすごさは身に染みていた。しかし諸般事情で縁遠くなることで、通過するときも三州瓦の本拠地というイメージが忘れ去られていたのだから現金なものである。ただ最大手のメーカーは半田市にあるが、いわゆるこの南三河は全体でそういう産業基盤を有しているのである。

確かに西尾市へ向かう道すがら多くの瓦メーカーさんをやり過ごした。

 

 

●「かわら美術館」は企画展の入れ替え日で、常設の産業説明の観覧で!

 

まず威容を誇る美術館の外観=国道傍に立つため引きができないので存在感はわかりづらいが、一旦、公園側&観音寺側から臨めばその威容が飛び込んでくる。コンサートホールのような趣であろうか?

また公園は飯伏瓦のモニュメントや造作が点在し、ある意味、超小型のガウディの造形を醸す。10数年お世話になった淡路も、そこかしこの公園や公共物でこうした瓦の造形が目を引いている点では、さすがに同じく聖地であろう。

 

屋内を撮影できたので間に合わせな画像で申し訳にあが、懇切丁寧に産業としての瓦製造の成り立ちや現状をよく示している点は理解いただけようかと。それぞれのサンプルや解説も大変読みやすい、見やすい博物館であった。

ただ美術館を銘打っているので、3回の展示室を見ると、名古屋大学レゴ部さんの展示が・・・いかに風雅がテーマとはいえ、レゴにうるさい我々親子にはちょっと興醒めかなぁ???ましては不調とはいえ「レゴランド」がOPENした名古屋の意地にかけても、ここは東大レゴ部に迫る展示がほしかったなどと外野的な感想。

 

まずは、本当に現地には失礼なくらい早駆けのレポートでした。5年に一度の全山車がそろう半田祭りが来週とは・・・残念至極。

ただ歴史や文化、産業が多彩である南三河の魅力だけは忘れませんから。

 

 

 

 

 

「地元愛」がつたわる吉良の殿さまと領民の想い。

●西尾は元々”吉良ノ荘”と呼ばれていた。そう、あの吉良家の拠点である!

 

歴史の残酷さは勝者、または判官びいきによって物語られることだ。歴史に興味がない方でも江戸時代の「忠臣蔵」を知らない人はないと思われる。艱難辛苦の末、周到なまでの計画で主君:浅野内匠頭の無念を晴らした、赤穂浪人たちの仇討事件である。

仇討されたのは、元幕府の要職:”高家”を任じられていた吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)だった。その事件の概要はここでは省く・・・時の将軍:綱吉の裁断があまりに一方的という事で、赤穂藩士らが浪人となって後、幕府に対する反省を迫ったこととなるのである。庶民はじめ多くの武家でも、その行動を”快挙”として讃えたがため、吉良家はすっかり敵役となり、そのいわれが今日まで吉良の殿さまの悪評となってきた。

現地に来るといかにその後の領民が、その評価に悔しい思いをしているかが垣間見れるところがあちこちに。上野介が仇討で死去し、嫡男:佐兵衛義周は、守り切れずに自らも負傷したことで、武士道に適わずと流罪に。その死去をもって、一旦、吉良家は断絶となる。

 

 

●約10年後には遠縁の吉良家から義俊を迎えて再興となり幕末まで続く。

 

西尾市が旧吉良ノ荘と呼ばれただけに、今も吉良の地名は残る。特に菩提寺である華蔵寺境内の吉良家の墓や、周辺の道路などは”吉良ストリート”として美観・再整備されている。また寺の門前の駐車場にも上野介殿様の善政や遺徳をたたえる銅像や石碑が・・・境内にもいたわしさを嘆いて慰めた歌碑、看板の説明も入念である。「赤馬の吉良様」として赤毛の馬に乗り領地を視察する姿も、シンボリックな彫刻として、吉良ストリート内の小公園に設置されている。

確かに菩提寺もつつましい穏やかさであり、再興された吉良家も世間をおもんばかってか?華美さはどこにもない。世間とは難しいものである。

 

 

●「忠臣蔵」は双方に痛み分け、その後のことは話題にならない。

 

世間=現代までの「忠臣蔵」ファンでも、存外と浪士の遺族たちのその後に関心がある人は少ない。当時は仇討(=子が親のために討ち果たすこと)ではなく襲撃事件であったこと。幕府も偏った裁断を反省しつつも、かなり遺族には厳しい沙汰を出した。

15歳以上の遺児は伊豆大島への遠島、以下の遺児は15歳を待って遠島。恩赦が出るのに20年近い歳月を要した。その間死去したものや、許されても恵まれた仕官が叶うなど難しい問題は残った。

 

 

●刃傷沙汰の原因は今も不明、諸説は多い。

 

浅野内匠頭のこらえ性の無さや吝嗇な姿勢が、賄賂が当たり前の時代に上野介翁への欝憤となった?・・・上野介翁の病気による偶発的な感情の行き違い?・・・書画鑑定や茶器、衆道説などさまざまである。1つ面白いのは、吉良家も塩田を持ちながら、赤穂ほどの良質な塩田でなかったので、その技術指導を望んだが断られた?であろうか。

※添付の写真は、その塩田の様子を示したものである。

 

歴史は勝者の記録でもあるが、本当に見極めようとするなら現地を見ることでもあろうか?しかし現地は判官びいきかもしれないし

不明点は多い。だから面白い・・・偏った一般論だけで判断してはならないことだけは言えよう。

★池宮彰一郎氏の「四十七人の刺客」が映画化された「最後の忠臣蔵」杉田成道監督・・・は、そういう面で視聴に値する著書で映画であろう。

※余談ながら女優の桜庭ななみがとても可憐だったことを思い起こす。今も三菱地所のCMで、いかんなく魅力を発揮しているが。

 

城下町”西尾”。譜代大名が継承した要の地勢。

●三河の小京都と呼ばれた風雅が香る「城下町:西尾」。

愛知県は本当に歴史の宝庫だ。特に戦国期〜江戸時代好きの私には、興味も尽きないが探訪しないといけないところだらけ。今回は時間がなく1時間以内で行ける西尾を選んだ。愚息のアドバイスでもあり彼は3度目だったが。

 

 

01:鎌倉期に足利義氏が築城した西条城が始まりとされる。

こののち江戸時代で有名になる吉良氏と改姓する。戦国期には家康軍団の譜代家臣が入れ替わりで拡充する。本格的な城としての完成は江戸初期、太田資宗〜井伊直之時代によるが、以降、明治までは大給松平が、6万石の城下町を継承していく重要拠点であった。

現在は復元された本丸丑寅櫓と、二の丸御門:鍮(ちゅう)石門が、木造で復元され、堀の遺構とともに城跡らしさを伝える。立派な資料館があり、内容も充実しながら入場料は無料といううれしいサービス。

※史跡内の旧近衛邸では西尾の名物:抹茶が味わえ、しかも希望によっては金茶碗での喫茶が叶う。

 

02:西尾市は由来も豊かで名物が多い。

三河の東は遠江、戦国期までの代表的大名・今川氏も実はこの西尾がルーツ。さらに江戸時代の忠臣蔵ですっかり悪役イメージとなった吉良氏もここがルーツで、鎌倉時代までは”吉良荘と呼ばれていた。江戸時代は東上する反幕府軍を阻止するための重要な役目を持ちつつ、風雅を嗜む文化的な城下町、それゆえに三河の小京都と呼ばれることに。

なんといっても”抹茶”?!えっ、日本茶って宇治や静岡で、さらに全国いたるところに銘茶がありはしないか・・・と誰しも思いがちだが、古来より風雅な領主をいただいた西尾は、抹茶が生産量日本一なのだ。

※国道と並行して茶畑が野菜畑のように広がる意外な風景。段丘にうねる茶畑のイメージが一般に強いが、まるで農地という感じ。

 

03:広い面積を誇る西尾市は、南域が海に面して風光明媚さが漂う。

歴史に彩られる伝統催事が多いのも小京都と呼ばれた所以。さらに現代では佐久島クルーズ、トンボロ干潟、いきものふれあいの里、尚古荘、各記念館など見所・遊び所は多い。何より隣接の碧南市、半田市、高浜市、蒲郡市、安城市、岡崎市など、多彩な町に囲まれている点も利点だ。自市以外の魅力に触れるにもアクセスが良いのだ。

※今回は走り訪問だが、西尾市を中心に何か所をブログにしてみた。四国の人間は案外と訪ねることがない町のような気がして。

 

 

●最後に。

西尾市は人口17万人という中規模都市で、面積も愛知県では6番目とかで、まさに三河の代表的な町の一つ。本来は1日じっくりと歩いて、その風情を味わうべきだが、抹茶一杯飲まずに横切らざるを得なかったのが残念。

 

 

 

 

 

地域文化や伝統が、香り立つ”半田市”を見習いたいもの!!

●愛知県半田市ってご存じか?

 

愛知県の知多半島の付け根に位置する半田市、現在の人口約12万人の産業と交易の盛んな歴史に彩られた市。東海地区でも名だたる町あるが、我々香川の人には馴染みは薄いか?と。私が”町づくり、振興関係”で参考にしたらと思う町の一つであるが、地元で話をしても関心が深まった様子にはない。百聞は一見に如かずなのだが・・・。そういうことで以下、さらりとお知らせする次第。

 

 

●童話作家「新美南吉」と”ごんぎつねの物語”にちなんで。

新美南吉は郷土出身の童話作家。幼少期より童話に親しみ東京外国語大学卒業であるが、卒業後は童話作家に。惜しまれながら結核により29歳の若さで夭折した。作品「ごん狐」が有名であるが、記念館もそれが主体で構成されている。

 

01:記念館のデザインがユニーク。

童話の森として整備された公園内に、地中を擬した記念館となっている。新美南吉の生涯は無論、挿絵画家の紹介や、カルチャー教室など多様な施設となっている。

02:挿絵は、鈴木靖将画伯が記念事業として手掛ける。

童話のストーリーもさることながら、それを子供たちにより浸透させるには挿絵がの魅力も不可欠。記念館で物語の情景が浮かぶジオラマとともに、日本画家:鈴木画伯の手による挿絵が展示されている。

 

 

03:記念館すぐの矢勝川岸の曼殊沙華が咲きほこる美しさ。

”ごん狐”にちなんで、記念館横手の矢勝川沿いの岸辺には、曼殊沙華のじゅうたんのような景観が広がる。「ゴンの秋祭り」と銘打って300万本の曼殊沙華が咲きほこるのである。

私は30年前から、地域観光には小細工などせずに市内を流れる3本の川=財田川〜一の谷川〜柞田川の河川敷に、季節を分けて花を植えるだけで十分な観光資源になりことは伝えてきた。半田市:矢勝川の曼殊沙華はその成功例の1つ。今回は1週間早かったか?全面的ではなかったが、人・人・人の散策である。

 

 

●祭り山車は最高潮。東海地区を代表する保有数を誇っているようだ。

あと1週間遅ければ5年に一度の市内全域からの総そろい踏み=31輌の山車が集結する、荘厳で迫力のある祭りに出会えたのだが。

来場者は年々増えて、前回は53万人だったとか。

愚息の就職関係で犬山市に在留していたときに体感したが、春祭りのからくり人形を最上に備えた山車が、13輌でも50万人の動員というすさまじい祭りの中を歩いた経験がある。添付画像を見ていただければ、そのスケールに驚きかと。

 

 

01:五穀豊穣の神事だけではない、現代ならではの視点で。

半田市は湊が充実し、様々な物資や生産品の積み出し受け〜中継拠点として、中世〜近世に最盛を誇っていた。我々の郷里の太鼓台祭りは、農村が占める町ゆえ、五穀豊穣の秋祭り中心で伝統が引き継がれてきた。しかし昨今は地域の産業構造も変化し、また市民のライフサイクルも激変で、秋祭り=太鼓台文化の継承と繁栄が杓子定規のままでは存続すら危惧されてきた。

 

02:東海地区は柔軟性を感じる。

祭り屋台としては京都以東から東海地区までは、基本形は同形状に近い。ただ滋賀長浜のような子供歌舞伎の舞台(=相当手狭ながら)、犬山〜飛騨高山〜半田はから繰り人形舞台と特色が際立つ。少なからず観光目的を意識している点であろうか?

私たちの郷土「太鼓台(ちょうさ)文化は、五穀豊穣のまま、ほんの一部の春開催を除いて、95%の太鼓台は10月中で完了となる。集合の多い神社が日程で被ると、どちらかが観れないことに。当然、蠣手である若い衆は、他の町どころではないのである。

 

03:保有台数:約130台の秋祭りに人を呼び込むことは、地方にとって正か否か?

若手が毎年流出し人力に頼る太鼓台の運行や祭りそのものの開催が危惧される。1台:約7000万〜1億円以上もかかる造作の大変さ。またそれを運行するに100名を必要とすること。次世代へバトンタッチするには観光面でのしたたかな戦略が必要ではないだろうか?市内最多数の集合地区=豊浜で24台。歴史が古い観音寺で9台なのである。あまりに市内に点在してインパクトに欠ける。市制50周年記念で、市民に参加を募ったものの130数台の内50台程度となんともいわんや?!との声も・・・。

 

04:観覧に見合う文化かどうか?

東海地区の山車の多くは絡繰り人形が組み込まれた舞台をしつらえていて、多くの観衆はその演目の動きに魅了されている。無論、木彫の見事さや山車そのものの雰囲気も伝統が醸し出され素晴らしいのだが。当然、しずしずとした運行は、乱れることもなく暴れ出すこともなく、観衆は安心してその優美さに酔いしれる。

我々の太鼓台文化はどうか?造形物としての装飾美もまといながら、100名に及ぶ搔き手の暴発で喧嘩沙汰や死亡事故すら呼び込む荒々しさが、どこか自慢げでもある。また伝統と言いながら、太鼓打ちのリズムや運行〜掻き揚げの所作もどことなくあいまいで、100数十年の伝統も訝しい。

絡繰り人形は子供たちが、保存や修理を担うことで、モノづくりの基礎につながるという。さすがに我々の太鼓台も地区住民の手で補修はされるのは救いであるが。

 

 

●まだまだ類似点があるのだ・・・。

太鼓台文化を支える観音寺市&三豊市は、もともと同じ生活圏で合計12万数千人。太鼓台数でいえば150台を超す。また産業は多彩で、過去には上場企業も存在しながら、故有り今は中堅企業群となっているが、冷凍食品の国内最大の生産地。また同じ太鼓台文化を担う四国中央市(=愛媛県)は、衛生材〜製紙メーカーの世界最大の拠点。半田市は醸造関係の多い東海地区では酢で有名なミツカンさんの企業城下町である。

また新美南吉氏ではないが、美術においても「門脇俊一画伯、田中たかし画伯」を生んだ郷土でもある。・・・よくよく見ると類似性がありながら、なぜか半田市のような集客はない。産業基盤の規模や隣接する市町村の人口規模が東海地区とは比較にはならないが・・・言い訳や目移りしてばかりでは、地方振興のキーポイントを見逃してしまうのでは???

 

いつもそう思う半田市での半日だった。

 

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